ネズミと彷徨うメルヘンの森
森は、想像していたよりもずっと静かだった。
鳥の声もない。
風の音も弱い。
そのくせ、やたらと視線を感じる。
数日前、魔女の城で最低限の旅支度を整え、ようやくこの森へ辿り着いた。
途中の村や町で、白雪姫や七人の小人たちについて聞き込みをした結果、どうやら彼らはこの森にいるらしいと分かった。
ただし、その代償は大きかった。
食料もお金も、ここに来るまでに使い切ってしまった。
――もう、ギリギリで生きている。
「……童話の森って、もっとメルヘンじゃなかったっけ?」
黒岩ユキはフライパンを握り直しながら、慎重に歩を進めていた。
魔女の城を出てから、どれくらい時間が経ったのか分からない。
ただ一つ確かなのは――
私は今、白雪姫を殺せと言われているという事実だ。
「自分で蒔いたタネ……か」
あの瞬間の自分の言動を思い出し、げんなりする。
「そもそも殺しに行くならさ、毒リンゴ持たされるとか、説明とか、手順書とかないの?
丸投げすぎない?」
そのときだった。
「……おい」
足元から、やけに落ち着いた声がした。
「ぴゃあああああ!?」
ユキは飛び上がり、反射的にフライパンを振り下ろしかけて止まる。
そこにいたのは、一匹の銀色に輝くネズミだった。
――いや、正確には「ただのネズミ」ではない。
「ちょ、待て! 振り下ろすな!
これ以上器を壊されたら、今度こそ終わる!」
「しゃ、しゃべった……」
ネズミは小さく咳払いをする。
「……改めて名乗ろう。
私こそが“あの鏡”の精霊だ。
おまえに破壊され、近くにいたこのネズミへ入り込むしかなかった……」
「……え!?
あの時の声って、あなただったの!?」
空耳だと思い込んでいた、あの断末魔の正体が目の前に現れていた。
「あなた、なんであの時、正体を現さなかったの?
私が偽物だって言えばよかったのに……」
鏡の精は、鋭い目でユキを見上げる。
「魔女から逃げたかったからな」
即答だった。
「最初は何てことをしてくれたんだと怒りが湧いたが、
よく考えたらこれはチャンスだった。
――あの魔女から解放される、な」
怒ったり、喜んだり、感情が忙しい。
「魔女の手先じゃなかったの?」
「無理やり連れてこられていたのだ。
力を悪用され、うんざりしていた」
鏡の精は吐き捨てるように言う。
「しかも、あの魔女はヒステリックでな。
いい歳して自分の機嫌を他人に取らせようとする、典型的な“こどもおばさん”だ。
私は毎日、必死で機嫌取りをさせられていた」
「……あなたも苦労してるのね」
「まあな。
それより――急がないと、おまえ本当に死ぬぞ?」
ユキは足を止めた。
「それ、どういう意味?」
「この世界は、すでに歪み始めている」
鏡の精は低い声で続ける。
「本来、私は“真実”を映す存在だ。
だが器を失った今、真実は行き場をなくしている」
「……それって」
「白雪姫も、魔女も、
この世界そのものも、正しい結末に辿り着けない可能性がある」
ユキの背中に、嫌な汗が流れた。
「私……元の世界に戻れるの?」
「さあな。
元の世界と言われても、私にはさっぱり分からん」
「……だよね」
ユキは深く息を吸い、前を見据えた。
「とにかく、やることは一つだよ」
フライパンを肩に担ぎ、はっきりと言う。
「白雪姫を助ける。
それで物語を、正しい流れに戻す」
鏡の精はしばらく黙っていたが――
やがて、呆れたように息を吐いた。
「……やれやれ。
仕方ない。おまえに着いていくとするか」
「一緒に協力してくれるの!?」
「まあな。
私も、鏡に戻る方法を探したいからな」
そのとき、森の奥から微かに聞こえてきた。
――陽気な合唱の声。
――♪ ハイホー ハイホー 仕事が好き~ ♪
「……ねえ」
ユキが呟く。
「今の歌、もしかして――」
鏡の精は、聞いたことのない歌にきょとんとした。
「大人数でえらく楽しそうだな。
そんなに仕事が好きなのか?
きっと良い雇用主なんだろう。
……こどもおばさんとは大違いだ」
そして、小さく肩をすくめる。
「悪党ではなさそうだし、行ってみるか」
こうして黒岩ユキと、ネズミの姿をした魔法の鏡は、
七人の小人たちが待つ“本来の物語の中心”へと足を踏み入れるのだった。




