置き傘
私のデスクの端には、ずっと前から置きっぱなしの黒いビニール傘があった。
長さはやや短め、骨が細く、取っ手には擦れた跡がいくつもある。安物だが、妙に存在感がある。
入社した頃からそこにあったのか、気づけばいつもそこにあったのか、自分でもはっきり思い出せない。
梅雨の時期、私は何度かそれを借りた。
「誰のか知らないけど助かるよね」
そんな軽い気持ちだった。
八月の終わり。
残業で終電を逃したある金曜、外は急な雷雨になっていた。 私のビルはオフィス街の外れにあり、深夜になるとほとんど人が通らない。
雨は横殴りで、ビルのガラス越しに稲妻が走るのが見えた。
帰ろうとデスク下の鞄を取ろうとしたとき、目に入った。
あの黒い傘が、私の足元に立てかけられている。
前回見たときはロッカーの奥に押し込まれていたはずだ。
「……なんで、ここに?」
少し気味が悪かったが、濡れるよりはマシだと取って開いた。
開いた瞬間、むっとする湿った匂いが鼻をついた。
生乾きの洗濯物の匂いに、腐葉土のような甘ったるい匂いが混じっている。
夜道を歩くうち、だんだんとその匂いが濃くなっていくのを感じた。
何度か傘を傾け、雨で匂いを流そうとしたが無駄だった。
交差点で信号を待っていると、向かい側にいたスーツ姿の男が、じっとこちらを見ていることに気づいた。
目が合うと、男は小さく口を動かした。
「いる」
聞き間違いかもしれない。けれど、男はすぐに踵を返して走り去ってしまった。
その晩、傘を玄関の外に置いて眠った。
しかし翌朝、傘は私の部屋の中にあった。
しかも、玄関マットには泥の足跡が二つ並んでついていた。
怖くなって出社すると、デスクに座った同僚が私の足元を見て眉をひそめた。
「南条さん、その傘……どこで拾ったの?」
「え? ずっと会社にあったやつですけど」
「……先月の事故のこと、知ってる?」
彼女の話によると、ビルのすぐそばで女性が車に撥ねられ、即死したという。
深夜、黒いビニール傘を差して歩いていたらしい。
遺族が遺品を探していたが、傘だけは見つからなかった。
その日から、傘は私のいる場所へ勝手に現れるようになった。
会議室、給湯室、トイレの個室。 いつも取っ手には濡れた土がこびりつき、先端から水がぽたぽたと垂れている。
ある夜、社内で資料をコピーしていると、背後から傘が開く音がした。
振り返ると、そこには黒い傘が広がっていた。
内側には、濡れた長い髪と、うつむいた女の顔が張り付いていた。
口元から、ぽたりと泥水が落ちる。
気づけば、私は傘を手にしていた。
女の顔はもう見えない。
でも、傘の内側からは、微かに湿った息遣いが聞こえている。
そのまま傘を閉じられたら、私はどうなるのだろう。
考えるのも恐ろしくて、私は開いたまま傘を地面に置き、全力で会社を飛び出した。
振り返らなかった。
それから三日後。
出社すると、私の椅子の背もたれに、あの傘がかかっていた。
取っ手からは泥水が、ぽたり、ぽたりと、じゅうたんに染み込んでいた。