ツンデレ侯爵令嬢の溺愛契約結婚
「契約結婚をしないか?」
と私に持ち掛けてきたのはアビデン侯爵家の嫡男、エリーシウスでした。
……私は数秒考えてこう返答しました。
「バカなことを言わないで下さいませ」
私はケライネン侯爵家の長女イリヤーネ。エリーシウスとは一応、幼馴染でございます。
エリーシウスの提案を言下に切って捨てた私は歩き去ろうとしたのですが、その腕をエリーシウスが掴みました。
「待ってくれ! イリヤーネ!」
「軽々しく私に触れないで下さいませ。誰かに見られたらどうするのですか」
ここは舞踏会の会場です。会場の隅の軽食コーナーですから人目には付きにくいですが、エリーシウスと仲良くしているなどと思われると後が厄介です。
「お祖父様に知れたらお互い叱られますよ」
私の言葉に、エリーシウスは頷きました。
「それだ。その事だ。それの相談をしたいのだ。聞いてくれ、イリヤーネ」
エリーシウスの茶色い瞳は真剣でした。うーん。彼の事は幼い頃から知っていますし、あんまり邪険に追い払う気にもなれません。私は仕方なく言いました。
「分かりました。手短にお願いいたしますよ」
エリーシウスはパーっと表情を輝かせました。
「分かった。さ、ここに座ってくれ」
彼は私を会場横の談話席に導き、従僕に命じてカーテンを閉めさせました。こういうカーテンで区切られた談話席は密談用に、舞踏会の会場にはいくつか用意されているものです。もちろん、男女の逢瀬にも使われます。
エリーシウスはテーブル向こうの私の正面に座ると、表情を緩めました。
「話を聞いてくれて嬉しいよイリヤーネ」
彼の顔を見てるとなんかこう、お尻の辺りがモゾモゾして落ち着かない気持ちになります。私はあえて不機嫌そうな顔を作って言いました。
「早く要件を言って下さいませ。こんなところをお祖父様たちに見られたら……」
「そう。そのお祖父様たちだよ」
エリーシウスはフーッとため息を吐きました。
「お祖父様たちの関係は悪くなる一方だ。このまま両家の関係が悪化して、致命的な対立にまでなってしまうと、大変な事になるよ」
私は眉を顰めます。
「大変なこと?」
「ああ。我がアビデン侯爵家もケライネン侯爵家も、貴族界の和を乱したとして罰せられる可能性が高い」
……無いとは言い切れません。王家は常に、有力貴族家の勢力を減退させることを狙っています。王家の優越を守ためですね。
有力侯爵家たる両家が無用の諍いを起こしたとなれば、罰として領地の一部没収くらいは命じられるかもしれません。それは確かに憂慮すべき事態ですね。
「なるほど。そのお話は分かりましたけど、それとその、契約結婚? がどう繋がってくるのですか?」
よくぞ聞いてくれた! とばかりにエリーシウスが身を乗り出します。私は身を引きます。
「それだよ! イリヤーネ! 両家の融和の為には、私と君が結婚すればいいと思わないかい?」
……私は半眼でエリーシウスを睨みます。
「思いません」
エリーシウスは肩を落としかけ、しかしなんとか踏み止まって更に言いました。
「だって、私と君が結婚すれば両家は親戚だ。それに私と君が仲睦まじくしているのを見ればお祖父様たちだって啀み合うのは止めよう、と思うようになるよ!」
……言っている事は分からないでもありません。関係の悪い家同士があえて婚姻を結び、それによって関係改善を図る事はよくある事です。あのお祖父様たちに通じるかは別として。
でも問題はそこではありませんね。
「なんで私が貴方と結婚しなければならないのですか。エリーシウス。貴方、私に何をしたか忘れたのではないでしょうね?」
エリーシウスは仰け反ります。
「わ、忘れてはいないさ。すまなかったと思ってる。何回も謝ったじゃないか」
「とても許せません。あんな事をした貴方と結婚なんて願い下げです!」
私が言い切ると、エリーシウスは今度こそガックリと肩を落としました。しかし、それでも気持ちを振り絞るような様子でこう言います。
「わ、分かっている。君が私と結婚などしたくないという事は。だからこその契約結婚の提案なんだよ」
……? どういう事なのでしょう。私が少し興味を持った事を察したエリーシウスは、必死に詳しい説明を始めました。
◇◇◇
元々、ケライネン侯爵家とアビデン侯爵家の関係が悪化したのは、両家の先代、つまり私とエリーシウスのお祖父様が原因でした。
このお二人は昔からそれ程お仲がよろしくはなかったそうなのですが、それでも若い頃は貴族界の融和を考え、表面的な儀礼的な関係は築けていたそうです。
しかしこれが十年ほど前に、儀式の時の席を間違えたとか足を踏まれたとか、あるいは晩餐会の料理の量が少なかったとか多かったとか、一件一件はどうでも良いようなトラブルが重なりまして、それでお祖父様たちは「顔も見たくない!」と公言するほど関係が悪化してしまったそうです。
これが個人の問題に収まれば良かったのですが、何しろ当人たちは前侯爵。一族のゴッドファーザーです。二人の敵意は一族全員に伝染してしまいまして、今やケライネン、アビデン両家一族は有名な犬猿の仲になってしまったのでした。
大貴族である侯爵家同士の対立は国家的な大問題です。内戦でも始められたら安全保障上の大問題になってしまいます。王家が問題視するのも当然でした。
関係を改善しなければ両家とも罰を受けかねないというエリーシウスの懸念はもっともなものでした。そして急激に関係を改善するには思い切った事を、例えばケライネン侯爵家第一令嬢の私が、アビデン侯爵家に嫁入りするくらいの荒療治が必要だという意見も分からなくはありません。
しかし……。
「分かってる。君が私の事を嫌い、嫁入りなんてとんでもないと思っている事は分かっているつもりだ」
エリーシウスは必死の表情で言いました。
「そこで、契約結婚だ。見せ掛けだけ、お祖父様たちを欺くために、形だけの結婚をしようという提案なのだ」
つまり、結婚した「ふり」をして「両家は婚姻を結んだのだから、仲良くしなければダメですよ!」とお祖父様たちにアピールするのです。
「そんなの上手く行くかしら」
「お祖父様たちは私にもイリヤーネにも甘いではないか。きっと上手く行くさ」
確かにお祖父様は私を可愛がって下さいます。アビデン前侯爵もエリーシウスを溺愛しているという噂です。その私たちが結婚して「「私たちの幸せのためにも仲良くして下さいお祖父様」」と言えば、少なくともお祖父様たちも表面上の関係くらいは修復してくださるかもしれませんね。
悪くはない考えに思えてきましたけど……。
「……その、契約結婚というのは何なのですか? 普通の結婚と何が違うのですか?」
私の問いにエリーシウスは慎重な表情で頷くと言いました。
「愛のない結婚なのだから、ちゃんと、その、夫婦になる必要はない。白い結婚で。私は君に手も触れぬ。それは約束する」
……肉体関係のない、形だけの結婚という意味ですね。
「だが、表立っては夫婦として過ごしてもらう。社交や儀式は夫婦として出席して欲しい。両家の融和を示さねばならないからね」
「社交でお互い手も触れぬのは難しいと思いますけど」
「そ、それは言葉の綾だ。それくらいは許して欲しい」
他にも不仲の噂が立ったら困るから、朝食は共にして欲しいといいます。普通の夫婦と違うのは寝室を別にする事だけ、という事のようです。
……むぅ。私は考え込みます。両家のためには良い提案ではあると思うのですが、事は私の結婚です。今の私には恋人も何もいませんから、契約結婚するのに障害はありませんけど。
でも私だっていつか、想い合う殿方と幸せな結婚がしたいです。契約結婚とはいえ結婚ですから、もしも素敵な殿方が現れてもその方とホイホイお付き合いする訳にはいかなくなるでしょう。
それに離婚すると女性は再婚し難くなってしまいます。白い結婚だったと言っても信じてもらえるか分かりませんし。理想の殿方と結婚出来なくなるのはちょっと……。
悩む私を見てエリーシウスが言いました。
「まずは、一年だけだ。それ以降、君に好きな相手が出来た場合は即座に契約結婚を解消しよう。その際には私から相手に『私との結婚は白い結婚でイリヤーネは清い身である』と説明するよ」
私は今、十七歳です。一年後には十八歳。恋も結婚もまだまだ十分出来るでしょう。良い殿方に巡り合ったら直ぐに契約結婚を解消して、その方と結婚出来るのであれば、それほど大きな問題にはならいのではないでしょうか。
「……その場合、両家の融和はどうなるのですか?」
「それは私が何とかするから君は気にしないでいい」
……断定的な言い方が少し引っ掛かりましたけど、エリーシウスに考えがあるのでしょう。一度融和してしまえば、お祖父様たちが再び仲違いしても、両家が致命的な対立には陥らないと踏んでいるのかもしれません。
後は、私の気持ち一つ、という事になりますね。
私はエリーシウスを見つめます。薄茶色の髪に明るいグレーの瞳。顔立ちは朗らかに整っていて、背も高いです。社交界の女性たちにはかなり人気があります。
幼馴染ですから(両家の関係悪化前にはよく遊んだのです)性格が良いこともよく知っています。「あの事」がなければ今でも良い友人だったでしょうね。あの事件で私が一方的にこの人を毛嫌いするようになったのですが。
嘘を吐くような性格ではありませんし、両家の事を強く憂いているのも本当でしょう。約束を破るとも思えません。
……何だかソワソワしますよ。嫌な感じではありませんけど、だんだん頭が熱くなって考えがまとまりません。うーん。
そして私は熱くなった頭でうっかりこう言ってしまったのです。
「わ、分かりました。契約結婚に応じます。い、一年だけですよ!」
すると私の言葉が終わるより先に、エリーシウスが立ち上がって天に向かって吠えたのです。
「や、やったー!」
エリーシウスは席を立って私の横にやってくると跪いて、私の手を取ると、それを額に押し抱きました。
「あ、ありがとう! イリヤーネ! 嬉しい! 嬉しいよ! 必ず君を幸せにするからね!」
そしてキラキラ輝く瞳で私の事を見詰めます。私は思わずのけ反ってしまいました。
「か、勘違いしないでよね! 契約結婚! 契約なんだからね! あ、貴方を許したわけじゃないんだから!」
しかしエリーシウスは聞いているのかいないのか、涙を浮かべた幸せそのものの表情で、私の手の平に熱い唇を押し当てていました。
◇◇◇
こうして、私とエリーシウスは契約結婚をしました。
もちろん、結婚するのは簡単ではありませんでしたよ。ケライネン侯爵家、アビデン侯爵家は啀み合っているんですもの。家族中、一族中が大反対でした。
ですからこれを私とエリーシウスとで説得して回らなければなりませんでした。説得に使ったのは「愛」です。
「愛し合ってしまったのだから仕方ないでしょう!」と言い張ったのです。エリーシウスと、私とでです。
……私的には非常に抵抗があったのですが、そう言わないと両家の融和にならない、と言われればそうするしかありません。私とエリーシウスが愛し合って結婚してこそ、この結婚は両家の和解の象徴になり得るのですから。
お父様にもお母様にも次期侯爵である弟にも大反対され、それを「愛」の一言でねじ伏せて押し切らねばなりませんでした。エリーシウスの事を讃え彼への愛情を涙ながらに訴え……。
途中で何度も馬鹿馬鹿しくて放り出しそうになりましたよ。なんで私がこんな事をしなければならないのですか! なんで私がエリーシウスの事を愛してるなんて言わねばならないのですか!
しかしエリーシウスの方は何度も何度も我が家に足を運んでは、お父様お母様に弟に頭を下げ「どうしようもなくイリヤーネを愛してしまったので、お願いだから結婚させて欲しい!」と熱く熱く訴えました。
その情熱たるやとても演技とは思えぬ程で、事情を知っている私でも不覚にも頬が熱くなりましたよ。事情を知らぬお父様やお母様はすっかり感服し、弟などは感動して席を立ってエリーシウスの手を取り「そこまで言ってくれるのなら、是非私の義兄様になってください!」と言ったくらいでした。
私もアビデン侯爵家を訪問しまして嫁入りさせてくれるように頭を下げましたよ。最初は難色を示したアビデン侯爵ご夫妻でしたけど、私が「エリーシウスを愛してしまったのでどうしてもお嫁に参りたい」と涙ながらに言うと、お二人とも感動の面持ちとなり、私の手を取ると「こちらこそ、エリーシウスをよろしく」と仰って頂けました。
その他の一族の者たちのところも回って、私とエリーシウスは私たちの結婚と、両一族の融和を訴えました。すると、意外なほどあっさりと一族の者たちは私とエリーシウスの結婚を認めて祝福してくれました。
どうやら、両家の対立に懸念を持っていたのは私たちだけではなかったようですね。それでこれは良い機会だと皆考えたのでしょう。
残る問題は一つでした。そうです。お祖父様たちです。両家対立の根本原因です。この二人を説得出来なければ、私たちの結婚は不可能でしょう。
もちろん、双方の前侯爵共に烈火の如く怒りましたよ。大反対というか聞く耳持たないと言いましょうか。二人とも「そんな事を言い出すなら一族から追放する!」と叫んだそうです。
まずは私もエリーシウスも自分のお祖父様を宥めるところから始めました。二人とも、こう言っては何ですがお互いのお祖父様に超溺愛されて育っています。
王都郊外の前侯爵邸を訪れ、私はお祖父様に結婚の御許可を頂けるようにお願い致しました。
「どうしたというのだイリヤーネ。其方はアビデン家の息子を嫌っていたではないか」
……ごもっともです。つい先日まで私はエリーシウスを避けて歩いていましたから。それが急に「愛しているから結婚させてくれ」と言い出すのは不自然でしょう。私は正直に言いました。
「これ以上両家の関係が拗れると、王家に罰せられると思ったのです。この結婚は両家の関係改善のためなのです」
私が言うと、お祖父様はむぐっと息を詰まらせました。両家の関係が悪化したのは自分のせいだという自覚はあるのでしょうね。
「で、では、エリーシウスの事を愛しているわけではないのだな?」
お祖父様の問い掛けに、今度は私が息を詰まらせます。これまでのように嘘を吐けば良いだけなのですが、お祖父様には可愛がって頂いております。嘘は吐きたくありません。
それに、お祖父様は長年貴族社会で鍛えられた眼力をお持ちです。下手な嘘はすぐバレてしまうでしょう。
嘘がバレて、私が無理して両家の関係改善のための人身御供として嫁ぐのだ、と思われても大変です。私を愛してくださるお祖父様が逆に大反対になってしまう可能性があります。
私はちょっとお祖父様を正視出来なくなり、そっぽを向いてゴニョゴニョとこう言いました。
「……別に、そういうわけではありません」
エリーシウスと私は二人して、二人の前侯爵を何度も訪問して結婚の御許可をお願い致しました。アビデン前侯爵は最初は非常に困ったお顔をなさっていましたね。この方とは幼少の頃に面識がございます。
「其方が我が家に嫁に来たら、ケライネン前侯爵が怒るであろう」
と気遣って下さいました。逆にお祖父様もエリーシウスの事を困った顔で見て仰いました。
「アビデン前侯爵は其方の嫁は王族から娶ると言っていた筈だが……」
お二人ともなかなか首を縦に振っては下さいませんでしたけど、一ヶ月もの間何度も何度も訪問してお願いした結果、ついに折れて、二人は私たちの結婚の御許可を下さったのでした。
エリーシウスはそれはもう喜びましたね。私としてはこれでもう両家の和解という、契約結婚の目的は果たしたのだから、結婚しなくても良いのではないかと思いましたけど、さすがにそれは口に出せませんでした。
侯爵家同士の結婚ですから結婚式は壮麗な物になります。何しろ半年掛かりで準備をするのです。しかも先だってまで強く対立していた両家ですから対抗意識も強くて、お互い相手に負けてなるものかと費用を注ぎ込むものですから、結婚式の規模はどんどん拡大していったのです。
啀み合う両家が婚姻の形で対立を解消することは王家にも歓迎されまして、結婚式には国王陛下と王太子殿下がご夫妻でご出席下さる事になりました。そうなると式場は王都の中央神殿になりますし、高位貴族の皆様はこぞって出席なさる事になります。
……こんな大規模なお式を挙げておいて、一年で離婚するなんて真似が出来るのでしょうか? 私は危惧したのですが、エリーシウスの方はお式もですけど、アビデン侯爵邸に整える二人の新居にも大変力を入れて整備をしていましたよ。
私の希望を何でも容れて、私の思い通りの新居にすべくエリーシウスは頑張ってくれました。まぁ、私の一番の希望はなるべくエリーシウスの部屋から遠いところに私の私室を頂く事だったのですけど。
こうして準備万端整えて、私とエリーシウスは盛大な結婚式を挙げて「契約」結婚をしたのです。
華麗な結婚衣装を着て、凛々しい花婿姿のエリーシウスと共に女神様に誓いを立てて、私たちは両一族と来賓の皆様の万雷の拍手の中で夫婦になったのです。
……誓いのキスはちょっと緊張しました。ですけど、エリーシウスは私を抱き寄せると、唇にキスすると見せ掛けて私の頬にサッと口付けをしたのです。
ちょっと驚いてしまった私に、エリーシウスは少し悲しそうな顔でこう言ったのです。
「君が嫌がることは、もう二度としないよ」
……私は何とも言えない気分になって、エリーシウスから目を逸らしたのでした。
◇◇◇
私は嫁入りし、次期アビデン侯爵夫人となりました。アビデン侯爵家には侯爵、侯爵夫人、そしてエリーシウスの姉である私より二つ上の第一令嬢がいらっしゃいました。
ご家族の皆様は私の事を暖かく歓迎して下さいましたよ。そもそも私は婚約以来、毎週のようにアビデン侯爵邸を訪れて皆様と交流していましたからね。もう蟠りはどこにもありません。
特に義理の姉であるビリヤーヌ様は私を可愛がって下さいました。この方とは幼少時からエリーシウスと共に遊んだ事もありますからね。
ビリヤーヌ様は言いました。
「前から貴女とエリーシウスが結婚すればいいな、と思っていたのよ。昔は仲が良かったし、お似合いだなって」
私は曖昧に微笑みました。仲良しのお義姉様とはいえ、契約結婚の事情は明かせませんからね。
「エリーシウスは元々貴女にベタ惚れだったしね。一時期貴女に冷たくされて、それはもう凹んでたのよ」
……私にエリーシウスが惚れてた? 初耳です。私はビリヤーヌ様に言います。
「彼には幼少時から意地悪されたりイタズラされたりした記憶しかないのですが……」
「それは気になる娘にちょっかいを出したくなる、という男の子の習性みたいなものよ」
好きな相手の気分を害するような事をしたら、嫌われる一択だと思うのですが。男の子というのはバカなのでしょうか。
「貴女に『大嫌い!』と言われたと泣いていた事もあったっけね。そこからよくぞ結婚まで持ち直したわよ。よっぽど貴女の事が好きだったのね」
……あんな事されたら乙女なら絶対に許せない、大嫌いだと言うと思います。未だに許した訳ではございませんよ。
私は内心プリプリと怒っていましたが、ビリヤーヌ様は続けて意外な事を仰いました。
「貴女も幸せそうで良かったわ。両家のために無理に嫁いで来たのでは可哀想だと思ったけど、そうじゃなくて安心したわ。私も貴女みたいに幸せになれる夫を捕まえなくちゃね!」
……ビリヤーヌ様だけではありません。実は、結婚後に社交に出ますと、お会いする皆様が口を揃えてこう仰るのです。
「幸せそうで良かった」「表情が結婚してから穏やかになった」「素敵な結婚で羨ましい」
と。
……幸せ、なのでしょうか? 確かにアビデン侯爵家の皆様は良くして下さいますし、使用人の皆も尊重して丁重に扱ってくれて居心地は良いです。
なによりエリーシウスがとにかく私を大事に丁重に愛情込めて扱ってくれるのです。子供の頃にはわんぱくで意地悪をしては私に嫌な思いしかさせなかった彼はどこへやら。その姿は完璧な紳士でした。
私たちは別の寝室で起きると、夫婦の食堂で一緒に朝食を摂ります。その際彼は、使用人には任せず必ず自分で私の椅子を引いてくれます。
食事中、片時も私から目を離さず、凛々しい顔を柔らかに微笑ませながら、私の話を嬉しそうに聞いてくれます。
これは晩餐会でも一緒です。舞踏会では夫婦一緒に、彼に手を引かれて入場するのですが、そこからもほとんど私から離れません。椅子を引くのも軽食を取るのも飲み物をオーダーするのも人任せにしません。必ずエリーシウスが自分でやってくれるのです。
舞踏会だと夫と踊った後は他の男性とも踊るものなのですけど、私が若い男性(既婚の男性であってもです)と踊ろうとすると、エリーシウスが必ず妨害に来ます。若い男性と談笑しようものなら私の腕を引っ張って止めさせようとする始末です。
皆様は「愛されていらっしゃる」と笑って下さいますが、これでは契約結婚終了後を見据えた恋人探しなど出来そうもありません。私はエリーシウスに文句を言おうとも思ったのですが……。
私を優しく幸せそうに見守るエリーシウスの表情を見てしまうと、私にはどうもそれが出来ませんでした。彼の方も結婚前はかなり女性にモテていたと思うのに、結婚後は若い女性を一切側に近付けさせないようになりました。既婚男性なら愛人を探してもおかしくはない筈ですのに。
私たちはアビデン侯爵家の皆様に契約結婚を悟られないように、寝る時は一緒の寝室に向かうと見せ掛けて、扉の前で各々の寝室に分かれます。その際にはエリーシウスは私の事を切なそうな瞳で見つめ、そして私の手の平に口付けをして「愛しているよ。イリヤーネ」と言うのです。
……結婚して二ヶ月もすれば、エリーシウスの愛情が契約結婚を糊塗する見せ掛けだけのものではない事が分かってきました。分かってきてしまいました。彼の愛は誠実で真剣で切実でした。私は狼狽えましたよ。なんで? 私との結婚は契約結婚の筈なのに……。
……理由が分かったのは結婚して半年後、友人とのお茶会の席でした。ハイミック伯爵令嬢のフェリミーユとは幼少時からの付き合いで、彼女もエリーシウスの幼馴染です。
フェリミーユは言いました。
「結婚生活は上手くいっているみたいね」
……長い付き合いの彼女なら、私の嘘は見抜けるでしょう。その彼女が言うのですから、私はどうも本当に結婚生活に満足しているように見えるみたいです。
「あーあ、上手くいかなかったら私がエリーシウスと結婚しようと思っていたのになぁ!」
フェリミーユが嘆きます。……え? ちょっとそれは聞き捨てならない言葉でしたよ?
「……上手くいかなかったら?」
フェリミーユがしまったというように扇で口を塞ぎました。むむむ、っと私が睨むとフェリミーユが舌を出します。
「私が提案したのよ。契約結婚」
フェリミーユ曰く、私を愛しているのに私に嫌われていたエリーシウスは、何かというと幼な馴染みのフェリミーユのところで愚痴を溢していたのだそうです。
内心、エリーシウスへの嫁入りを狙っていたフェリミーユはこれ幸いと相談に乗ってはいたものの、私への惚気と嘆きしか言わない彼に嫌気がさし、ついにこう提案したのでした。
「両家の融和を口実に、見せ掛けだけでもいいから結婚してくれ、って言ってみたら? 契約結婚よ」
長女としての責任感が強い私にお家の未来のためと説得すれば恐らく断らないだろう。そうすれば強制的に一緒にいられるのだから、契約期間内にいくらでもアプローチすればいい。
そんないい加減なアドバイスを真に受けたエリーシウスは私に契約結婚を持ち掛けた、という訳なのでした。もちろん、フェリミーユは契約結婚が成立するわけがないし、もし成立してもエリーシウスを嫌う私との結婚生活が上手くいく筈がない、と思っていたのですが……。
「そんなに幸せそうでは、結婚解消は難しそうね。私もいい男捕まえられるように頑張らなきゃ」
フェリミーユはヤレヤレという感じで言ったものでした。
どうやらこの結婚を愛のない契約結婚だと思っていたのは私だけで、エリーシウスの方はこの契約期間中に私をどうしても振り向かせてみせる、と決意しての結婚だったようです。
道理で結婚式や新居にあれほど力を入れていた訳です。最初から契約結婚を一年で終わらせる気などなかったのでしょう。私が彼と本当に結婚する気になるまで、何年でも契約結婚を延長する気だったに違いありません。
……困りました。何が困るかといって、どうやら私は客観的に見て大変幸せな結婚生活を送っているらしいからです。
この状態で約束通り契約満了で離婚したら、周囲は驚き奇異に思うでしょう。特に、エリーシウスの私への愛情は誰の目にも明らかですから、離婚となった場合、それは私の意思だということが皆様に分かってしまう事になります。
その場合、私に理由が必要です。契約結婚だから約束通りなのだ、とはまさか言えません。エリーシウスに不満がある。結婚生活に不満がある等の誰もが納得する理由がなければなりません。
……不満は……、ありませんね。
結婚生活は夫の家族にも暖かく迎えられて穏やかですし、幸せです。義両親との確執に苦しむ嫁も少なくないと言いますから、私は恵まれていると言えます。
結婚によりアビデン、ケライネン両侯爵家の関係は劇的に改善いたしました。お祖父様同士でさえ、挨拶は出来るくらいになったと聞きます。
そしてエリーシウスは、ちょっとやり過ぎなくらい良い夫です。あれほど妻を大事にし愛してくれる夫はそうはいますまい。私のちょっと冷たい態度にもまったくめげる様子もなく、ずっとひたむきに私を愛してくれます。
……正直、嫌ではありません。自分でも幸せを感じていないと言ったら嘘になるでしょう。これが契約ではなく本当の結婚だったら、と思った事はあります。
フェリミーユの話が本当なら、エリーシウスは私を振り向かせるために契約結婚を計画したのです。私が本当に結婚すると言えば大喜びで同意してくれるでしょう。
……でもねぇ。私はまだちょっと蟠りがあったのです。
エリーシウスとは幼馴染で、その頃には彼とは楽しく遊んだ思い出と共に、意地悪されたり悪戯されたりした記憶があって、彼には好意を持てませんでした。
それと、例の件です。彼を決定的に毛嫌いするようになった件です。あの事がどうしても引っ掛かります。それで私はどうしても彼の想いに応える気にならなかったのでした。
◇◇◇
そうこうしている内に、結婚一周年を迎えてしまいました。つまり、当初の約束である契約結婚の満了の日です。
その日の朝食の席で、エリーシウスは真っ青な顔をしていました。今日がどんな日なのか、重々分かっているのでしょうね。
私は素知らぬ顔で黙々と朝食を食べました。
そして、食後のお茶を前にして、私は決心して言いました。
「エリーシウス」
「……ハイ」
「契約結婚は今日で終了という事でよろしいですね」
その瞬間、エリーシウスは見るも悲しい、情けない顔をしました。凛々しい顔立ちが台無しです。目も潤んでしまっています
その表情を見て、私は自分の心が大きく掻き乱されるのを感じながら、無理やりそれを押さえ付けました。
「約束通りではありませんか。なんでそんな顔をするのですか?」
エリーシウスはガバッと立ち上がると、席を立って私の元へ来て、膝を突くと私の手を取りました。
「イリヤーネ! 愛している! 愛しているのだ! 私と結婚を続けてくれ!」
その手は熱く、表情は必死で、言葉は真摯でした。彼の熱烈な愛情は疑うべくもありません。疑いませんよ。私はもう一年も彼の愛を浴びるように受け続けてきたのですし。
「……どうしてそれを、正直に一年前に言わなかったのですか? なんで契約結婚などと……」
「だって私は君に嫌われていたから! あの頃の私の声は何をしても君には届かなかっただろう? だから……」
もっともですね。あの頃の私なら、彼に愛情を向けられても言下に拒絶したでしょう。してみると、彼の作戦は大成功だったという事になります。今の私は彼の言葉にグラングランと心が揺れているのですから。
ですけど……。
「貴方、その私に嫌われた理由、事件は覚えていますか?」
私に問われて、エリーシウスは見るからに怯みましたけど、それでも彼は前に進みました。
「お、覚えているとも。あの時は本当に済まなかった。だけどアレも、本心だったのだ。本心が酒のせいでうっかり出てしまったのだ! あの頃から私は本当に君を愛していたのだ!」
……四年前、エリーシウスと私は同時に十五歳になり、成人の祝祭を受けました。
その宴の席で、初めての酒に酔っ払ったエリーシウスが私に抱き付き「イリヤーネ! 大好きだ!」と言いながら唇にキスをしたのですよ。
唇のキスは結婚式まで許されないものです。純潔を奪われた私は激怒してエリーシウスを嫌うようになったのです。
「そんな事を言われても許せるものではありません。反省しているのですか?」
「し、している。反省しているとも! 二度と君の嫌がるような事はせぬ。私はそう誓ったのだ」
結婚式であえて唇へのキスを避けましたものね。それ以外の時でも、頬へのキスもせず私を抱き締める事もしていません。あれ程私に愛情を浴びせながら、彼は完璧に自分の衝動を自制してみせたのです。私の気持ちを慮っての事であるのは明らかでした。そして私にも、彼の気遣いは良く分かっていました。
そして私の気持ちも、もう明確になっていました。彼の気遣いに免じて過去の蟠りを捨てれば、私の中に残るの気持ちはもう一つしかなかったのです。
それでも私は気に入らなくて、恥ずかしくて、彼の顔をしっかりとは見ていられませんでした。
「……契約結婚は解消します。ですから、もう一度最初からやり直して下さいませ」
「は?」
エリーシウスがさすがに意図を測りかねたような間抜けな声を出しました。察しが悪いですね。この人は昔からそうなのです。
「私と本当に結婚する気があるのなら、ちゃんとプロポーズして下さいませ!」
顔が熱くなり声も震えてしまいました。これで分からなければこのまま席を立って実家に帰りますよ!
もちろん、エリーシウスには伝わりました。彼はみるみる表情に生気を取り戻し、歓喜で満たしました。
「イリヤーネ!」
エリーシウスはそう叫んで一瞬私に抱き付きかけ……、辛うじて耐えました。そして私の手を取り、自分の額に押し当てると、厳かに誓いの言葉を述べたのです。
「私、エリーシウスは愛するイリヤーネのために、自分の持てる全てを捧げるとここに誓う。どうか私の女神になってください」
私も、もうちょっと堪えきれなくなってしまい、思わず目から涙を溢れさせながら、どうにかこうにか頷いてこう返しました。
「これまで通り、愛して下さることを、私は疑いませんわ。求婚をお受けいたします。エリーシウス」
次の瞬間、もう我慢しきれなくなったエリーシウスは声も出さずに私を抱き締めると、そのまま私の唇を激しく奪ったのでした。
◇◇◇
後でお祖父様たちに聞きましたら、お二人の不仲にも私とエリーシウスが関わっていたようですね。
どうも私とエリーシウスが仲良く遊んでいるのを見たお祖父様たちが、嫁にするしない、嫁にやるやらないで口喧嘩をしたのが、不仲のそもそもの発端だったとか。
なので、私とエリーシウスが結婚して二人の関係はかなり軟化しまして、私が最初の子を産んだ時には二人して大喜びで、仲良くひ孫を愛でていらっしゃいましたよ。
そうしてみると、私とエリーシウスは、その当時から結婚を云々するくらいお似合いだったのだ、という事なのでしょうね。
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