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8.約束の朝

 約束の朝。


 いっそドタキャンでもしてくれないかと願いつつ、一応支度していたら、カタリナは普通に時間通りにやってきた。

 サン・ラザール公爵家の紋章がついた黒塗りの4人乗りの馬車には、紺色の散歩服に揃いのつばのない帽子をかぶったカタリナ一人。

 付添の姿もない。

 ノアルスイユは、カタリナの斜め向かいの席におっかなびっくり座った。


「で、これが弁護士に貰った資料ね」


 空いている席には、どさっと書類入れが積んであった。

 着くまでに読めということのようだ。

 

 土地の権利書の複写。

 近辺の地図。

 そして設計図と修繕録。


 権利書に記された名は「檸檬荘ヴィラ・リモーネ」。

 話を聞いたときは、てっきり独身の貴族女性向きの小さめの屋敷でも貰ったのかと思っていたが、かなり敷地は広い。

 本館全体は、北を正面とし、東西の端から短い棟が内庭に向かって突き出た凹字型。

 館の1階は、中央にホール、ダイニング、サロン、舞踏室、喫煙室、撞球室と図書室に朝食室、そして居間。

 2階はもう一つ居間があり、主寝室に子供部屋が4部屋、客間が3つ。

 厨房や洗濯室、使用人の部屋などは半地下にあり、数十名が住み込みで働ける規模だ。

 別棟で隠居生活によさそうな平屋の離れもあり、執事用のコテージ、厩舎と子ども用の馬場、ボート遊びができそうな大きな池もある。

 王都の中心部より馬車で一時間弱という立地と合せて考えると、それなりの領地を持つ貴族の別邸、下屋敷というところか。


「あー、ボアンヴィルの設計なんですか」


 設計者の名を見つけて、ノアルスイユは声をあげた。


「そうなのよ。

 大伯母様、ボアンヴィルが大好きで。

 ここは壊して更地にするって話が出ていたようで、だったら自分が買って残すって安く買ったようなの。

 田舎のコテージも二つ貰ったのだけど、そっちはボアンヴィルの弟子の作品みたい」


 ボアンヴィルとは、古典様式を再解釈して美しい館をいくつも設計した人気の建築家だ。

 衣鉢を継いだ弟子達にも優れた建築家が多く、一つの流派となっている。

 この館は築百五十年を越えているから、初期の作品か。

 記録を見るとカタリナの大伯母、先の大公妃が購入したのは十二年前。

 以降、管理人はコテージに住み込んでいるが、本館には誰も住んでいないようだ。

 ま、管理人常駐で折々修繕しているようだし、行ってみたら廃屋同然ということはあるまい。


「しかし、ここに住むつもりなんですか?」


 カタリナは、主に親元のサン・ラザール公爵家の本邸で暮らしている。

 王宮の近くにあり、どこに行くにも便利な大邸宅だから、ここに移るとなるとかなり不便になる。


「んー……そもそも、この規模の館を、わたくし個人で維持できるお金はないのよね。

 ちょいちょい貰ってはいるけれど、結婚しないと使えない財産が多すぎて。

 すぐ住めるくらい状態が良ければ、とりあえず賃貸かしら。

 悪ければ、建物を修繕して残す条件で安く売るしかないけれど」


「なるほど。

 条件をつけても、ボアンヴィルの設計なら欲しがる者はいそうですね」


 周囲の地図を見ると、土地柄も悪くないようだ。


 東隣は、修道女会が運営する寄宿制の女学校。

 セニュレー侯爵家の名が入っているから、別邸でも寄進したのだろう。

 街道を挟んだ向かいや東側は、商会長など富裕な平民の別邸がいくつか並んでいる。


 ノアルスイユが資料を読み込んでいるうちに、馬車はランデ河を渡り、王都郊外に入った。

 このあたり、昔は田園だったが、徐々に別邸が設けられるようになった地域で、まだまだのどかな雰囲気が残っている。

 放牧地に挟まれた街道をしばらく行くと、右手の小高くなったところに鬱蒼と茂った木立が見えた。

 その間から、緑青色の屋根がちらりと見える。


 「あそこかしら」「そのようですね」とか言っているうちに、街道の右手が胸の高さほどの石積みの塀に変わる。

 別荘をいくつか通り過ぎ、しばらく行くと、ひときわ立派な門扉があった。

 ヴィラ・リモーネと書かれている。

 ここだ。

 門扉は閉ざされていたが、鍵はかかっていない。

 御者が適宜開け、馬車が敷地に入ると、左手の奥に平屋の建物が見えた。

 管理人が住むコテージだろう。


 馬車をいったん止めさせ、ノアルスイユが降りて案内を乞うと、若い下女が慌てて出てきた。

 管理人はちょうど本館にいるとのことで、馬車に戻って丸石を敷いた車道をゆるっと登った。

 車道の両脇には、別邸の名にちなんでか、檸檬の樹が植えられている。


「まあ! 素敵ね!」


 木立が開け、広々とした芝生の前庭に入って、館の全貌が見えた瞬間、カタリナは声を上げた。


 うららかな春の日差しの下、白亜の建物はまばゆいほど。

 建物の中央部分にある車寄せは、美しい円柱で飾られ、その上にはどっしりとした銅葺きのドーム。

 館の左右の端は丸く膨らんで、それぞれ上部に小さなドームが設けられており、窓のひとつひとつにも円柱を模した意匠が施されている。

 3つのドームのバランス、建物そのものの横の広がりと縦の高さの比率、なにが良いのかノアルスイユは巧く言語化できないが、見ていてやたらめったら心地良い。

 先代大公妃が、取り壊しを惜しんで私費で買い上げたのも無理はない。


 馬車から降りると、ほぼ同時に五十代くらいの管理人が出てきた。

 背はさほど高くないが、体つきががっしりとしていて、執事というより騎士のようだ。


ノアルスイユ「この館、本館正面部分は国立東京博物館の表慶館(ネオゴシック様式・片山東熊[ジョサイア・コンドルの弟子]設計・1908年完成)をモデルにしています。

 次の節で出てきますが、土地の高いところに本館があり、下っていく形で庭が広がる構造は、椿山荘[旧久留里藩黒田家下屋敷]・六義園[柳沢吉保の中屋敷]・旧古河庭園[元は陸奥宗光別宅]などを参考にしました」

https://www.obayashi.co.jp/thinking/detail/back006.html

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