43.人がいかに愚かな行為を繰り広げようと
この国では、神殿で結婚の誓いを立て、一定期間公示をすれば手続きは終わる。
貴族については国が系譜を管理しているが、平民は産まれた時と結婚した時、死んだ時に住んでいる地区の神殿に届けを出すだけで、出生地や親の名前を適当に書いて出してもいちいち照合しない。
王都勤務ならとにかく、辺境勤務の騎士となると、仮に親が亡くなっても別の任地に異動する時に墓参りできるかどうかというところだから、親戚づきあいがなかなかできないことも誤魔化しやすかったかもしれない。
「でも、なぜここの管理の仕事を引き受けたの?
セニュレーもブラントームも別邸を手放していたけれど、あなたを知っている人がみんな近辺から去ったとは限らない。
そもそも、伯爵家からあなたの顔を知っている人が来るかもしれないし」
「人目を避ければ、ここで暮らした方が、逆に安全かもしれないと思ったからです。
一度、街道筋でもない田舎町で、たまたま叔母と出くわしかけたことがありまして……
すんでのところで先に気がついたのですが、本当に肝が冷えました。
ここなら、伯爵家の者はめったに近づきませんし、来る時は必ず連絡が入ります。
それに、私、このボアンヴィルの館が好きすぎて」
マリー・テレーズの最後の言葉に、ノアルスイユは驚いた。
「あんな惨劇があり、三ヶ月も監禁されたのに、ですか?」
「はい。『人がいかに愚かな行為を繰り広げようと、天地の美しさは毀たれぬ』と言うではないですか。
この館の美しさも同じことですわ」
大詩人ヴィルドラの叙事詩「蜃気楼の彼方」から引用して、マリー・テレーズは微笑んだ。
もともと、美的感覚が鋭い上に、この館を深く愛しているのだろうが、それにしても度外れている。
ノアルスイユは内心引いた。
さすがのカタリナも、ちょっと面食らっている。
「マリー!」
そこに、ポーチの方から管理人が飛び込んできた。
不安にかられた下女が、本館まで走って急報したのだろう。
マリー・テレーズがさっと立って、夫に駆け寄る。
その表情で状況を悟ったのか、管理人は深々とカタリナに頭を下げた。
「カタリナ様、申し訳ありません!
二度目はない、とおっしゃっていたのに、大変な隠し事を……」
「いやまあ、そうそう打ち明けられる話でもないわよね、とは思うから。
でも、困ったわね。
これからこの館はどんどん人の出入りが激しくなるし、いつまでも隠れていられなくなるわ。
それで、辞めたいと言い出したのでしょう?」
え、とノアルスイユは驚いた。
どれだけこの館を愛していても、確かに潮時ではあるのだろう。
とはいえ、年齢的に新しい仕事を探すのは大変そうだが。
「は、はい」
不安げに夫婦は寄り添いあう。
「あれだけマリー・テレーズの亡霊が仇を討ったとぶち上げてしまった以上、実は生きてましたはマズいですよね」
ノアルスイユはじろっとカタリナを睨んだ。
普通に追求すればいいものを、人の度肝を抜くのが好きなカタリナの派手な演出のせいだ。
「仕方ないじゃない。
証拠もなにもない中で、シャルルに吐かせるにはあれくらいしか思いつかなかったんだもの」
ぷいいっとカタリナがそっぽを向く。
「降霊会の件がなくとも、名乗り出るのは……
やはり、マリー・テレーズは、あの夏に死んだのです。
アンドレから降霊会でのアンナの様子を聞いて、本当に悪いことをした、出来ることなら謝りたいと思いましたが、今更会うのもどうかと」
「え? 悪いことをしたって、どういうこと?」
マリー・テレーズは、視線を落とした。
「……私達、ずっとアンナが犯人だと思っていたのです」
「えええええええ!?」
「あ、あんなに心のこもった感謝の手紙を書いていたのに!?」
ぶったまげたカタリナとノアルスイユに、マリー・テレーズは居心地悪そうに頷いた。
「アンナは慎重な性格で、普段はお客様になにか勧めるような出過ぎたことはしなかったんです。
それが、あの日に限って、アンリエットにわざわざ砂糖を勧めていたのを、後からふと思い出してしまって」
「あー……砂糖に毒が入っていたと?」
「はい。砂糖壺の中に、外から見えないように仕切りを入れておいて、それで私には普通の砂糖を、他の四人には毒入りの砂糖を入れたのじゃないかと」
はいはいはい、とノアルスイユは頷いた。
毒を同席者に気づかれずに投げ込むよりは、はるかに難易度は下がる。
砂糖壺を覗き込まれて仕切りに気づかれたらアウトだが、リスクはそれほど高くはないだろう。
「でも、動機は?
アンナがあなたやほかの四人を殺す動機なんてどこにあるの?」
マリー・テレーズと管理人が視線を交わし、管理人が口を開いた。
カタリナ「読者の皆様の世界では、戸籍制度があるので身分詐称は色々大変かもしれませんが、この世界、平民に関してはガバガバなのですわ」
ノアルスイユ「リアルヨーロッパだと教会がずっと出生・死亡の管理をしていて、フランスでは1804年の『ナポレオン法典』で、イギリスでは1836年の『イングランドにおける出生・死亡および婚姻の登録に関する法律』で、ようやく国家が出生・婚姻・死亡記録を管理するようになったそうです」(眼鏡キラーン)




