4.マリー・テレーズとアンナ
完全にセニュレー侯爵家そのものに愛想が尽きたマリー・テレーズは、反論してエリザベートをもっと怒らせ、婚約解消に持っていくのがいいのか、それとも従順に振る舞って、至らない自分ではシャルル様のような高貴な方には嫁げませんとひたすらひれ伏して辞退するのがよいのか、内心歯噛みをしながら考えていた。
ひとしきり怒鳴り散らして飽きたのか、エリザベートがようやく言葉を切った。
その瞬間を見計らって、侍女のアンナが誰も手をつけていなかった茶をそっと下げ始める。
いつの間にか、マリー・テレーズの茶碗には桜の花びらが浮いていた。
「そういえば喉が乾いたわ。
わたくしのお茶はまだなの?」
「すぐに用意させますわ」
マリー・テレーズは、無の表情で返した。
新たな茶器と熱い湯、そして菓子や軽く摘めるカナッペが運ばれてくると、ニコルが「あ」とわざとらしく声を漏らす。
ちらりとマリー・テレーズの方に視線をやりながら、手のひらに収まるくらいのガラス瓶を手提げから取り出した。
よく、商会が茶葉のサンプルを入れてよこす瓶だ。
ガラス瓶の首には、藍色の細いリボンが巻かれている。
シャルルの瞳の色だ。
「そういえばわたくし、ある方から珍しいお茶を頂いたんです。
香燻茶、ご存知ですか?
せっかくですし、いかがでしょう」
豊かな黒髪をいつも大きく巻いたニコルは、深い緑の瞳を挑発的にきらめかせながら、実はシャルルは自分に気があるのだとことあるごとに匂わせてくる。
ほんの子供の頃から、ニコルは自分の方が美人だし、男性に人気があるのだと、マリー・テレーズに張り合ってくるのだ。
確かにニコルは魅力的だ。
そして、シャルルとニコルは親しい。
マリー・テレーズは行ったことのない、平民も出入りするような社交場にシャルルと一緒に行って、何曲も踊ったと自慢されたこともある。
たくさんのシャルルの友人知人に紹介されたとも。
だが、持参金がマリー・テレーズより一桁少ないニコルをシャルルが本気で口説くわけがないし、利にならない者には吝嗇なシャルルが、稀少な物をわざわざ贈るいわれがない。
社交場で知り合った商会の息子にでも貰った物に、自分でリボンを巻いて、さもシャルルに大切にされているように見せようとしているのだろう。
マリー・テレーズが憐れむような眼になっているのに気づかず、ニコルは得々と説明した。
香燻茶とは、茶葉を松葉で燻した紅茶である。
大陸の東の果てにある国でしか作られないもので、かなり珍しい。
マリー・テレーズも、話には聞いても飲んだことはなかった。
「香りも味も癖が強いけれど、美味しいわよね。
いただくわ」
エリザベートが、目に見えて上機嫌になった。
きっかけがあれば、ころっと怒りを忘れるのはエリザベートの数少ない美点だ。
「では、わたくしが淹れさせていただきますね」
侍女では不足というつもりか、ニコルは立ち上がった。
温めたポットに小瓶の茶葉をすべて入れ、湯を注ぐとやや短めに蒸らす。
それぞれの好みをよく知っているアンナが、ティーカップに砂糖やミルクなどを加えていく。
エリザベートが、そんな品のない飲み方をするのかと、マリー・テレーズを睨んでくるが、知らん顔をして一口飲んでみた。
渋いものだと聞いたことはあるが、本当に渋い。
アンナに砂糖をもう一匙足してもらった。
「これが紅茶なんですか?」
薬を思わせるようなきつい香りに、ルイーズが戸惑っている。
おずおずと一口飲んで、案の定顔をしかめた。
「そうよ。熟成が進んでいるようね」
エリザベートは涼しい顔をして香燻茶を楽しみながら、今まで飲んだことのある珍しい茶の自慢話をし始めた。
アンリエットは首を傾げながら、ニコルはエリザベートに相槌を打ちながら得意げな顔で飲んでいる。
つられて、ルイーズも砂糖を足してもらってもう少し飲んだ。
アンナが「アンリエット様もいかがですか?」と訊ね、普段はなにも入れずに飲むアンリエットも砂糖を入れてもらう。
マリー・テレーズももう少し飲んでみた。
どう考えても美味しいものではない。
とはいえ、露骨に残せばエリザベートとニコルにまた絡まれそうだ。
「最初はお湯で淹れたものが出て、それも柔らかい香りが良かったのだけれど。
はるばるローアンの泉から運んできた水に一晩ひたした、……」
香燻茶よりもさらに稀少な「銀の針」と呼ばれる東方の茶を、公爵家の茶会で飲んだ時の話をしていたエリザベートの言葉が、中途半端なところで途切れた。
見ると、ティーカップを口元に運びかけたまま、動きを止めている。
眼だけがマリー・テレーズの方に動き、すがるような色を帯びたと思ったら、ありえないほど顔が歪んでだらだらっと口元からよだれが垂れ落ちた。
声を上げる間もなくカップを取り落し、どんと額をぶつけるようにテーブルに突っ伏す。