FNG5
俺のその理解は目の前にいるその卸元のお偉いさんもしっかり察していた――そして、どうやらその認識は正しくなかったようだ。
「どうか安心してください。我々も無理矢理にあなたを……という訳ではありません。ここでの記憶を処理するための投薬を受けていただくことにはなりますが、拒否された場合、そのままお引き取り頂くことも可能です。勿論、投与する薬品は安全が確認されております」
無理矢理連れて行って兵士にするつもりはないらしい。
――昔見た映画を思い出す。主人公が全てを忘れる薬を飲んで作られた世界の中で生きていくのか、或いは作られた世界から抜け出して戦うのかという二択を迫られていた。
「じゃあ、もし断っても」
「その時は全てを忘れて、今まで通りの人生を歩むことになります。もっともその場合、二度とここに戻ってくることはありませんが」
今まで通りの人生。ついさっきまでそうしていたように、あの部屋で焦燥感と劣等感とを誤魔化しながら時間を浪費する人生。
今だけ、今だけと言いながら、その今だけがいつまでなのか俺自身分からない人生。
いつかは終わるのだろう。一念発起か、金が尽きるか、或いは他の理由で。
だがそれはいつ?そうなった後に何が残る?その後に道は残されている?
「私の立場からこういう話をするのは妙に思われるかもしれませんが、あなたがここで我々との契約を拒んでも、その事になんの問題もなく、そしてあなたの名誉は決して傷つきません。自らが望まないまま危険に足を踏み入れる行為は勇敢であることとは無関係です」
安心させるようで、いや事実そうなのだろうがしかし、今の俺にはそれは締め付けに似たものだった。
無理矢理連れていくことはない。つまり、後は俺の意思次第。
「分かりました……」
別に映画の主人公に影響された訳ではない。
勿論傭兵になりたかった訳でもない。
ただ、俺は彼の問いかけに首を縦に振り、契約書の内容を一読してからそこにサインした。
戦争がしたい訳じゃない。世界を守る使命に目覚めた訳でもない。
ただ不思議と、このままあの部屋に帰りたくないと思った。
あそこで朽ちるのを待ちたくないと思った。
自分には何かできる、なんとかなると、縋るように妄信したくないと思った。
自分自身で納得していない基準で自分は必死で生きられるのだと証明した気になるぐらいなら、いっそ極端に振って白黒明らかにしてしまうのも悪くないと思った。
つまり俺は証明したかった。自分が必死に生きられる人間であると。自分があの部屋で朽ちるだけの者ではないと。
傭兵になりたい訳じゃなかった。
戦争に行きたい訳じゃなかった。
ただ、何者かになりたかった。
「……」
それがあのエレベーターの向こうで起きた出来事だった。
そこまで思い出したところで、スマートフォンの振動がテーブルと音を立てた。
メールの着信を伝えるそれに反射的に手を伸ばし、新着メールを開く。
差出人:O.E社
件名:導入訓練のお知らせ
そのいつの間にか登録されていた差出人と件名だけで、その内容はすぐに分かった。
要するに新兵訓練だ。それも3泊4日でごく普通の一般人を一端の傭兵にするための。
それを可能とする代物が、俺の脳には既に埋め込まれていることは、メールを開いた瞬間にフラッシュバックした記憶が教えていた。
あの書類にサインした後、俺はあの部屋から出て、受付にいた女性に廊下の一番奥に案内され、突き当りを曲がった先にあった藤波コーポとは別のエレベーターに乗せられた。
それからすぐに扉は開き、今度は病院のような場所に繋がっている。と言ってもこれは普通のエレベーターであることは、点灯している回数表示と上昇する時の重力の感覚とが物語っていた。
先程の部屋があったのは1階でここは3階。エレベーターの向こうを進んでいく女性についていくと、先程と同様いくつか並んだ扉の一つに通され、そこで服を脱ぐよう指示された。
それからすぐに手術が行われた――と言っても、手術台に寝かされてすぐ麻酔が効いて意識を失ったので気づいた時には終わっていて、これまた病院のような簡易ベッドに寝かされていたのだが。
「念のため今から1時間ほど安静にしていてください。1時間後に検査を行い、異常がなければ今日はお帰り頂けます」
ベッドの横にいた看護師の黒人女性が、先程のビショップ氏と同様に流ちょうな日本語でそう言った。
今ならその理由が分かる。マキナ=俺の頭に埋め込まれたその機械が彼女の話した言葉を同時翻訳している。そして先程はビショップ氏のマキナが、彼の意思に最も近い日本語を話させていた。
――それを瞬時に理解するのもマキナの効果であると、同じく脳内に情報が走り抜けた。
「マキナ……ね」
そして今、俺は自分の後頭部に手をやってそう呟く。
手術の跡は全く分からない。恐らくだが仮に俺がスキンヘッドだとしてもどこを切開したのか分からないぐらいに指先は何の違和感も伝えない。
外観の全く変わらない強化人間初日、特にこれと言った感動もなく、もう一度メールを確認した。
新兵訓練への参加方法は簡単だ。明日の朝8時にあのエレベーターにもう一度乗ればいい。
そして今度はボタンを押す必要もない。あのエレベーターに設けられているらしい網膜センサーを見返せば、俺は晴れてピカピカの新兵という訳だ。
高揚はなかった。緊張は少しあった。
新兵訓練という言葉から感じるプレッシャー≒終わらない腕立て伏せと日課となる鉄拳制裁。これはあった。だが、今更どうすることもできないと変に腹がくくられた。
――或いはそれも、マキナによる感情コントロールの一環なのかもしれなかったが。
「……」
もう一度あの掲示板を見てみる。
そこにあったはずのエレベーターで異世界に行く方法=オプティマル・エンフォーサーに行く方法を説明するスレッドは、いつの間にかなくなっていた。
そして翌日、俺は指定された時刻に藤波コーポのエレベーターに乗った。
手にはスポーツバッグが一つ。中身はメールで指示された下着類。
頭の中に浮かび上がってくる指示に従い、エレベーターに乗ってすぐ、扉脇の操作盤に並んだ階数ボタンの一番上、非常時の外部連絡用ボタンとの間のスペースに指を触れて少し力を加えると、パキッと軽い音を立ててカバーが外れ、接眼レンズが一つ顔をのぞかせる。
「これか……」
そこに目を近づけると、軽く電子音が響いてドアが閉まる。
それだけで操作は終了だった。
エレベーターはするすると滑らかに上昇を続ける――今日もまた最上階を軽く超えて。
扉が開いた先には昨日と同じ受付。だが今日はあの女性だけではなく、もう一人、アメフト選手のようないかつい黒人男性が一人、こちらに鋭い視線を向けていた。
教官――名乗らずともそう分かるのは、マキナのお陰ではない。
「こっちだ」
ただそれだけ言うと、返事も待たずに踵を返して、昨日とは反対の扉を開けて先に進む教官。
「あっ、はい!」
慌ててその後に続く。バタバタと慌ただしく扉をくぐるが、自然と背筋が伸びている。
「ここから先のルールを最初に言っておく。二つだ。『俺が許可した時以外に口を開くな』『俺の問いかけには必ず答えろ』いいな」
「はい!」
やり取りを続けながら更に進む。
昨日通された反対側の扉と異なり、無機質な金属とコンクリートがむき出し通路に通じていた。
その通路を道なりに進み、ここまでの通路に相応しい宇宙船のエアロックのような扉の前で足を止める教官。その扉の横に設けられたエレベーターにあったのと同じ網膜センサーに大きな体を屈めて照合させる。
「さて、カメラに向かってにっこりしろ新兵」
次は俺の番だ。
どうやらこのエリアから出るには全員が登録された網膜を持っていることを証明しなければならないらしい。
言われた通りにセンサーを覗き込むと、今度こそ電子音と共にガス漏れのような音を立てて扉が開かれた。
(つづく)