FNG3
「……」
定期的にカウントされる回数表示を見つめる。7→8→9――そして10。
チン、と音が鳴りエレベーターが止まった。
「なんだよ……」
安堵と失望が混じったような音が漏れる。
何をビビっていたのだろう。所詮ネットの与太話だったじゃないか。
まあ、いい暇つぶしにはなった――そう思って1階のボタンを押そうとして違和感に気づく。
「……」
チンという音がなりエレベーターが止まる。それはつまり目的の階に到着したことを意味する。
そして目的地についたエレベーターがすることは?扉を開けて乗客を降ろすことだ。それまでと同様に閉ざしたままにしておくことではない。
「おい……」
何者かに声をかける。
先程の検査証を貼った業者の見たこともない担当者に内心で毒づく――何のための検査だ。
エレベーターへの閉じ込め。異世界などよりよほどそこにある非日常――頭がそう理解した瞬間、エレベーターは動き出した。
何のボタンも押していないはずなのに、それ以上ないはずの上に向かって。
「え……」
人間、本当にどうしようもなくなった時には言葉などでない――創作臭い怪談話への突っ込みが正しかったことを証明するような気の抜けた音だけが喉からひり出された。
エレベーターのモーターが静かに回る音だけが箱の中に響く。
このままではまずい。咄嗟にそう判断して目の前にある扉に反射的にすがりつくが、当然動いている最中のエレベーターの扉はそのほかの三面の壁と同様だ。
ならば回数ボタンを全て押して一番近くの階に止まらせる?非常ボタンを押して外部に連絡する?
だがどれもする気にはなれなかった。
既に異常な状況に置かれているのだ。もしそれらの行動が裏目に出たら――頭の中に浮かんだネガティブなイメージを払しょくする方法も、否定してくれる根拠もなにもない。
回数表示は88で固まり、もし感覚が正しいのならビルの天井を突き抜けてはるか上空へ舞い上がっている頃、唐突にさっきまで何度も聞いていた停止を知らせる電子音が響いた。
「あ……」
気の抜けた声が再び漏れだす。
それが自分の喉から出ているという事実に気づくよりも前に、別の声が箱の中を満たした。
「ようこそ。オプティマル・エンフォーサーへ。どうぞお進みください」
エレベーターの声。そう言えば大体伝わるだろう機械音声で促された扉の先は、真っ白な壁と天井、そしてその天井にはめ込まれ、プリズムカバー越しに照らしている照明だけ。数メートル先に見えるその廊下の終点=左右に開くのだろう壁と同色の扉まで、一切変化なくその光景が続いている。
そこがオプティマル・エンフォーサーなる場所なのだろうか?或いはあの扉の向こうが?
「えっと……」
いくつもの疑問が頭の中に浮かび、しかしそれらは全てがひどく漠然としていて、頭の中ですら具体的な問いかけにならない。
しかし目の前の空間はそんなパニック状態の俺を放置して、ただ扉を開けたエレベーターの向こうにひどく狭い異世界=自称オプティマル・エンフォーサーが広がって、というか続いている以外に何も変化はない。
「……」
しばらく呆然と立ち尽くしていた俺は、ようやくその状態から立ち直るとエレベーターのボタンを操作してみる。だが、ここに来て遂に操作パネルは自分が廃墟に残されたエレベーターであることを思い出したようだった。
次の手段――なんとなく結果は予想済み――としてスマートフォンをポケットから取り出してみる。
だがこちらもただの板切れになっていた――案の定。
バッテリー容量は90%あったはずなのだが、どんな操作をしても真黒な鏡になった液晶に変化はない。
――ならば最後の手段だ。
「……」
脱出する手段を奪われ、助けを求める手段も断たれ、ここで待っていても何かが変わる様子はない。
では?今は相手に従うほかない。
静かで殺風景な廊下に恐る恐る足を踏み入れ、それからもう一歩を踏み出す――エレベーターから完全に降りた。
辺りを見回しても、エレベーターの中から見えていたものと何ら変わらない、ただの細長い白い空間。
その白い空間を一番奥の扉に向かって少しずつ歩を進める。
足を少し上げて少しだけ前におろす――その極めて小さな、何でもない動作の間に頭の中には昔見た映画か何かのワンシーンがリピート再生される。
右を一歩――壁から何かのガスが噴き出してきて死ぬシーン。
左を一歩――壁や天井から出てきたレーザーが迫ってきて死ぬシーン。
「あっ!?」
そしてそんなシーンでは必ずと言っていい程、それまでの通路との行き来は塞がれてしまうのだ――今のように。
背後から聞こえてきた静かな駆動音に振り返ると、役目を終えたエレベーターの扉は今まさにぴったりと閉じきったところだった。
「認証完了。どうぞお進みください」
しかしガスもレーザーも出てこない。
呼吸ができて五体が繋がっている俺に待っていたのは、音もなく開いた奥の扉とエレベーターと同じ声のアナウンスだった。
今すぐ殺すつもりはない――不思議なものだが、その事実が妙に前に進むことへの恐怖を緩和した。
何をされるのかは分からないが、それでも少なくとも今はまだ殺されない。それなら、前に進むしかない。そんな判断を、俺の頭のどこかがしていた。
開かれた扉の向こうに目をやる。この廊下とよく似た、しかしもう少し広い空間が待ち受けている。
そちらに足を進めていく。どうやら向こうの部屋の方が照明が強いらしく、近づく度に扉の向こうからもれてくる光に照らされていく。
光は更に強くなり、照明を直接覗き込んでいると錯覚するほどの光量が視界を埋め尽くしそして――。
「ッ!!」
自室のベッドの上で目を覚ました。
枕元、サイドテーブルと呼ぶのは恥ずかしいような台の上に乗せている目覚まし時計は、ちょうど藤波コーポと自宅の往復にかかる程度の時間が経っていることを示している。
そして部屋は出ていった時のまま、己の格好もまた。
夢――いや、この部屋と着替えた服装からしてそれはない。
「……」
体を起こす。先程までの経験が夢ではない一番の証拠=自分の頭の中に鮮明に残っている、あの光の中で何が起きていたのかの記憶。
あの強い光が収まった時――いや、正確にはあの時本当に光があったのかは不明だ。何しろ、実際には特に何もなく奥に進めたような記憶も残っているのだから。
「ようこそ。オプティマル・エンフォーサーへ」
廊下の先にあったカウンターの向こうで、スーツ姿の眼鏡の女性が一礼してそう言った。
日本人ではない、恐らくは西洋人だろうと分かる容姿だがその言葉は流ちょうな日本語だった。
「あ、あの……」
「ご案内いたします。どうぞこちらへ」
委細承知とばかりに女性はカウンターから出ると、その横の扉に設けられたセンサーにカードキーをかざし、軽い電子音と同時にその扉を開いて中へ。
俺自身も中に入らないとならないだろう。何しろ他に道はないのだから。
その考え、というか空気に従い彼女についていく。
扉の向こうはオフィスともホテルともつかない空間が広がっていた。
長い廊下の左右にはいくつか等間隔に扉が並び、その中を彼女について進み、そのうちの一つを彼女がノックするのに合わせて止まる。
「どうぞ」
中からの声に女性が扉を開けると、その返事の主に一言だけ、俺に対した時のような口調のまま告げる。
「面接の方がお見えです」
面接――なんの話だろうか?
一切話の読めない状況で、しかし扉を開けたまま俺に道を譲るその女性に、何かを尋ねるような気は起こらなかった。
――なんとなくだが、彼女はこの仕事だけをこなすことをプログラムされたロボットのような印象さえ受けた。
「し、失礼します……」
その彼女の開けてくれた扉の向こうへ、戸惑いがしっかりと現れた声と共に頭を下げて一歩。意外に狭かった部屋の中に待っていたのは、聞こえてきた声に――正確にはその言葉に見合わない人物だった。
(つづく)