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太一の異界手帖  作者: 安住ひさ
【本編】ロストミソロジー
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【本編】ロストミソロジー:第九章 かむひの日の神②

 北野天満神社は菅原市の繁華街を北に数キロメートル言った先にある神社である。学問の神様を祀っているこの神社は特に年明けの受験シーズンとなると市内や近郊からやってきた人で多くなるが、それに加えて、その海まで見える見晴らしの良さから観光スポットの一つにも数えられていた。

「っていうか、今思ったけど菅原の神社って坂の上にあるの多すぎじゃ」

 太は神社へと続く階段を登りながらそうぼやいた。

 登りきるとそこは十メートル四方程の境内。中央辺りに舞台があるそこは休日ではあるが人がまばらであった。

 太は実質上の展望所になっている境内の一角に向かう。

 その日は晴れていて、くっきりと地平線まで見える。そこで大きく深呼吸をすると、ほんのりと秋の香りを含んだ空気が体に染み渡って疲れが吹き飛んだような気分になる。

「ま、ここにいるわけはないか」

 手すりに体を預けながら、そっと太は呟いた。

「太君?」

「えっ」

 太はその声に驚いて振り向く。

 そこにいたのは日向であった。彼は休日にも関わらずワイシャツにチョッキ、ジャケットを羽織っていたる。

「日向、さん。どうしてここに」

「うーんそうだね。受験祈願、かな?」

「えっと、ひょっとして……高校生?」

「ははは、冗談だよ」

「は、はあ。冗談」

 二段階で驚かされてしまった、と太は感じた。

「まさか日向さんから冗談が出るなんて、ビックリです」

「あれ、意外だったかな?」

「意外ですよ。だってそんなこと言いそうな人には見えないですもん」

「そっか、それは自分には意外だったな」

「そ、そうですか」

 隣いいかな、と言って日向は太の隣に立って境内から景色を見る。

「綺麗な所だね。ここから眺めてみると改めて思うよ」

「そうですね。でも見慣れちゃって最近有り難みがなくなりかけてきてますが」

 太は改めて日向を見る。相変わらず目を背けたくなるほど綺麗なオーラのようなものを身に纏っている。彼にも心身疲れて目に隈が出来る時などはあるのだろうか。

「あの、日向さん」

「何かな」

「今日も仕事、ですか」

「そうだね。世間は休日だけど、生憎僕は休めないのさ」

「やっぱり、さやのことで」

「いや、今日はちょっと別のことでね。実は今やっている仕事がさや、彼女の件だけじゃないんだ。こちらも優先順位は高い方で、だからこうやって平行してやってるというわけさ」

「それは大変ですね」

「そう、大変なんだ。いつの間にか僕も栄養ドリンクが手放せなくなってしまった。本当に、今度機会があれば愚痴でも聞いてもらいたいな」

 そう言って日向は春風の様な笑みを浮かべる。

「ところで、太君はここへ何しに来たのかな」

「特に理由はないのですが、何か、ここに来ればさやに会えるかなって思ったんです」

 そう言って、太は再び境内の外の景色を見やる。

 ここには、以前弓納とさやとで一緒に出かけた時に訪れていた。その時さやはウィッグを着ける前だったから案の定、さやは参拝客、果ては神社の人にジロジロと見られていたが、それでもさやは「近くに洋館があっていいコントラストになってる。素敵な所ね」と喜んでいた。

「日向さん。ちょっと唐突なことを聞くかもしれませんが、あと少しで思い出せそうなのに、どうしても思い出せなくてもどかしいことってありますか?」

「たまにあるよ。もっとも、大半はどうでもいいことなのだけれどね。でも、どうしてそんなことを?」

「いえ、大したことじゃないんです。何故だか、十歳以前の自分の記憶に断片的に欠落している時期があって、そこを思い出そうとしても、靄がかかったみたいに思い出せないんです」

「子供の頃だからね。珍しいことじゃないと思うけど、そんなに気にかかるのかい?」

「はい。そもそも自分の記憶に欠落があることさえ最近思い出したんですが、何だか大切なことを忘れてしまっている気がして。でも、可笑しいですね。そんな大切なことなら、忘れてしまわない筈なのに」

「いや、反対かもしれないよ。それは太君にとって大切だからこそ、思い出さないようにしてるのかもしれない」

「成程、そういうこともあるかもしれませんね」

 その記憶は触れてはいけないものなのかもしれない。だったら、このまま思い出さないままの方が、幸せなのかもしれない。

「そうだとしても、やっぱり僕は知らなければいけない」

「太君」

「すみません。つまらない話をしてしまいました」

「いいや、そんなことはないよ」

「それでは、僕はそろそろ行きます」

「ああ、もう行ってしまうのか」

 そう言って日向は手を差し出す。

「この地で会えた友人よ。願わくば、今度会う時には刺し違えることになっていないことを願うよ」

「そんな、縁起でもない」

 太は日向の手を握る。手から伝わる感触は、太に暖かさと彼の揺るぎない意思を感じさせた。

 仮にさやと会った時、自分はどうするべきなのだろう。太は、その手を握りながら、自分の中にある迷いをうやむやにしてしまったままであることに気付いた。


       ○


 さやがいなくなって数日が経過した。依然として動きという動きはなく、まるで数日前の出来事が嘘のように望月は感じるようになっていた。弓納は完治とは言えないものの、以前と変わらぬ生活を送れるまで回復し、いつものように学校へと通学するようになった。

「さて、どうしたものかしらね」

 夜の冷え込む大気を防ぐために閉め切られた社務所の広間にて、お茶で喉を潤しつつ望月はボソリと呟いた。状況に特に変化はない。色々と探りを入れてみたものの、さやに関する消息は全く出て来ず、またしても八方塞がりの状態となってしまった。それは弓司庁の方でも同じようで、追っていた本居正一の方も行方を眩ましてしまい、一向に足取りは掴めないようであった。

「相手の出方を待つだなんて、このままじゃ後手後手だわ」

「案外、さやは何もしないなんてことはないでしょうか」

 太が広間に入ってきて隣に座った。

「どうかしらね。あの子が私達と会った時のままなら、それもあるかもしれないけど、それにかけるのはちょっと怖いわ」

「そう、ですよね」

 太は俯く。

 インターホンが鳴った。普段使われることのないその音を聞いて、望月は首を傾げる。

「誰かしら、こんな時間に」

「ちょっと行ってきます」

「ありがとう」

 太は冷気で冷えてしまった廊下を歩いて社務所の戸までやってきた。

「あ」

 白。戸の向こうに見えるシルエットは、否応なく彼女を連想させた。

 太は靴を履いて戸の入り口まで来ると、ゆっくりと戸を開けていった。

「こんばんは、はじめ」

 太は目を見張って硬直した。

 そこにいたのは、さやであった。


「さや」

「怖がらないでも大丈夫よ」

「こ、怖がってなんかないって」

「そう。ねえ、はじめ。詠子さんを呼んできてくれるかしら」

 はじめはさやを見る。変わらぬ純真な眼差し、絹のように綺麗な白い髪、それをいじるか細い手。それは以前に会ったさやそのものであった。

「大丈夫よ、何かするわけじゃない。ただ、彼女と話がしたいだけ」

「さや、今ここは君の家だ。僕になんか頼まなくたって、自分の足で入って会いに行けばいいじゃないか」

「意地悪なことを言わないで。お願い、はじめ。私に良くしてくれた貴方に、手荒なことはしたくない」

「……分かったよ。でも約束してくれるかな」

「何」

「望月さんを傷付けるようなことはしないって」

「ええ、もちろん。私の大事な人だもの」

 さやは自分に固く言い聞かせるように言った。その言葉に嘘偽りがないことを悟った太は靴を脱いで廊下を歩いていった。その障子を静かに開けると、望月が飲んでいたお茶を置いて振り返った。

「太君。誰だったの?」

「さや、です」

「何ですって」

 望月は目を見開く。そして、静かに立ち上がった。

「今も玄関にいるかしら」

「はい。望月さんを呼んできてくれと言っていたので、まだいると思います」

「そう、分かったわ。ありがとう、太君」

 そう言うなり、望月は太の横をすり抜けて廊下を玄関に向けて歩き出していった。太は慌てて開きっぱなしの障子を閉じて彼女の後を追っていく。

「あれ」

 玄関に着くと、そこにさやの姿はなかったが望月は構わず靴を履き、外へ出ていった。太も後を追って外へ出ていく。

「望月さん。さや」

 太は境内の中央辺りを見た。そこには望月が前方上を見上げて立っていた。太もその視線の先を辿っていくと、境内の入り口の鳥居の上にさやが座っていた。

「月が綺麗ね。なあ、そうは思わんか」

「ええ、そうね。でも、残念だけど貴方からの求愛を受け取るわけにはいかないわ、さや」

「おや、どこぞの物書きのつもりで言ったわけではなかったのだがな。まあいい」

「さや」

 まるで中身がごっそりと変わってしまったかのように太は感じた。彼女から流れ出る、彼女たらしめるものが明らかに異なっていた。それはそっくりな別人とすり替わったのだからと誰かが言おうならば、太はそれを何の疑問もなく受け入れたであろう。

 さやは口を開いて言った。

「どうだ、詠子よ。私と共に来るつもりはないか」

「どういう意味」

「どういう意味も何も、そのままの意味だ。どうせ、”こちら”に来て今まで不遇を囲ってきたのであろう」

 望月はそれに返答しない。さやもしばらく沈黙し続けていたが、しびれを切らしたのか、さやは太の方を向いた。

「ああ、はじめ。お勤めご苦労。寒かろうて、中に入って待っておれと言いたいところだが、褒美の一つでもくれてやらねば天秤が釣り合わぬというもの。どうだ、もののついでに望月詠子の素性でもお前に教えてやろう」

「え」

 太は望月の方を向いた。望月はさやを凝視したまま、まるでこのやり取りが聞こえてなどいないかの様に只の一言も言葉を発さない。

 興味がないわけではなかった。決して小さくはないが、だからといってこれといって大きな神社というわけでもない北宮神社。探せば何処にでもあるような神社の神官が、客士をしている理由、その過去。

「自分の過去を知られたくはないか。しかし、多少なりとも苦楽を共にした間柄だ。少しくらい教えてやってもよいのではないか。なあ、”やほへの民”よ」

「望月さん」

 望月は何も答えない。さやは望月がやはり無言であることを見て取ると、再び口を開いた。

「はじめよ。この女はな、”地上の人間ではない”」

「どういう、こと?」

「ああいや、済まない。そうだな、これでは伝わりにくい、確かに。今のは私の言葉が悪かった。もっと直截に言ってやろう。そこに浮かんで地上を照らしている丸い天体があるだろう。そこが望月詠子の故郷。つまりな、詠子は月人だ」

「つきひと?」

 太は無意識に呟いた。

「ええ、例えでも何でもない。正真正銘の月より降りてきた者、月の民だ。な、そうだろう。詠子よ、いい加減だんまりしてはぐらかすのはやめたらどうだ。でなければ、私がお前について知っていることを何もかも暴露してしまうぞ」

「別に、はぐらかしてなんかないわ。太君、ごめんなさいね。別に隠していたつもりじゃないの」

 依然、さやの方を向いたまま望月は言った。

「”そこの女神様”の言うとおりよ。私は元々地上の人間じゃない」

「望月さん」

「はじめ。祭宮というのは何だと思う?」

 さやは太に語りかける。太はその言葉の意図が分からず眉をひそめてさやを見た。祭宮というのは単に神職のことではないのか。

「そうか。その様子だと単に神社の神官だとでも思っていたようだな」

「神官じゃないなら、何だって言うのさ」

「神官であることに違いはない。実際、ここの一切を取り仕切る責任者ではあるわけだから。只な、それだけではない。祭宮というものの本質は詰まるところ”人質”だ」

「人質? 一体、何を言ってるんだ、さや」

「そう慌てるな。順を追って話を聞くが良い。月人共の多くは元はアマノガミ、つまり天上に住んでいた者達が、月に移り住んだものだと言われている。移住のキッカケはアマツカミガミに不満を持っていたからとも、追放されたからとも言われているが、何れにせよ月人共は天上ないし地上の者共にとっては脅威となる可能性を孕んでいた。何せ、彼奴らは神霊に類する者達だからな。故に神代において、アマツカミガミと月人共は契約を結んだ。それは、互いが互いの領分を侵さないとする不可侵の契約だ。だが只の口約束、書面上の約束では心許なかろう。故にその保証となるものが必要だった。つまり、人質だ。月人共はアマツカミガミの支配域にある場所に社を築き、月人を置いた。ここまで来ればもう分かるだろう。それこそが、祭宮の起源であり、月人からのアマツカミガミに対する信頼の担保というわけだ。どうだ、詠子よ。私の説明は間違っていたかね」

「いいえ。貴方の言う通りよ」

「そうか、それは何より。はじめ、そういうわけだ。私は語り部ではない故、話術には長けていないのだが、少しは楽しめたかね」

 そう言われて太は気まずそうに目を逸らす。

「……別に」

「そうか、それは残念だ。お前の好奇心が未だ満たされていないのであれば、後は詠子から仔細に聞くが良い。何、お前に請われればそこな女とて話すのはやぶさかではあるまい」

 鳥居の上に腰を下ろしていたさやは静かに立ち上がる。それから改めて望月へと視線を向けた。

「詠子よ、大事なことだ。故に答えを急ぐつもりはない」

 さやは紙片を取り出して望月に投げた。紙片は風に揺られることなく、一直線に軌道を描いて望月の元へ到達し、望月の手に収まった。

「気が向いたらそこへ来るがいい。ではな」

「待って、さや」

「何だ、はじめ」

「君は、一体」

「はじめ。私はさやだよ。そして、遍く地上を照らす者」

 そう言い残して、さやはゆっくりと風景に溶け込むように消えてしまった。

 一陣の冷たい風が境内に吹き渡り、太の肌を容赦なく刺す。しかし、太はそれを気にも留めない。

「望月さん。あの」

「太君」

 望月は太の方に向き直る。それから少しだけ口元を綻ばせた。

「外は寒いわね。部屋に戻りましょうか」

 そう言って、社務所の中へと歩いていく。太がその場に立ったままその様子を見守っていると、望月は玄関で足を止める。

「少しくらいなら、昔話をしてあげてもいいわ」

 そう言って、中に入っていった。


「さて、何から話したものかしら」

 社務所の広間。熱い緑茶の入った湯呑みに口をつけ、望月は呟いた。対面には太が座っている。

「あの、望月さん」

「どうしたの、太君。ああ、やっぱり興味ないかしら。昔話なんて」

「いえ、そんなことは」

「そう。ありがとう」

「でも何で、昔の話をしようだなんて」

「そうね、何でかしら? 取り立てて話すようなことでもなし、話したところで何か事態が変わるわけでもなし。でもあえて言うなら、ただ誰かに聞いて欲しかったのかも。特に太君とか、物書きしてるから私の話を面白可笑しくしてくれるでしょうし」

 望月は湯呑みの中の緑茶を見つめながら、少しだけ微笑んで言った。

「さやの話は」

「間違ってないわ。確かに、私は月で生まれて、月で育った月の民よ。ああ、ごめんなさい。少しくらいと思ってたけど、ちょっと長くなるかも」

 望月は湯呑みをテーブルの上に起く。そこから、もくもくと小さな湯気が立ち上がる。

「そうね。私がここに来たのは、確かに人質としてよ。当時は、ええ、中々ピリピリしてたみたい。こっちの話で言うとキューバ危機ってやつみたいな感じ。もっとも、当の私はそんなつもりはなかったのだけどね」


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