【本編】太一の異界手帖:第六章 思い出②
菅原駅は菅原市の中心地の一つである。隣駅にはより繁華街や市役所に近い一宮駅があり、活気という点でいえば菅原駅は一つ劣ってしまうのだが、特急などの止まる菅原駅はやはり市の玄関口でもあり、ビジネス街がこの駅を中心に形成されていることはその証左であった。
「いやーほんと面目ない」
外国人の観光客、高校生や大学生と思しき若者達、親子連れ、様々な雑踏の行き交う中、改札近くの扇情的な広告が躍る柱の脇にいた太は、待ち人からの謝罪の電話を受けていた。
「一体、どうしたんですか? 急に行けなくなったって」
「実はな、高校の後輩が緊急で困ってる事件があるとかで、俺に助力を頼みたいんだと。すまん、他らなぬ後輩のためなんだ」
「ふーん、じゃあ僕のことはどうでもいいってことですか?」
「う、いやそういうわけじゃ」
「ぷっ」
太は耐え切れずくすくすと笑い出した。電話越しの宗像は何が何やら困惑している。
「はは、冗談ですよ。僕のことは気にしなくていいです」
「すまん。この埋め合わせはまたどこかで必ず」
「いえ、そんな逆に悪いです」
「いやしかし」
「あのですね宗像さん、僕は貴方の彼女じゃないんです。これでも男なんで、そんなみみっちいことは気にしてませんよ」
「ふむ、そうか。それもそうだな」
途端に朗らかな声になる。おのれ、余計なことを言うんじゃなかった。太は少し自分の言動を後悔した。
「まあ冗談はともかく、どこかで必ず借りは返すさ」
「……了解です。とりあえず今日は適当に羽休めをしてきます」
「ああ、ありがとう。じゃあまた今度」
「はい」
電話が切れると、太は徐に歩き出した。
生野の潜伏先は一先ず望月と日井が調査することになった。太も調査の協力を申し出たが、「最近、ずっとこっちの活動させてて申し訳ないから、たまには羽を休めてきなさい」と望月に断られてしまった。しかし太は休日の使い方というものがあまり分からないので、宗像を誘うことにした。宗像は「お前もガールフレンドを持った方がいいぞ」などとからかいながらも快諾してくれたが、しかし、今日になって後輩から緊急の用事で呼び出されてしまったため、宗像は行けなくなってしまい、今に至る。
休日の使い方が分からないのは確かだが、太は元々一人で行動することにも慣れていたので、いつものように書き物のためのネタ集めをすることにした。ただ、唐突に出来てしまった時間である。何処に行くかと考えあぐねてしまった。
「ま、いいや」
たまには何も考えずにぶらぶらしてみよう、太はあてどもなく北口に向かって歩き始めた。しかし、無意識に人の少ない北口へ向かってしまうのは何とも自分らしい、と太は思った。元々人ごみがあまり好きな方ではないのだ。賑やかなのはいいことなのだが、それがいいと思うのは祭りの時くらいだ。普段の賑やかな街並みは何だか自分という存在の小ささを思い知らされて、少し心が窮屈になってしまう。
「と、いけないいけない」
あまり後ろ向きなことを考えるのはやめよう。太は匂いに釣られるように目の前のクロワッサン専門店に並ぶ。巷で人気のその店は相変わらず行列が出来ていたが、特に時間に追われているわけではないので、太は気長に待つことにした。
「しかし、思いの外買ってしまった」
太は片手に提げた紙袋を持って、旧貴賓館前広場の川沿いのベンチに座った。
旧市街にあるこの広場は比較的街の中心部に位置しながらも、観光客も地元の人間もさほど多くないので、静寂を求めるには格好の場所だった。太は特に何をするでもなく上を見上げた。常緑樹から漏れる木漏れ日がキラキラと輝いていて、どことなく健やかな気持ちにさせた。太はそのまま目を閉じる。
「たまにはゆっくりと過ごすのも悪くない」
そう、ゆっくりと……
「はじめ?」
突如、聞き覚えのある声がした。その可愛らしい声に太は思わず目を開けた。
「たまき?」
太は目を丸くして言った。
「ええ、そうよ」
それに答えてたまきはにっこりと笑う。
「一体、どうしてここに」
「あら、私がここにいてはいけないの?」
「ううん、そんなことはないけど」
「じゃあいてもいいのね」
そう言ってたまきは太の隣に座る。
「ああ、そうだ。丁度よかった。そこにあるクロワッサン要らない?」
太は横に置いていた紙袋を指し示す。
「ヤケ買いじゃないけど、一杯買っちゃて」
「いいの? 嬉しい」
たまきは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そんなにクロワッサンが好きなの?」
「ええ、とっても」
「よかった。ほら、お食べ」
「はじめ、私は犬じゃないわよ」
「ああ、ごめんつい」
ばつが悪そうに俯く太を見てくすりとたまきは笑う。
「可愛い」
「え、何か言った?」
「いいえ、何も」
たまきは素知らぬふりでクロワッサンを頬張る。ちまちまと食べる様子はまるで小動物のようである。
「美味しい?」
「ええ、とっても」
「そう、よかった」
「はじめは食べないの?」
「いいよ、さっき食べたから」
「そうなのね」
クロワッサンを食べ終えた小さな手でごちそうさまでした、と手を合わせる。
「ありがとう。本当に美味しかったわ」
少女は無邪気に笑う。その様子を見て太もつられて笑ってしまった。
「ねえ、はじめ」
「うん、何?」
「今日は予定は空いているかしら?」
「見ての通り、今日は何もすることがないよ」
太は苦笑する。予定が空いているということが後ろめたいことのように感じるのはどうしてだろうか?
「そうなのね。それなら、今日一日付き合ってもらえないかしら?」
「え」
「はじめと色々な所に行ってみたい。駄目?」
たまきが下から顔を覗き込むと、太は思わず目をそらしてしまった。
「いや、いい、けど」
目をきょろきょろさせながら太は言った。
「じゃあ決まりね。行きましょう!」
「はいはい」
たまきの差しだした手を太は握った。
「ねえはじめ、これ似合うかしら?」
ポートシティ記念公園に隣接している複合商業施設である「ポートランド」、その売り場の一角で、たまきは眼鏡を試着して太にみせた。太はあどけなさと知性が混在したその黒縁眼鏡の少女に思わず見とれてしまっていたことにハッとする。
「いいと思う。可愛い、うん」
「やった! はじめがそう言ってくれるなら、眼鏡をかけるのも悪しからず、ね。はじめはどう? 眼鏡はかけないの?」
「そう言われると、かけないかな」
太は物書きをしている身としては比較的目がよかった。日常生活においては基本的に支障がなかったし、必要だと感じた時といっても遠くの席から黒板に書かれた字を判別したいと思った時くらいだ。
「字を見てる事が多いから、よくよく考えてみると目が悪くなっててもおかしくはないのだけど、何故か目はいい方なんだ」
「それは不思議ね。でも、目が悪くないからって、眼鏡をかけてはいけないという決まりもない筈よ。伊達眼鏡、というものも世の中にはありますわ」
「それはそうだね。でも伊達眼鏡だなんて皆にからかわれるよ」
「そうかしら? 似合うと思うのだけどなー」
たまきは首を傾げながら太の顔を覗き込むと、太はその視線に耐え切れず目をそらしてしまう。
たまきはそっと太に縁の薄い楕円形眼鏡をかけると、その見栄えに満足したらしい、「やっぱり似合ってる」と満足そうに言った。
「こら、人で遊ばない」
「ごめんなさい、つい」
そう言いながらも、少女は上目遣いで悪戯な笑みを浮かべた。
ポートランドをぐるりと一回りした後、二人は隣接している小さな遊園地を巡り、市のランドマークであるポートタワーの中に入ろうとした。
「たまき、ちょっと待って」
自分の前を軽快に歩くたまきを太は制止すると、少女は後ろを振り返った。
「どうしたの? はじめ」
「ごめん、もうちょっと速度を緩めてくれないかな」
「あら、疲れたのね。ごめんなさい、どんどん連れ回しちゃって」
「ああ、気にしないで。それにしてもたまきは元気だね」
「ええ、まだまだ遊びたい盛りだもの。それにはじめといるの、とっても楽しいわ」
たまきはにっこりと笑った。その無邪気で愛らしい笑顔に太は思わず顔を綻ばせる。
「そっか、それは嬉しい限りだ。僕の方こそ、たまきといるのは楽しいよ」
「ほんと? よかった。はじめ、私に合わせてくれてるだけなのかなと思って心配だったもの」
「はは、そんなにつまらなさそうに見えてた? 僕」
「ええ、とっても!」
「えー、それはなんと言えばいいのか……ごめんなさい」
太が申し訳なさそうに項垂れると、たまきはクスッと笑う。
「冗談よはじめ」
「はあ、よかった。もうたまき、意地が悪いよ」
「ふふ、ごめんなさい」
ポートタワーの展望台に着くと、たまきは弾むように窓側に向かった。目を輝かせながら下や左右に頭を動かす。
「はじめ、見て。街がおもちゃみたい」
「本当だ」
そう言えば菅原市に来てからというもの、はじめはポートタワーに登ったことはなかったことを思い出した。元々、観光目的で菅原市に来たわけでもなく、特に表立って行きたい理由もなかったからだ。
「この街ってこうしてみると後ろに山があって、前には海があって、それでいて程よく発展していて、凄く恵まれたとこだね」
「そうね。私、この街は好きよ。はじめも好き?」
「もちろん」
二人は展望台をぐるりと一周する。たまきが窓から見える景色をじっくりと観察することもあり、一回りするのに三十分くらいかかった。
周りにいたのはやはり家族連れやカップルばかりだが、その中に混じってバックパックを背負った外国人や一人旅らしき男性が混じっている。
自分達は一体どのように見られているのだろうか、ふと太は考えた。兄妹というにはどこかぎこちないし、友達というには少し歳が離れすぎている。
「まあカップルなわけないし」
「何か言った?」
「いいや、何でもない」
太はたまきの問いに首を振った。
「ねえはじめ」
「何?」
「こうしていると、恋人みたいね」
さっきぼそりと言ったことが聞こえていたのか、不意に少女の口から出た言葉に太は激しく動揺してしまった。
多分、たまきは何の気なしに言っているのだろう。それは分かっていたが、それでも太は火照ってしまった顔を見られないようにそっぽを向いた。
「どうしたの? 耳が赤い」
「ば、馬鹿っ。これだから子供は……」
「はじめ、大丈夫? 具合が悪いの」
下から心配そうに顔を覗き込むもうとするたまきを太は手で制した。
「ちょっと待って、覗き込むの禁止!」
太のおかしな反応に、たまきは首を傾げた。
夕日が空をオレンジ色に照らしている。橙の上空にはまるでこれから家に帰るかの如く鳥の群れが飛んでいた。
「はじめ、今日はありがとう」
ポートランドの入り口の近くにある閑散としたバス停。太に笑いかけるたまきの髪は夕日で輝いていた。
「いいよ、僕も今日はちょうど暇してたんだし。いい羽休めになった」
「ふふ、はじめは忙しいのね」
「う~ん、忙しいのかな。どちらかというと、自分で忙しくしてるのかも」
たまきは首を傾げる。
「どうして?」
「恥ずかしい話、休みの時間の使い方が分からないんだ。だから書き物ばっかりしてるし、たまに外に出ても、それは資料集めだったり」
太は思わず苦笑する。
「でもね、今日はそんなことがどうでもよくなるくらいにいい一日になった。そういえば、たまきは何でポートランドに行きたかったの?」
「そうね、なんとなく、かしら。ごめんなさい、自分のことなのによく分からないの。前に誰かと一緒に来たことあったかな。胸に何か引っかかる」
「無理に思い出そうとしなくてもいいよ。そういうのはある日ポッと思い出すから」
「そうね。それに、思い出すべきことじゃないかもしれない」
「たまき?」
「ううん、何でもない。それにしても不思議な気分。他のことがどうでもよくなっちゃうくらいに、いつまでもこの時間を過ごせたらいいのに、なんて思っちゃった」
たまきは嬉しそうな、しかしどこか寂しさを含んだような顔をした。
「はじめ、あの」
たまきは下を向いて、もじもじし始める。
「また、誘ってもいいかしら?」
「もちろん」
「やった、ありがとう」
たまきは太に飛びつくと、太は唐突の出来事に面食らってしまった。
「か、帰りはどうする? もう日が沈む頃だし、送っていくけど」
その提案にたまきは首を振った。
「大丈夫よ、はじめ。私は一人で帰れる。はじめの方こそ、一人で大丈夫?」
「言ったな、お嬢様め」
太は微笑みながら言うと、たまきはくすりと笑う。
「ではごきげんよう、はじめ。また逢う日を楽しみにしています」
タイミングを合わせたかのようにちょうど到着いしたバスに乗り、たまきはその場を後にした。




