【幕間】鬼姫奇譚:第六章 八津鏡③ [改]
「やあっ!」
羽白に思い切り薙刀を振り下ろす。周囲を炎に包まれた暴風が襲い、砂利が舞い上がる。
「むうう」
羽白は持っていた刀で薙刀を受け止めた。全身が小刻みに震えている。
「どうしました羽白! 先程から覇気がない、それに守ってばかり」
「こうして刃を交えるのは初めてですな。千代君、今になって貴方の存在の大きさというものを噛みしめております」
「昔話に花を咲かせている時間は」
薙刀を引く。
「ないっ!」
八重千代は羽白を突き飛ばし、彼にめがけて大きく薙刀を凪いだ。
たちまちに八重千代の前方を火の奔流が襲い羽白がそれに飲まれる。火の消えたその場所で、羽白が膝に手をついて大仰にむせていた。
「立ちなさい。これで終わりではないのでしょう」
「はは、流石にこれは応えるねえ。あちこちが灼けるようだ」
「嘘おっしゃい。ピンピンしているではありませんか」
「おや、見抜かれてしまいましたか」
「見抜くも何も、稚児だって分かります。そんなあからさまな演技」
ゴオオ、肚に響くような轟音が鳴る。
「なに?」
八重千代は背後を振り返る。広場の中央やや奥に設えられた祭壇から、光の濁流が漏れ出ている。
「ようやくこの時が来たか」
「まさか」
「ああ、貴方が旧友と戯れている間に"封は解けた"というわけだ」
「おのれ。のらりくらりと躱していたのはやはり」
「ええ。目的の達成にはより確実な方法で遂行すべきですから」
「させない、今からでも」
聡文へと向かおうとした八重千代の身に鋭利な痛みが走る。
「いっ……」
「焼きがまわった、というやつですかな。以前の貴方では考えられない」
その場に崩れ落ちた八重千代から静かに刃を引き抜きながら、羽白は言う。
「うっ、貴方、達。なんてことを」
「貴方のそのように焦った表情が見れるとは。長生きしてみるものだ」
「巫山戯たことを」
「もう遅い。そこで事の一部始終でも見ておくがいいさ」
「やっ、聡文、やめ――」
唐突な出来事だった。白の濁流は瞬く間もないままに淀んだ黒いものが混じり、祭壇を中心とした周囲を大きな白黒の渦に巻き込んでいった。
「なんだこれは。馬鹿なっ! こんな筈は」
間一髪その濁流を逃れた聡文は狼狽する。
「一体、何が起きた……」
大岳と羽白をはじめ、その場にいた者達は呆然としてその場に立ち尽くしていたが、八重千代だけは痛みに耐えながら、よろよろと立ち上がる。
「まだ手遅れじゃない。私がやらなければ」
「一体何なのだ、これはっ!」
眼前に広がる自らの予想を違えた現象に聡文は誰にともなく問いかける。しかし、誰もその問いに対する答えを持ち合わせておらず、ただ目前の出来事を見守るばかりであった。只、一人を除いては。
「何を狼狽えているのですか。あれこそ、貴方が欲しがっていたものの正体ですよ」
「そんな。違う。こんなものは私が知り得た情報と乖離している。こんなことは一も記載されてはいなかった」
「……聡文、八津鏡に関する文献をどこかで手に入れたのですね。おそらくその文献は間違っていないと思いますよ」
「ではあれはどう説明する!」
「この結果は当然のことです。八津鏡の中にあった穢れが出ているのですから」
「穢れ、だと?」
「そう。そもそもあれは古来より宝器や神器などと呼ばれてきたもので、本来であれば穢れを取り払い浄化する役割を持ちます。生き物が食べ物を分解して活力を得るように、鏡は穢れを取り込み浄化することで発生する力を半ば永久的に蓄積していく」
「ええ。そのことを知ったからこそ、私達はその溜まった力を利用することで事を成そうとした」
後ろにいた羽白が答える。
「ですが、鏡にはそんな機能はとっくにありません」
「なんと」
「よく知っているとおり、鬼の起源にはいくつかあります」
「堕ちぶれた神の成れの果て、たまたま鬼の特長に酷似していた妖怪、主のいなくなったはぐれ式神、そして」
「人から鬼になったもの」
「確か貴方は、元は人だったと」
「そうです。では只の小娘だった私がどうして鬼になってしまったのか」
「ふむ、まさか」
「ええ。私が後世鬼などと呼ばれるようになったのは、八津鏡の力によるものです」
「……しかし、そのことと、八津鏡を使ってはならないことに何の関係が?」
「遠い昔、八津鏡によって私は鬼となりました。しかし、人を人でないものにしてしまうのです。本来そのような使い方は想定されていない。その負荷が大きかったのでしょう。石が持つ浄化作用は著しく損なわれ、ただ穢れを取り込むだけのものになってしまいました。迂闊に放棄するわけにもいかずにそのまま秘匿していたのですが、そんなものを解き放ってはどうなってしまうか」
「……なるほど。私達はそもそも間違っていたのか」
「過ぎてしまったことは仕方がありません。今はこの状態をなんとかしなければ」
その時、その渦がまるで風船のように割れた。そして、その中から現れたの腕の付いた白い肉塊のような生き物。生き物という言葉が相応しいのか判然としないそれは、体の上部に付いた赤く光る二つの目をゆっくりと動かし、周囲を見回す。
「千代殿、これは」
「巨人の成れの果て、といったところでしょうか。神代の魔物が"鏡のあちら側"で穢れを喰らっていたのかもしれません。いずれにせよ、皆さん。何としてもこれを外に出してはいけませんよ」
八重千代は支えにしていた薙刀を構える。
ふと、その赤い目は一人の若い男を捉えた。そして、徐にその片方の腕を振り上げ、目にも止まらないような速さでその男に向かって振り下ろした。
男は何が起きたのかも分からずに一瞬呆然としていたが、ハッと我に返り、自分が無事であることに気が付いた。体にか細い腕が巻き付いている。
「呆けている場合ですか。気を引き締めなさい」
声の主は八重千代であった。男はさっと立ち上がる。
「も、申し訳ありません」
「若人よ。自分の身は自分で守りなさい。それが出来ないなら、ここから逃げなさい。逃げるは恥ではありません」
「い、いえ、逃げません! 見くびらないでください」
そう言って男は自分に活を入れる。それを横目に見て、八重千代は少しだけ微笑む。
「どうしますか? 千代君」
羽白が問いかける。
「鏡です」
「鏡?」
「門となっている鏡を、破壊、します。一か八かですが、上手くいけば眼の前のこれも消えるでしょう。強引なやり方ですが、こうなってしまってはそれしか方法がありません」
「なるほど」
「行きます。援護してください」
そう言うや否や、八重千代はその靄に向かって、突進していく。
それが現れて既に数分が経過していた。相変わらず鏡からは黒と白が混ざった霞のようなものが流れ出てきており、それは鏡の眼の前にいる肉塊の化物へと流れていた。
八重千代はその霞に触れてはいけないと本能的に感じ、それを避けつつ鏡に近付こうと試みたが、尽くがその巨大な塊に阻止されてしまう。そしてその場にいた他の者は、八重千代を助けるように動こうとするが、下手に動いては却って八重千代の邪魔になるかもしれないと二の足を踏んでしまっていた。
肉塊の化物が腕を上げる。すると、その腕は幾重にも分かれて八重千代を捕らえようとした。
「くっ」
八重千代は思わず唇を噛む。もう少しで鏡に届きそうなのに、肝心な所で手が届かない。せめて、一瞬だけでもこの生き物の注意を引きつけてくれたら。
突如、その幾重にも分かれた腕は炎に包まれた。八重千代の視界の端に聡文が映る。八重千代は微かに口元を緩ませた。
これなら行ける、血路が開けた! 八重千代が確信した瞬間であった。
「あ」
聡文にもうひとつの腕から伸びた触手が伸びていた。丁度彼の死角になっている所からの反撃。
「え」
聡文は素っ頓狂な顔をする。何故、八重千代は自分の方に向かって来るのか。
彼女の華奢な体が力一杯自分の体を突き飛ばそうとする。しかし、視界の隅をよぎった何かによって突き飛ばそうとした彼女諸共突き飛ばされた。
「どうして?」
聡文は瞬時に理解した。自分を見捨てていれば、鏡は破壊出来たのに。
「そんなの決まって、ます」
八重千代は腹を押さえ、吐血する。躱しきれずにかすった触手が彼女の体を強く打ったのだろう。
「分かっていても、それが出来なかったから」
八重千代は大きく胸を上下させながら言った。
その醜悪な化物は赤い眼光を二人に向け、口もないにも関わらずまるで船の汽笛のような雄叫びを上げた。声があたりに木霊して、柱が、壁が崩れんばかりに揺れる。
「くっ」
聡文は八重千代を守るようにして徐に立ち上がり、刀を構えた。
おかしなこともあるものだと、聡文は思った。さっきまで敵対していた筈なのに、今は彼女を守ろうとしている。窮地にも関わらず、その状況の奇妙さに思わず笑みが溢れた。
それは、腕を使わずに今度はその少し透けている巨体を上に上にと伸ばす。それに合わせるかのようにその体は横へも広がっていく。
「これは、不味いな」
聡文はこの目の前の存在が何をしようとしているのかを理解した。
この空間全てを押し潰す気だ。
「くそっ。皆ここから逃げろ!」
聡文が叫ぶ。しかし、それはもう地上へと向かって急降下を始めていた。
駄目だ、間に合わない! 聡文は死を覚悟した。
その時、空を鋭利な刃物が貫く音がした。間もなく奥の方から腹に響く重々しい爆発音が起こり、周囲を轟かせる。そして、それは光の爆発とでも形容するような目に見える形となってその場にいた者達の前に現れた。
「く」
聡文を始め、羽白や大岳達までもが思わず目を覆った。一体何が起きたのか。
やがて光が収まると、彼らは目の前の光景を疑った。
先程までそこに門番のように居ずわっていたあの肉塊の化物は全く雲散霧消して跡形もなくなっており、鏡は粉々に砕けていたのだ。
「よお、皆さん。無事かい?」
どこからか呑気な男の声が聞こえてきた。
「せん、せい?」
八重千代は激痛の走る体をなんとか起こし、その男をしっかりと捉えた。
「やあご機嫌うるわしゅう。ですから、勝手な行動はしないようにと言った筈なのに。困った人だ」
弓を持っていた天野はいつもの調子で八重千代に言った。
「申し訳ありません」
「傷の手当てを」
「いいえ大丈夫です」
「しかし」
「これくらいなら大したことは、とは言えないですが、先生。私はしおれても鬼ですよ。手当は不要です」
「ふうむ、どうやら強がりではなさそうですな。分かりました。ところで貴方の隣にいる男は確か」
「あっ、聡文!」
八重千代は身構えるが、直後に痛みが走り、思わずその場に膝を付きそうになった。
「まだ、やるつもりですか」
「まさか。そう思っているのは、八重千代様、もう貴方だけだ」
聡文はため息をつくように鼻から息を吐いた。その言葉を聞いて、八重千代は少しだけ表情を緩める。
「では」
「ええ、私達の負けだ。いや、そもそも最初から敗北していたのか」
そうやって自嘲気味に笑う聡文。百年にも及ぶ因縁。それは、火蓋を切られることもなくこんなにもあっけないと終わりとなった。
しかし、この積年の恩讐が消えたわけではない。各々が内に肥え太らせたこの怪物を一体これからどうすればいいのだろうか。
聡文の肩をぽんと叩く者がいた。聡文が振り返ると、それは羽白であった。
「まあ、いいではありませんか。幸い犠牲者はいないのですから、ここは最悪の事態は避けられたのだと、前向きに考えましょう」
「全く、貴方はいつもそうだ。でも、そうですね」
生きるとは、そういうことなのかもしれない。一生消えない後悔がある。どうあがいたって晴らせない気持ちがある。無理やり納得させたつもりでもそれは度々自らを苛み、苦悶させるだろう。だがそれを受け入れるとはいかなくても、抱えて進み続けるのが生きていくことなのかもしれない。
「本当に、この世界はままならない」
その場に力なく座り込む聡文に、八重千代は微笑みかける。
「全く、困った子ね。後できついお仕置きよ」
「は、子供じゃあるまいし」
聡文は力なく笑った。




