【幕間】鬼姫奇譚:第五章 仙涯郷② [改]
岩山によって周囲を囲まれた盆地。そこには外界と変わらず陽の光が天上に上っている空がある。天野達の出てきた入り口は小高い丘の上にあるようで、盆地を一通り見渡すことのできる場所であった。
眼下には街が広がっており、碁盤の目状を基調とした街は、それだけを見れば秩序というものを感じさせるのに十分であった。
「ここが、仙涯境」
街を眺めながら八重千代はポツリとそう漏らした。
「ええ、どうです。凄いもんでしょう」
「しかしあんな岩山からこんな広がりのある所に出るなんてな。おかしなこともあるもんだ」
「簡単なことですよ。実際には、あの山の内側にあるわけじゃない。そんなことをしたら山が倒壊してしまうよ。そうではなくて、ここは別の空間に繋いであるのさ」
「成程ね。ま、全国津々浦々から繋がってるならそれも当然か」
「さあ、街まで降りましょう」
「おっと、ちょっと待った」
そう言って横にある整備された坂道を降ろうとする羽白を天野は制止する。羽白は振り返ってにっこりと笑う。
「大丈夫ですよ。ここには数は少ないが人もいます。多少好奇の目で見られるかも知れませんが、貴方に害を加えようとする住人はまあいないでしょう」
「そうか。それなら安心した。面倒だが、ちょっとまじないでもかけとかないとって思ってたから」
そう言いながら天野は羽白についていった。八重千代もそれに続いて坂道を降る。
「先生は呪術を?」
「インスタントかつ儀式的なやつだけですがね。まあ便利ですから、簡単なやつなら積極的に取り入れていってるんですよ」
「そうですか。でしたら、鬼道など如何でしょう」
天野が八重千代を振り返ると、八重千代は手を合わせて朗らかな笑みを浮かべていた。その目はまるでめぼしい客を見つけたセールスマンのようであった。
「はい?」
「鬼道は呪術を発展継承して体系化したものです。ですから、いくつかは人間にでも使えるものはございますよ」
「そうですね。まあ、気が向いたらで」
「そうですか、残念」
天野達は土で踏み固められた道を歩いていく。
街までの道は整備されており、また開けた土地であったので、遠くまで見渡すことが出来た。道を歩いていて天野が連想したのは、地方の田舎町である。周りを見渡せば田んぼや畑、河や鎮守の森を思わせるものがこの空間を支配しており、空の青さがそれを一層際立たせた。
「中心部にある街の付近にはいくつか農村もございます。街に住む者の方が多いですが、何せ何かと騒がしいですからね」
羽白は退屈しないようにとの配慮からか、道中色々と仙涯境について解説を挟んでくれ、天野と八重千代はそれらを感心しながら耳を傾けていた。
「そっちの方は、正に桃源郷、といった感じがしますな」
「ああ、桃源郷、ですか。確かにそうかもしれません。生活のために仕方なくではなくて、どちらかというと、求めてそこに住んでますからね。しかしその意味においては、外界でも似たようなことがあったような気がするのですが。ほら、すろーらいふ? でしたか。如何でしょう」
「まあ、確かにな」
そう言っている内に、やがて朱塗りの大きな門が見えてきた。そしてその奥の門は開いているようで、中の様子をうっすらとだが垣間見ることが出来た。
「あれが街の入口ですか?」
八重千代が問いかけると、「はい」と羽白はそれに頷いた。
「一応門番がいますが、気にせずに進んでください」
「止められないのか」
「止められませんよ。仙涯境は至って平和なためか、基本的に緩いのです。だからよほど風体の怪しい者や挙動がおかしな者でもない限り、素通り出来てしまう。それが良い所でもあり、悪い所でもあるんですが」
門の前まで来ると、門番と思しき馬の頭をした者と牛の頭をした者が門の両脇に一人ずつ立っていた。天野がふと片方の馬頭に目をやると、それはその手で口を覆いながら大きな欠伸をしていた。
「さ、ここを入ればいよいよ街の中です」
両脇から気怠げな視線を感じながら、三人は門をくぐった。
「まあ」
八重千代は思わず口元で手を覆った。
「これは凄い。まるで豪華絢爛の絵巻物を見てるみたいだ」
門をくぐるとそこは広場になっているようであった。駅前広場を思わせる場所であったが、周りに聳えているのは鉄骨のビル群ではなく、木造の楼閣群であった。周りを見渡すと、そこかしこに人がせわしなく行き交っている。人、といってもその風体は様々で、人と何ら変わらない者もいたし、獣人、あるいは提灯などの物を擬人化したような者もいた。行き交う人々の服装も様々で、近代以前の服装をした者もいれば、びっしりと三つ揃えスーツを来ている者もいるし、中には中袖のシャツにジーンズを履いた者までいた。
「驚いていただけたようで何より。ここは街の中心部分ですからね。新宿、梅田などなど外界のそれに及ぶべくもないだろうが、これはこれで趣はあるでしょう」
「そうですな。流石に感動したぜ」
「夜などは明かりが灯りますので、一層美しいものですよ。是非とも一度お目に入れたいものだ」
「え、ええ。今回の件が片付きましたら、是非」
思わずうっとりしていた八重千代はハッとなってそう言った。
「羽白、聡文の家は分かりますか?」
「はい、案内しましょう。付いてきてください。あれに乗ります」
そう言って、羽白はある一点を指差した。
そこには、路面電車と思しき物が発着場に到着しようとしていた。
「驚いた、まさかこんなものまであるなんて」
路面電車から降りた八重千代は思わずそう感想を漏らした。
羽白曰く、路面電車が整備されたのはどうやら戦後を過ぎたあたりらしく、今ではメインストリートを走ることで街の足となっているらしかった。
「仙涯境は昔からありますが、電車はここしばらくでの大きな変化の一つですな」
「そういえば、西洋建築みたいなものもありましたね」
「ええ。そちらは明治に入ったあたりからでしたか。西洋趣味の者もまあ増えました、私とか」
「この街も日々変わっているのですね」
「日々、というわけではありません。街が変わるのはいつも外で何か大きな変化が起きた時です」
「成程ね」
天野は一人納得するが、八重千代は首を傾げる。
「先生、どういうことですか?」
「いえね。街が日々変化しているのであればビルが建っていてもおかしくはないだろうし、もっと現代的な道具が街中にあっても良い筈でしょう。確かにここは近代化の影響がありますが、どことなくふるくさ、一昔前のばかりだったり、部分的であったりするのは何故でしょうか?」
「最近のものは街に必要がないから、とかではないですか?」
「確かに不便を感じてなければ無理に取り入れる必要はないですが、考えてみてください。そもそも、さっき乗った路面電車だの西洋建築だの、それらはどこから入ってくるのでしょうか?」
それを聞いて「そういうことですか」と八重千代は納得した。
「ええ。ここは外界とは隔絶された空間です。これまでの情報を聞く限り人の出入りは殆どないような状態で、日々何かが流入してくるとは考えにくい。故に何かが入ってくる時は決まっている」
「それが、外で大きな変化が起きた時なのですね」
「まさしく。維新だの戦後だのの混乱した時期にある程度まとまった者がここに流れ込んできたんだ。その時に彼らが外で経験したもの、持っていた物などがここに一緒に入ってくる。この発展の有り様はそういうことでしょう、羽白さん」
「ふうむ、私は学者ではないので、断定は出来ませんが、そんな所でしょうな」
「しかしま、つくづく興味深い街だ……」
「あの、先生。そろそろ」
「と、すみません。こんな雑談をしている場合ではありませんでしたね。行きましょう」
聡文の家は街中心部から近くにある静かな地区に建っていた。羽白によると、武家屋敷や洋館の建ち並ぶその通りはそれまで通ってきた道と違って人気はほとんどなく、見回しても一人いるかいないかくらいであるとのことであった。
「目立ちますし、何よりお二人が直接来るのはまずいでしょうから、一先ず私が彼の動向を調べてきましょう」
聡文の家のある地区の近くまで来た時、羽白はそう言ったが、八重千代は慌てて手を振る。
「いえ、そこまでしなくても大丈夫です。これからは私と先生とで」
「いいえ、以前も申し上げました通り、私にも責任の一端がありますから。案内して終わりではばつが悪い」
「でも、羽白。貴方はここの住人なのでしょう? もし変な疑いを受けて立場が悪くなっては」
「その時はその時ですよ。たといここにいられなくなろうとも、外に移り住んでしまえば済む話です。兎に角、私は行きます」
頑なな態度に八重千代は「はあ」と軽くため息をつき、それから手を差し出した。
「あまり無理をしないでくださいね。貴方は私の大事な友人なのですから」
「ええ、もちろんですとも。私は貴方ほどの力もないし人望もないが、それでもしぶとく生き残ってこれたのは悪知恵だけは働いてきたからです。貴方も先刻承知の通りでしょう」
そう言いながら、八重千代と握手を交わす。
「お、折角なので俺もいいですか」
そう言って天野が手を差し出すと、羽白は「もちろん」とその手を握り返した。
「客士、でしたか。仕事とはいえ、こんなことにまで首を突っ込むとは物好きな人だ」
「そうですね。自分でもそう思いますよ。しかし何分生活がかかってるもので、ウダウダ言ってられんのです」
「戻ってきませんね」
天野は前に座っている八重千代に言った。
二人は羽白から受け取ったお金があったので、近くの喫茶店と思しき所に入って羽白が帰ってくるのを待つことにした。どうやら仙涯境では独自の通貨が流通しているようで、外界のお金は商品と交換するための媒体ではなくむしろ交換する対象である商品として取り扱われていた。
「考えたくはないが、ひょっとして何かあったのかもしれないですね」
喫茶店は多少人が混んでいるのもあってか、店員と思しき猫の耳と尻尾の付いた女性が忙しなく動き回っている。
既に羽白と別れて二時間を過ぎようとしていた。羽白は別れ際に、かかっても一時間で戻ると言っていたのを天野は思い出す。
「……そう、ですね」
八重千代は口元の前に手を持っていったまま、どこか気の抜けた返事を返すので、天野は怪訝な顔をする。
「八重千代さん、どうしました?」
「あ、いえ、何でもありません」
八重千代は慌てて首を振る。
「そう、ならいいですが」
その様子に何でもないことはない筈だと天野は思ったが、無理にそれを問いただすのも無粋な感じがしたので、それ以上追究しないことにした。
ふと、テーブルのコーヒーに目を落とす。微かに湯気の立っている、底を見通すことの出来る見た目としては特に何の変哲もない濁った液体。ちょっとした興味から頼んではみたものの、何処に聡文の関係者がいるかも分からないので、結局飲まずじまいである。八重千代の方も、頼んだアイスティーに手を付けずにそのままにしている。
「あの、先生」
「はい」
「聡文の家に参りましょう」
「しかし、羽白さんのことは」
「いえ、まだ分からないですが、これだけ時間が経って戻って来ないのも気にかかります。彼はいい加減な所はありましたが、簡単に約束を反故にするような男ではありません」
八重千代は徐に立ち上がる。
「行きましょう、先生。聡文を探しに」
「何だあ、あんたら。聡文を探してんのか」
ふと、八重千代の背後から声がした。八重千代が振り向くと、そこにはやけに耳たぶが長いワイシャツ姿の男が衝立を隔てた椅子に座ったまま、振り返ってニヤリと口元を歪ませていた。
「聡文をご存知なのですか」
「ああ、まあな。今何処にいるのかも知ってる」
「どうか、不躾なお願いで申し訳ございませんが、教えていただけないでしょうか?」
「そう焦るなよ、べっぴんさん。まあ一旦外に出ようや」
「何だ、あんたは」
「先生、待ってください」
眉根を寄せて立ち上がろうとする天野を八重千代は静止する。
「分かりました。外に出ればいいのですね」
「ああ」
勘定を済ませた後、二人は男と共に喫茶店を出た所にある通りへと出た。男は首の後ろを掻きながら天野と八重千代の方を振り返った。
「それで、何だったかな。ああ、そうだった。聡文のことか」
「はい。聡文の居場所を知っているのですか?」
「まあな、知ってる。でもなあお姉さんよ。まさか、只ここで話すためだけに外へと誘ったなんて考えてないよな」
「ええ、それはもちろん。こちらとて、何の見返りもなしなどと都合のいいことは考えておりません。何か、理由があって外へと誘われたのでしょう?」
そう聞かれると、男は途端に口を歪ませた。そうして二人をジロジロと見つめながら、男は「やれやれ」とポツリと呟いた。
「おい、あんた。何とか言ったらどうだ」
「せっかちだな、落ち着けよ。俺はな、ちょっとしたペットを飼ってるのよ」
そう言いながら、男は腰のベルトにぶら下げていた巾着袋をパンパンと軽く叩いた。
「それがどうした」
「何、長いこと狭い所に閉じ込めてちゃ鬱屈しちまってよくねえ。だからよ、憂さ晴らしにちょっと腕試しさせてもらおうと思ってな。ほれ、出てこい」
そう言って巾着袋の布を緩めると、中から黒い靄が飛び出してきた。それは一箇所に集まって、巨大な物体を形成していく。シルエットという形容がふさわしいそれは、あえて言うならば狼のような形をしていた。
相手を威嚇するかのように、その黒い狼は唸り声を出す。気が付けば、二人と男の周辺に人はおらず、少し離れた所でその行く末を見守っていた。
「こいつは山鳴らしという。もしこいつと決闘して勝てたなら、聡文の居場所を教えてやってもいいぜ」
「そうですか。そんなことでよろしいのでしたら、喜んでお引き受けいたします」
「は、舐めてくれやがってよ」
男がテンポの付いた口笛を吹くと、山鳴らしと呼ばれた黒い狼は二人目掛けて襲いかかってきた。
「こんな所で立ち止まっている暇なんか――」
「おっと」
身構えた八重千代の前に天野が立つ。
「先生っ!?」
「そう何度も女性に助けられてはこちらの立つ瀬がないんでね」
天野の手から文字のようなもの蠢きながら離れていき、やがてそれは斧へとその形を変えた。
「ここは俺を立ててくれねえかな」
突進してきた山鳴らしを天野は斧の柄を利用して打ち払う。軌道をずらされた山鳴らしは、すかさず体勢を直して再び襲いかかってきた。
「ふんっ」
斧を使って振り上げた前足を防ぐ。しかし、攻撃が効かないと分かるや追い打ちをかけるように頭を伸ばし大口を開けて天野に迫ってきた。
「むう」
天野の額から汗がこぼれ落ちる。
「甘噛程度にしろよっ! 死なれちゃ本末転倒だ」
男の声が響く。まるで山鳴らしを心配していない、自身に満ちた声である。
「先生、今助けます……!」
「お嬢さん、手出し無用だ!」
天野の大きな声が響き、八重千代はハッとして動きを止めた。
天野の持っている斧の先端から火が噴き出すと、固唾を呑んで見守っていた周囲からは歓声があがった。真っ黒な獣は思わず前足を離したが、その拍子によろけてしまう。
天野はそれを見逃さなかった。
「割とあっけなかったな。だが年貢の納め時だ」
獣めがけて斧を振り下ろそうとした時――。
「待った!! 降参だ、もうやめてくれ」
天野の前に男が飛び出し、両手を広げて獣を庇う。
「随分と都合がいいじゃないか。先に吹っかけてきたのはそっちだぜ」
「では私の身を八つ裂きにするがよい。それで貴君の怒りが収まるなら」
「ほう。自分からこいつをけしかけた割には、随分大事にするんだな」
「それは」
「先生、私からもお願いにございます。誰かを傷付けたくてここに来たわけではないのですから、どうか矛をお納めください」
八重千代が深々と頭を下げる。
「あー、やれやれ。これじゃあ自分がまるで悪者だ」
天野が持っていた斧が再び文字のような形に戻っていく。そしてやはり蠢きながら天野の手を伝って体の中に消えていった。
「というわけだ。よかったな」
「かたじけない」
男の謝罪の言葉を聞きながら、まあ、元々そのつもりだったんだがな、と天野は心の中で呟いた。
天野は始めから男と獣に敵意がないことに気付いていた。おそらく、男は天野達を仙涯郷から追い出そうとしただけであり、八重千代もそのことに気づいていたのであろう。
「全く、とんだお人好しがいたもんだ」
「え?」
「いや、何でもない」
男の使役していた山鳴らしは影のように雲散霧消してしまい、あっという間にその痕跡を消してしまった。それに合わせるように、周りに出来ていた人だかりも散り散りになっていく。
「いきなり攻撃した手前で申し訳ないが、あんたたち、聡文に会ってどうするつもりだ」
「取り返します。彼は千方院の家宝を持って行ってしまいました」
「……そうか。じゃああんたが」
「私が何か」
「いや、なんでもない。それより聡文に会いたいんだろう?」
「ええ」
「じゃあ宮城だな」
「宮城? ですか」
「仙涯境の中央にある建物さ。大事な儀礼などがある時に使われる以外はとりたてて役目もない只のでかい建物。何故かは知らんが、奴はここ数日家にも帰らずにあそこに篭っているって話だ。まあ、こっちとしちゃ、変な迷惑被らなければ別に勝手にしてくれって感じなんだが」
「おおそうだ」と言って男は袖の中から和本を取り出し、それを天野に渡す。
「これは?」
「仙涯郷の地図だ。宮城の中の様子も書かれている。お詫びといってはなんだが、持っていくといい」
「そうか、悪いな」
「ところであんたたち、俺が最初あんた達を見かけた時にもう一人誰かいた筈なんだが、そいつは何処にいったんだ?」
「羽白、いえ、その人でしたら少々事情がありまして、今は別行動をしています」
「ん、羽白? ああ、どこかで……」
男は少しの間考えるが、すぐに諦めてしまった。
「すまん。何か引っかかるところまでは来てるんだが、もう少しのところで思い出せない」
「そうか」
「先生、先を行きましょう」
「いや、しかし」
「羽白についてですか。彼については確かに気にはなりますが、今は、宮城を目指す方が先決です」
「そういうことなら、分かりました」
八重千代は男の妖怪に向かって頭を下げる。
「地図、ありがとうございます。どうかお達者で。先生、参りましょう」
「ああ」
天野は男の方を振り返る。男は腕を組んでじっと天野の方を見ていた。
「何だ、俺に何かついてるか」
怪訝な顔をしながら、天野は尋ねたが、男は首を横に振る。
「いいや、別に。俺が気になったのはそこじゃない。なんってーかな、お前、人間……か?」
「ああ、だがそれがどうした。ここじゃ人間ってのは都合が悪いのか?」
「いや別に。それよりさっき思い出したことがあった。だから一つだけ餞別の言葉をくれよう」
「なんだ」
「鬼に横道なし、は真理ではない。ゆめゆめ忘れなきよう」




