94.平和の祭典2日目3
「やれやれ……。今日の私はついてない」
エンデンブルグの王カイン・ナーサは自身の次の試合相手を見やると独り呟いた。
静かな佇まいで競技のスタートラインに立つ対戦相手の青年の名はルーク・バレンヴォイム。先程の試合では、一瞬ののちに対戦相手をなぎ倒し、会場内のどよめきを誘っていた男だ。カインも試合を見ていたが、ルークの動きを追うのだけで精一杯だった。正面切って激突した場合、ルークの攻撃に対応するだけの実力がないと自覚しているこの王は、それでも堂々たる姿勢で反対側のスタートラインにつく。
「なにも、力任せにぶつかるだけが勝つ方法ではない。……一か八かに賭けてみるとしよう」
始め!の掛け声でルークとカインはそれぞれの馬を駆る。
―――疾い。
ルークが乗った馬は良く走る。あんな大男を乗せているのだから、スピードが落ちてくれてもよいだろうに……。どうやら彼には常識というものが通用しないらしい。
しかし、勝敗を会場が見守る中、馬がすれ違うまで数メートルという所でルークが馬のスピードをゆるめ、槍先を対戦相手のカインではなく空に向けた。
「!?」
試合放棄か?何故――とカインが考える間もなく、会場から悲鳴があがった。
ルークとすれ違いざまに、「そのまま走れ!スピードを緩めるな!」と彼が叫ぶのが聞こえた。
それと同時に獣のくぐもった唸り声。
馬の手綱を引き、弧を描くように走りながら後方を振り返ったカインが見たものは―――
木槍が後ろ足の大腿部に突き刺さった猛り狂うライオンと、途中で折れた槍を手に百獣の王を睨みすえるルークの姿だった。
「……今日は本当についていない」
カインはルークと反対側からライオンに向き直ると再び独りごちた。
闘技場に突如現れたライオンに、会場は騒然となった。
逃げようとする御仁に、その場で失神するご婦人。
ライオンは闘技場で都度行われる罪人の処刑のために飼われていたものだろう。闘技場の、今日は使われていないはずのアリーナへの出入口の鉄格子が一箇所、いつの間にか開いていた。
ライオンが出てきた出入口と反対側にあるアリーナ側面の鉄扉から続く、廊下というには広いが広間と言うには狭いスペース―――本日は試合の近い選手の待機場や槍の置き場として使われている―――にいたギルバートは、ルークと対峙しているのが猛獣だとわかると、喧騒の中で辺りを見回した。奥に扉が見える。目的の場所であって欲しいと願いながら開けた扉の先にあったものは、十分ギルバートの期待に応えるものだった。
「処刑人の使う武器の格納庫―――当たりだ」
ライオンは、鼻に皺をよせながら低く唸り、ルークから一定の距離を保ちながら左右に歩き周って自身を傷つけた相手を威嚇している。一方のルークは、折れた槍の棒をさらに短く折ると、ライオンの動きに合わせて馬の向きを変えていたが、一瞬馬が小さく嘶いたため、ルークと馬の調和が乱れた。まるでその時を待っていたかのように、ライオンは馬の横腹目掛けて飛びかかっていく。
「しまった―――」
カインが馬を駆るにも追いつける位置ではない。
しかし、当のルークは馬から飛び降りると、ライオンが両手の爪を剥き出しにして飛びかかる正にその瞬間を狙って、身を屈めて右腕でライオンの片腕を内側から払い、その軌道を逸らせた。それでもライオンのもう片腕がルークの肩を捕え、次には口腔から剥き出しにされた牙が襲いかかる。
ルークは素早く左拳をライオンの口に突っ込むと、その手に持っていた先程折った槍の棒をライオンの開いた口に立てる。
口が思い通りに閉まらない感覚に戸惑いをみせたライオンの腹をそのまま蹴り上げると、ライオンは大きくよろめいた。蹴られた衝撃のまま、ルークから少し距離をとり、口の中の木槍の屑を噛み砕くライオン。
木片が刺さったのか、口からは血が流れていた。
「ルーク!これを使え」
ルークの傍に馬で駆け寄ったギルバートが剣をルークに放る。
「サンキュー。タコ殴りは面倒だなと思ってたんだ」
ギルバートから剣を受け取ったルークは、そのまま足取りおぼつかない猛獣を再度蹴り上げると、その腹を足蹴にして、首根に剣を深々と突き立てた。
一方のギルバートは、ルークに剣を渡すと即座にライオンが出てきた鉄格子の方に馬を駆る。
鉄格子の奥は暗い廊下が続き、おそらくそこに猛獣の檻があるのだろう。ライオンが何故檻から出たのか――確かめなくてはならない。
鉄格子の先、暗い廊下を進むと、廊下の側面に再び鉄格子でできたドアがある。ドアの入口にかけられていた南京錠は何かの道具で破壊され、ドアは開け放されていた。
「……ここライオンがいたようだな。鍵は不正に壊されている」
ギルバートは廊下の先に視線を向ける。廊下の突き当たりにある門戸のかんぬきが外されている。
「犯人はここから逃げたか」
ギルバートが門戸の外に出ると、その先は平原と、森が広がっていた。馬に乗った何者かが、森の方に入っていくのが遠くに見える。
闘技場の外壁は、メールスブルク国の王都をぐるっと取り囲んでいる外壁の一部をなしている。外壁の外に出る者と言えば、通常は行商人や旅人だが、それらの者だって都から出るのには整備された出入口から関税を払って、一般的に知られたルートを通る。盗賊だって、人間が通らない道は狙わない。
手つかずの自然に入っていく人影……あれが間違いなく実行犯であろう。
「しかし、これ以上は私の領分ではないな」
「ギル!」
人影が森に消えてからもしばらく森を眺めていたギルバートだが、よく知った声に呼ばれ、王都の方を振り返る。
「ウィルにディーノか……。ついてきたのか?」
見れば、ウィリアムとディーノが武器を手に馬でやってきていた。
「王子が行くのですから、当然僕達も跡を追いますよ。遅くなり申し訳ございません」
ディーノが遅参を詫びれば、ウィリアムが苦言を呈す。
「ギル、1人で行って何かあったらどうするの。ライオンだって、1匹だとは限らないんだから」
「その時はウィルが助けてくれ」
ギルバートは心配する友人に応えた。
「ええっ!?ライオンから?ギルのお願いなら聞くけどさ……僕の墓前には、豆以外なら何でも供えてくれていい」
「冗談だ」
ギルバートは口の端で少しだけ笑顔を作ると、再び森を眺める。
「ギル?」
「いや……。私達も戻ろう。ルークに注目が集まっているうちに。あまりここに居るのが目立つのは良くないからな」
一体誰得なんだろう?謎のルークvs猛獣の回でした。




