85.りんご箱の上で決意を叫ぶ(ライラ視点)
私が前世を思い出したのは物心がつくかつかないかの幼い頃、父が連れていってくれた劇がきっかけだった。
父と観劇に出かけた幼い頃の私は、劇中で見た男同士のキスシーンに衝撃を受けて倒れて、そうして次に目が覚めた時には前世の記憶があった。
後から父は、「お芝居は喜劇で笑える内容だと聞いて連れてったんだ。あんな内容だと思わなかった」と泣きながら謝ってきたが、その事に関しては許すまじと思っている。
それから自分の名前や風貌、両親の職業などを手がかりとして自分が乙女ゲームのヒロインに転生したらしいことを知った。
両親はパン屋を営んでおり、父親と母親は毎日パンを焼いて、ご近所付き合いも楽しくこなし、活き活きとして幸せに暮らしていた。2人とも良い人で、人を疑うことをしないために良く騙されてくる。そのせいか家は貧乏だ。
でも、毎日の生活には困らなかったし、幸せだったから私もそれで良いと思っていた。
―――あの日までは。
その日、私は泣いていた。
大嫌いな奴にプロポーズされたからだ。
「お父さんとお母さんを助けたかったら、僕と結婚しよう」と、奴は当時7歳の私に向かって言った。
奴こそ、父と母が苦しんでいる原因そのものだったのに。
奴は、父親が何年もかかって研究した酵母を盗んだ犯人だった。
屑な上にロリコンの最低で碌でもない男だ。
名前も思い出したくない奴だけど、私たち家族としばらく家族同然に一緒に暮らしていた時期があった。奴は、父親のパンの味を気に入ったからと言って弟子入りしてきたのだった。奴は良く働いたし、物覚えも良かったから父は奴のことを気に入っていた。
奴は私のことをとても可愛がっていて、父と母に向かって私を将来お嫁さんに欲しいとよく言っていた。
私が幼かった事と奴との年の差から、さすがに冗談だと思った父と母がまったく取り合わなかったのが原因で、奴は父の酵母を盗んで大きい店を出した。
そしてあろう事か、奴は、私の父親こそが自分の開発した酵母を利用していた犯人で、今までずっと不当な扱いを受けてきたと主張した。以前から家のパン屋に通ってくれていた人達にとっては、弟子だったくせに何を言ってるんだ、という感じだったが、向こうの方が大きい店で、客足も多い。ごっそり持ち出した酵母を使って新商品も次々に打ち出してくる。時が立つにつれてあちらが正義になっていく様子に、それはそれは衝撃を受けた。
そうして大きい店をさらに大きくした奴は、再び私たちの前に姿を現すと、店を潰されたくなかったら娘と結婚させろと迫ってきたのである。
父と母は折れなかった。
「娘は将来自分の好きな人と結婚させる」と、奴の要求をきっぱりと断ったのだ。
父親は、「酵母はまた新しく育てれば良い、前よりももっと良い酵母を作ろう」と言って、すぐに酵母の研究を再開した。
そういう才能には恵まれた人だった。
しかし、夜に机を前にして、とても寂しそうにしていた姿を覚えている。
連日夜遅くまで働き、「大丈夫、気にするな」と言っている父の姿に、とてもやるせない気持ちになった。
父と母が折れず、店も中々潰れないので――とは言っても結局その後に元々住んでいた国を出てアスティアーナ国の王都に引っ越すことになるのだが――、焦れた奴は、その日、今度は私に直接働きかけてきたのだ。
「お父さんとお母さんを助けたかったら、僕を好きだと言うんだ」
目の前に現れた奴に恐怖を感じ、必死で逃げて、たどり着いたのがりんご箱の上だった。
本当に世の中が嫌になった。
父と母みたいな真面目で良い人がどうして幸せなまま暮らせないのか、私は泣いていた。
父と母のような善良な人や、私みたいな力の無い子どもが苦しまない世の中ならいいのに、と思った。
その頃の私は、前世の記憶から、おぼろげながらも将来自分が聖パトリック学園に入学することは想像していた。
幼心に、あわよくば、ウィリアム様とギルバート様を生で見たい!と胸をワクワクさせていた。
それ以上を考えたことはなかったけど……。
ふと、気がついたのだ。聖パトリック学園は、王子をはじめ、将来国を動かす人たちが通うエリート学校。
とどく、かもしれない。
国を変える力に。
嫌な世の中なら、好きになれる世の中にすればいいんだ。
パン屋をでかくして見返してやる事も考えたけど、パン屋にはいつでもなれる。
貧乏な庶民の出で、聖パトリック学園に行ける人間はそういない。
だったら、行ける所まで行ってみようじゃない。
店の裏のりんご箱の上で、小さかった私は泣くのをやめて叫んだ。
「泣いていても しかたないわ、こうなったら あがいてあがいて、あがくのよ!」




