寺田晃の悲劇
雨の日は、どちらかと言えば嫌いだ。
小さい頃は、雨が降るたびに外で遊べなくなっただけでべそかいていたっけ。
中学、高校のころも、体を動かすのが好きだった俺には、とにかく苦痛だったな。
今になったらそこまで嫌いではないけれど、やっぱり靴が濡れるのは、いつでも気持ち悪くて慣れそうにない。
ああ、でもやっぱり、雨は嫌いだな。
あの日、雨なんて降らなかったら。
あんな、無茶な事さえしなかったら。
―――きっと、俺は死なずに済んだんだ。
「……ん?」
あれ、俺は何をしていたんだっけ。
確か、兄貴の無事を確認して、それで……。
「―――ダメだ、思い出せない」
なぜか、その後の記憶が思い出せない。
大雨で土砂崩れに遭った家へと走って、倒壊した家を見た。
その時、雨合羽の男性から兄貴の無事を聞かされたところまでは、確かに覚えている。
けど、その後が全く思い出せない。
文字通り、記憶からすっぽりと抜け落ちている、といったところだろうか。
「にしても、どこだここ? 辺り一面真っ白で、ぶきみだな……」
そこは、見覚えがない……というよりも、見たことが無い特異的な場所だった。
上下左右の至る所を見回してみたけれど、辺り一面が白く、まるで壁が無いかのように、先の方まで続いて見える。
そして、白く染まった世界以外には、何も存在しなかった。
建物や道路、それどころか、空や太陽まで、自分の目で見る限り、一切確認できない。
それに、体の感覚も、どこかおかしく感じる。
高さも距離も感じないせいか、ふわふわとした浮遊感を感じられて、少し落ち着かなかった。
「あとは、人一人いないってとこか。何が一体どうなって―――」
「そのことで、少しお話しませんか。寺田晃さん」
「え!?」
「初めまして、急に驚かせて申し訳ないです」
後ろから女性の声が聞こえて、思わず振り返る。
そこには、さっきまで確かに誰もいなかったはずなのに、年若い少女がいた。
少女はそのまま、俺へとにこやかに語り掛け、礼儀正しそうにお辞儀をする。
年齢は高校生ぐらいだろうか?
明るい茶髪は腰元まで伸びていて、Tシャツに短パンといった、結構カジュアルだがすこし古っぽく見える服を着ていた。
でも、その顔はどこかで見たことがあるような、そんな気がしてならない。
……少しも思い出せないから、ただの考え違いだろうけれど。
「ここはどこなんだ? それに、君は何者だ? どうして俺のことを……?」
「私の事は……そうですね、案内人とでも呼んでください」
「案内人……?」
「ええ、あなたをあの世に案内するために、私は来ました」
「―――え? あの世って、あの世だよな?」
「はい。あの世は、あの世です」
顔を上げた少女は、至極真面目な顔で変な事を言ってくる。
そのせいで、つい、バカみたいに聞いた言葉をそのまま返してしまった。
「つまり、俺は死んだってことなのか?」
「はい。平成二十九年 七月十三日 午前十時二十六分。あなたは、洪水に飲み込まれた少年を救助した際、流されてきたけやきの木に頭を打ち付けられ、それによる脳挫傷で死亡しました」
「……ふぅん、そんな理由で俺は死んで、ここにいると」
「そうです。あなたはすでにお亡くなりに―――」
「お前、何言ってんだ?」
急に口調を荒げたからか、目の前の少女は体を硬直させる。
けど、そんな事なんてどうだっていい。
まさか、初対面の相手に、これほどバカにされるとは思わなかった。
俺が死んだ? もうこの世に居ない?
根拠もなく、そんなことを言われる筋合いなんてない。
第一、ここはどこかの説明になってないだろ。
ここが死後の世界だったら、なおの事笑えてくる。
そんなものあってたまるか!
詰め寄って胸倉でも掴んでやろうかとも思ったけど、流石に女の子にやるようなことじゃない。
それに、うまく足が動かせなかったしな。
「お前が誰だか知らないけど、そんな冗談が通じるとでも思ったのか」
「……冗談と思うのも無理はありません。ですが―――」
「聞きたくないな、同じような言葉は。何を言われようとも俺はまだ生きている。こうやって話だってできているし、あんたの姿だって、この目ではっきりと見えているんだからな」
「しかし、ここは死後の世界で……」
「死後の世界! はっ、言うと思ったよ。死んだら何も残らないんだ、死者に与えられている世界なんてないだろ! それよりも、俺は催眠術か幻の方がまだ信じられるけどな!」
「それは……」
少女は服の裾を握りしめて、悔しそうな顔で下を向いた。
―――俺の態度が、大人げない事だってのは、自分でもよくわかっている。
けど、出会って数分も経たないうちに、「あなたは亡くなっています」なんて言ってくる方が悪い。
「どうしても信じていただけませんか」
「絶対に信じない」
「そうですか、では仕方がありませんね……」
案内人とやらは、決心したように頭を勢いよく持ち上げる。
下を向いていた顔は決意したかのように硬くなり、その瞳は俺の顔をしっかりと見据えていた。
「今から、実際にあった出来事をお見せします。ですが、途中で見たくなくなっても、止めることは出来ませんので、その時は覚悟してください」
「実際にあった出来事? 何を根拠に―――」
「それでは、始めます」
少女は有無を言わさないかのように、俺の言葉を途中で遮った。
文句の一つでも行ってやろうかと思い、口を開く。
―――その時、視界が暗転した。
『な、なんだ!?』
『映画のような感じで見てください。これは、逃れようのない事実です』
『何を言って―――』
暗い視界の中、見当たらなくなった少女を探そうと、後ろを振り返る。
けれど、そこにいたのは少女ではなくて……。
『は……?』
暗闇の中で、すすり泣く声と、嗚咽が聞こえてくる。
そのどれもが聞いたことがある声で……聞きたくない声だった。
『何だよ、これ……』
白かった空間は、暗転したかと思ったら、いつの間にか小さく暗い四角形の部屋に変貌していた。
その場には、俺の家族とゼミのメンバーがただ一点を見て立ち尽くしていた。
『おい、これはなんだ! こんなわけわからないことして、何が楽しい!?』
『何も。楽しいことなんて、一つもありませんよ』
『ふざけてんのか!』
家族もゼミのメンバーも、コイツの口車に乗せられて、変な芝居をしやがって……!
苛立ちながら、近くにいた兄貴の肩を思い切り殴りつけ―――。
『なあ、こんなふざけたこと―――!!?』
ることができなかった。
少し強めに振った俺の拳は、兄貴の肩をすり抜ける。
その勢いのあまり、バランスを崩しそうになったけど、変な浮遊感がそれを邪魔して、元の体勢に戻された。
……なんだ、今のは。
まるで、思ったように体が動かないようで、急に悍ましくなってきた。
『今のあなたは、何者にも触れられませんよ。だって、死んでいるんですから』
『く……っ!』
どこから見ていやがるんだ!?
周りを見渡してみるが、いるのは家族やゼミのメンバーだけ……。
いや、他に誰か立っている。
警官だろうか? しっかりとした身だしなみをしていているが、表情は何処か沈んで見えた。
そして、その隣のベッドに乗せられている、白い布に全身を覆われた物。
皆一様に、部屋の中心に置かれていたそれに注目していた。
―――この時、なぜか、酷く嫌な予感がした。
あの布が被せられた物は、まるで人のような形をしている。
もし、案内人の言っていることが本当なら、あれは、まさか―――
「こちらのご遺体は、寺田晃さん御本人でしょうか?」
『ちょっと待っ―――!!』
発した制止の声は、まるでこもっているかのように、狭い部屋全体に響く。
だが、その声が聞こえなかったかのように、警官が布を持ち上げて、頭一つ分ほど下に下げる。
『嘘だ……。そんなこと、あるわけ……』
声をうまく出せない。
どんな顔をしたらいいのか分からない。
今までしっかりと感じていた体が、やけに軽く感じた。
そう、横たわっているのは、予想していた通り、人間だった。
―――そこにあったのは、頭が裂け、血の気が失せた、物言わぬ自分の顔だった。
「……間違いありません、息子の晃です」
『と、父さん……』
涙もろい父が、声を震わせながら、ポツリとその言葉を口にする。
その瞬間、みんなの時間が一斉に動き出した。
「ねぇ、どうして! 目を覚ましなさいよ! 晃ぁ!!」
『母さん……』
母は俺の亡骸に近づいて、縋り付くように手を伸ばし、大粒の涙を流して泣いている。
母さんの涙を見るのは初めてだった。
―――こんな形で見ることになるなんて、絶対に避けたかったはずなのに。
「……」
『あ、兄貴……』
頭に熱さましシートを張っていた兄貴は、何も言わずに部屋から出ていってしまう。
結局、一言も謝れずに、喧嘩別れしたままだった。
どうして、謝る事が出来なかったんだ、俺は。
「結実!!」
「しっかりして! ねぇ! 結実ってば!!」
『克正……、舞……、結実……』
三人とも泣いていたけれど、結実は特にひどかった。
現実に起こった出来事だとは思えないと言わんばかりに、体から血の気が失せて、その場で倒れかけそうになっている。
その体を二人が頑張って支えていた。
『結実、落ち着け。大丈夫だから……大丈夫だからな……』
その背中をさすってやろうと腕を伸ばしてみても、手のひらは結実に触れることなく、空を切るばかりだった。
『……これが、実際に起こった出来事だって言うのか?』
『―――そうです』
『そうか……。俺は、本当に死んだんだな』
俺の死体に刻まれた頭の傷を見て、あの時、何があったのか全部思い出した。
雨合羽の人の言葉を無視して、行方不明になっていた二人の子供を探していた俺は。
トラックに潰されてしまった、女の子の死体を見つけて。
溺れかけている男の子をどうにか助けて。
そして、流れてきた流木に叩きつけられた。
―――全部、自分が招いた事じゃないか。
『なんて、バカなことしていたんだろうな、俺は』
『……』
案内人からの返事は聞こえなかった。
きっと呆れているに違いない。
だって、人を助けたくせに、自分の身を守れないなんて、愚かにも程がある。
それも、俺のことを思ってくれた人の言葉を無視して。
―――だからこそ、夢でもない限り、この光景はきっと事実だ。
自分はあの時死んだんだと、素直に認めるしかない。
『……おい、まだ終わらないのか?』
しかし目の前の光景は、一向に消えそうにない。
この状況を見ただけで、もう自分が死んだことは十分に理解したというのに。
『何を言っているんですか、まだ終わっていませんよ。むしろ、ここからが本番です』
『なん……だって……?』
そう問いかけた途端、またもや視界が暗転した。




