それは唐突に訪れる、逃れられない別れだった。
全ての災害によって命を落とした方と、そのご遺族の方。
そして、被災者の方に、この物語を捧げます。
あなたがもし、悔いを残したまま亡くなってしまった時、一日だけ元の世界へ帰ることができたらどうしますか?
愛する者の元へと帰る人もいれば、恨んでいる人を殺そうと考える人もいるでしょう。
ですが、黄泉還ることができるのは一日だけ。
せめて、やり残した後悔を少しでも晴らせる日となりますよう、心掛けてくださいね。
命は何があろうとも、一生に一度だけしか無い、尊いものですから。
【オレは大丈夫だ】
【今日は病院で定期検診を受けていたから】
【お前は大学だったよな?】
【無理して外に出るなよ!】
よかった、健治は無事か……。
今の今まで心配していた俺は、ほっと胸をなでおろす。
絵文字やスタンプが一切ない単調な文字列。
それでも、その報告は俺にとって朗報だった。
無料チャットアプリで、わざわざ友の無事を確認するのは女々しいかもしれない。
だが、あいつは手足に障害があって、いつも電動車椅子で移動していたから心配だったんだ。
けどまあ、無事を確認できたから、これで一安心できる。
家族も職場に到着している頃だし、ゼミのメンバーも俺のすぐ近くにいるから、もう心配することは……。
「おい、晃! お前の家土砂崩れに巻き込まれたって聞いたぞ!」
「……なあ克正、それ本気で言ってんのか? こんな時に、不謹慎な冗談を言うなよ―――」
「バカ野郎! こんな時に、冗談なんか言えると思うか!?」
「―――っ!!」
克正の怒声で我に返った俺は、思わず家がある方角の窓に目を向ける。
いつもなら、ここから山に面した我が家が見えるはずだけど、今日は避難警報が発令される程の大雨だった。
降り続ける雨のせいで、普通の窓がまるですりガラスのようになり、外の景色の全てがぼやけてよく見えない。
けれど、もし本当に、土砂崩れが起こっていたのなら……。
「……まずい! 兄貴!!」
そうだ、今日は珍しく兄貴が熱を出していたんだ。
だから「ほっといてくれ」と言われたし、今朝から自室にこもって、ぐっすりと寝ているはず。
もし、警報が発令されていると知らずに、避難することなく部屋で寝ているなら……!
おまけに、兄貴の部屋は一階の山際じゃないか!!
「ちょっと、晃! どこ行く気なの!」
「決まってんだろ! 家に帰るんだよ!!」
「おい! 特別警報が出ている大雨の中、何も持たずに出ていくなんて、自殺行為だぞ!!」
「知るかよ! 家にいる兄貴の安否を、確認しなきゃいけねぇんだ!」
「レスキュー隊だって、まだ救助活動が出来ない状況なのよ! そんな中行ったってどうしようもないじゃない!」
「そんなこと言っている余裕なんてない! 悪いけど、行かせてもらうからな!」
「待って、晃!」「待てって言ってんだろ、おい!」「ちょっと! 晃君!?」
結実、克正、舞……悪ぃな、。
けど、俺はどうしても、兄貴の安否が気になるんだ。
だから、今だけは無茶を止めないでくれ……!
必死で呼び止めてくれた三人に、そんな言葉をかける事すらできないまま、キャンパス屋内から、降りしきる雨の中へと駆け出した。
校舎に取り残してしまったけど、あいつらはきっと大丈夫。
舞はしっかり者だから、無鉄砲な二人を見ていてくれるはずだ。
克正も結構突っ走る野郎だけど、婚約者の舞を置いて行くことはしないと思う。
問題は結実か。あいつは周りから反発してばっかで、我が強いヤツだから、後を追いかけてきてなけりゃいいけど……。
ってか、今はそれよりも、兄貴の方を優先すべきだよな。
それにしても……。
「くそっ! やっぱり返事が無い! 無事だよな、兄貴……!?」
三人の事を考えつつも、走りながらスマホの画面を触り続ける。
普段こんなことをしてしまったら危険極まりないけど、この緊急時でそんなことは構っていられない。
兄貴へと何度も電話したけど、一切繋がらないし、無料チャットアプリにも既読が付いていなかった。
大学を出てから数分しかたっていないのに、あっという間に時間が過ぎているように感じる。
クソッ! それもこれも、雨の勢いが一向に収まりそうにない事が悪い!
目を半開きにしないと、ろくに視界が見えないし、雨粒が目に入ってきてうっとうしい。
風が強くない事だけはまだマシだけれど、それでも体に纏わり付いてくる水滴のせいで、服が重くなって動きにくくなってしまう。
もはや、全身がびしょ濡れになってしまっていたが、そんな事に構っている余裕なんてない。
ただひたすらに、家へと駆け続けた。
「よし、ようやく橋まで……」
兄貴へと電話をかけ続けながら、雨と格闘しているうちに、ようやく家の近くにある大橋近くまでたどり着いた。
ここらで一番大きな川にかかるその橋は、全長百八十メートルを超え、数十年前に建てられたとは思えないほど綺麗なままで残っている。
朝通って来たけれど、川の水は増えている様子はなかったから、ここを通っても、きっと問題ない。
……そう思っていたのに。
「ちょっと待て! マズいだろ! 今にも氾濫するぞ、これ!」
大学へと向かう時は、ただ色が濁っていただけで、水位が上がっていなかったはず。
それなのに、明らかに水かさを増した川は、茶色の水面をうねらせる濁流となって、今にも道路へと流れだそうとしていた。
特別警報が出ているからって言っても、この川は二級河川だぞ!?
どれだけ強い雨が降り続いているんだ……!?
それに、もし、渡っている途中で、橋が川に飲み込まれたりでもしたら―――。
「んなことは、起こってから考えればいいだろ!」
こうしている間にも、雨は降り続ける。
川の水位はどんどん上がっていくだろうし、街中でも洪水が起こり始めるに違いない。
―――そして、兄貴が助かる確率も。
無駄な事を考えて、もたもたしている時間なんて無いんだ!
「うおおおおおおおおおお!!」
雨と向かい風に逆らうように叫んで、橋へと駆け出す。
全てを飲み込んで氾濫しそうな川も、悲鳴のようなきしむ音を立てる橋も、全て無視した。
ただ、早く我が家へと帰るために、それだけを考えて。
「はあっ、はあっ……」
ど、どうにか、無事に渡りきれた……!
急がなないとだけど、ちょっと、休憩を―――。
「うわっ……!」
耳を劈くような大きな音と、立っていられない揺れを感じて、思わず地面へ這いつくばる。
振り返ってみると、そこにはもう橋はなく、じわじわと泥水が街へと流れだしていた。
「あ、危なかった……。っと、そんなのを見て、惚けている余裕なんてないだろ!」
休憩のため止めていた足を、力強く先へと踏み出す。
橋を越えたんだ、家まではそこまで遠くない。
小さな交差点を左に曲がり、人気のない路地裏を駆ける。
坂道から滝のように流れ落ちる水をどうにか乗り越えて、右に曲がればすぐ……。
「はあっ、はあっ……嘘、だろ……!!」
そこには、克正が言ったとおりの光景しかなくて……。
裏が崖になっていた家は、何処も例外なく、土砂の中に埋もれてしまっていた。
「おい、兄貴! いたら返事しろ! おい!!」
大声で呼びかけてみても、返事らしきものは聞こえてこない。
雨の音にかき消されて俺の耳に届いていないのか、それとも、俺の声が届いていないのか……。
「おい! 聞こえてんのか!? なあ! 何とか言ったら―――」
「君! そこで何しているんだ!」
右側から唐突に声を掛けられた。
こんな時に何の用だと、文句を言おうとそちらへと顔を向ける。
そこにいたのは、防災用の頑丈な雨合羽を着た男性。
たぶん、消防隊員か警察官だと思う。
自衛隊や救助隊が来るには、まだまだ時間がかかるはずだ。
「ここが俺の家で! 土砂崩れに巻き込まれたって聞いて……!!」
「まずは落ち着いて! 誰か探しているのかい!?」
「……兄が熱を出して、家で寝ていたはずなんです! もしかしたら、土砂崩れに巻き込まれているかもしれない!」
「ちょっと待ってくれ!! こちら永井! 土砂崩れの現場付近で―――」
雨合羽の男性はそう言うと、無線で誰かと会話をし始める。
けど、俺には、待っている余裕なんてないんだ!
「すみません! その間に探し―――」
「駄目だ! ここに居ろ!」
「っ! ちょっと! 放してください!!」
無線機を片手に男性は、いまにも家があった場所へと向かおうとする、俺の腕を右手で掴む。
振りほどいてやろうと思ったけれど、片手とは思えないほど、その手の握力は強かった。
俺だって、高度救助隊に入るために相当に鍛えたはずだけど、握っている腕が全くびくともしないのは、俺以上に体を鍛えているのか、それとも、絶対に離さないように全力で掴んでいるからなのか……。
そんな事を思っているうちに、無線での通話は終了していたようだった。
「確認が取れた! 君のお兄さんは無事に避難している!」
「ほ、本当ですか……!?」
「ああ! 警報を聞いて公民館に避難したそうだ! いま市の職員が看病している!」
「―――良かった。ああ……心配して、損したじゃ、ねぇかよ……!」
その言葉を聞いた反動で体から力が抜ける。
最近喧嘩ばかりしていたから、兄貴なんてどうなろうが気にしないと、勝手に思っていた。
でも、無事が分かってここまで安心しているし、涙が止まらないのは、やっぱりいなくなってしまうのは辛いんだと確信した。
「あ、ごめんよ! 手、痛かっただろう?」
「いいえ、ありがとうございます。あのまま駆け出していたら、どうなっていたか分かりませんから」
ようやく放された腕には、男性の手の跡がくっきりと残っている。
その人も、力を込めすぎていたのか、手を痛そうに振っていた。
「ここは危険だ。お兄さんの安全も確認できたことだし、君もすぐに避難した方がいい」
「はい、すぐにでも避難します」
「そうだな……この状況だから、大学に避難するよりかは―――」
ザザッという音と共に、若い男性の声が、無線機から聞こえ始めた。
「ごめん、ちょっと待ってくれ。こちら永井……」
避難先を言おうとした雨合羽の人は、左胸の無線機をもう一度耳に当てる。
話をしている途中だけど、仕方がない。
彼らは現役の仕事人だ。こんな環境だと、優先順位は人命と同じぐらい情報に偏る。
それに、俺は若いし男性だ。いつまでも心配されるような立場ではいられない。
―――それなのに、自分勝手に大学を飛び出した。
ゼミのメンバーや教授、もしかしたら、避難し終わっている、両親や兄貴にも心配をかけてしまったかもしれない。
人の事を考えているつもりで、自分のことを優先してしまった。
……なんて愚かな人間なんだ。
せめて、何か手助けできることがあれば―――。
「―――なんだって!?」
「!」
「あ、ああ、すまないな。……で、特徴は……中学生の女の子と、小学生の男の子か。女の子は爪にピンクのネイル、男の子は……そうか、わかった」
男性は無線機を胸ポケットへと戻す。
その顔は、どこか憔悴しているように見えた。
「……逃げ遅れた人がいるんですね?」
「あ、ああ。けど、君には関係ない。山の中腹にある公民館に避難するんだ。君のお兄さんもいることだしね」
「……俺に、出来ることはありませんか?」
「何を言っているんだ! 君に出来ることは、ここから避難することだ!」
「いいえ、出来ることはあります! 俺は最近、特別救助隊のテストに合格しました! 春からはその一員です! きっと力になれる―――」
「だとしても、君は現場を知らない! 無謀だ!」
「けれど……!」
「繁華街はもう水没しかけているんだぞ! 状況も知らない人間が出しゃばっても、ただ被害が増えるだけなんだぞ!!」
「う……っ!」
「いいから、早く避難するんだ! わかったな!!」
「……クソっ!」
男性が言っている言葉は、どれも正論だ。
俺ががむしゃらに探し回ったって、二人を見つけられるとは限らない。
それに、疲れた俺が洪水に巻き込まれて、二次被害を出してしまう可能性だって十分にある。
「わたしは、彼らの自宅へ行く。いいか、絶対に変な事を考えるなよ!」
彼は、そう言い残して、足早にその場を去っていく。
俺は、それをただ見ることしか出来なかった。
「―――ちくしょう! じゃあどうしろって言うんだよ!」
雨空にそう吠えてみたって、何の返事も帰ってこない。
俺は、このまま人に迷惑をかけて、のこのこと公民館に避難することしかできないのか……?
―――そんな事、俺自身が許せるわけがないだろ!!
「ごめんなさい。やっぱり俺は、困っている人を見過ごすわけにはいかないんだ」
両頬をパンパンと、両手で強く叩く。
気合いを入れるとき、気分を切り替えるときに使う、いつもの癖だった。
「うし! 行くぞ!」
未だ降りやむ気配が無い雨の中、俺は雨合羽の人が向かった方向とは違う道へと、再び走り出した。
行方不明の二人を探して、いち早く安全な場所へ避難させないと……!




