安室孝の意見 2
安室教授の研究室は一年たった今でも、俺が生きていた頃と同じような感じだった。
入ってすぐに感じるのはコーヒーの香り。
豆にこだわっているらしく、自分でブレンドした豆を挽いて、飲んでいると直に聞いたことがある。
部屋の右側には、研究論文や参考文献がずらりと並んだ戸棚がかたまっていた。
棚の中身はほとんどそのままだけど、俺たちが卒業しているからか、平成三十年度の卒業論文が追加されている。
俺は書きかけのままだったけれど、他のゼミメンバーと同じように、棚の中に置かれていた。
「本当に何も変わらない……なんて、ことはないか」
一見しただけだと、昔とそのままに見えなくもない。
でも、変わっているところもあった。
机の上に見たことがない造花が置かれていることと、さっき見つけた卒業論文。
そして、毎年卒業生と撮った写真を飾っている写真立てが一つ増えたぐらいだけど。
そう考えると『黄泉還り』ってのは随分と手が込んでいるらしい。
自分が亡くなっているという痕跡のほとんどを消してしまってるのだから。
「急にどうした~?」
「いえ、お盆休みをいただいたので、大学に顔を出しに来たんですよ」
「あー、確かにこの時期は休み貰えるところ多いよね~」
きょろきょろとしていた俺のことをあまり気にしていないのか、安室教授は普通に声を掛けてきた。
適当に吐いた嘘も気付いていないようだから、もしかすると、過労の影響が出始めているのかもしれない。
「さて、今日は私へ人生の相談をしに来たのかな」
「い、いえ、そんなことは―――」
「悩み事があるんだろう? 浮かない顔してるよ」
「そ、それは……」
「それに、落ち着きがなかったからね」
まあ、コーヒーでも飲みなよ、と、コーヒー豆を机の上に置いていたミルに入れて、回し始めた。
コリコリと小気味よい音が、研究室にこだまする。
……やっぱり、俺は感情が顔に出やすいタイプらしい。
これで二人目に言われたことになるわけだしな。
「教授だったら、困っている人を見つけるとどうしますか?」
「私? 私だったら、そうねぇ……助けを求められるまで、そのままにしておくかな」
「……その人は周りが見えていないとしても、ですか?」
「むしろ、そういう時は、なおさらそうした方がいいと思うけどね」
「それが、最善……なのでしょうか?」
困った顔をしている教授に、追い打ちをかけるように問いかけてしまった。
でも、本当にそれが一番なんだろうか?
俺は、そんな事しかできないと……。
「まあ、最善とは言えないねぇ、考え方は人それぞれな訳だし」
「そうですよね……」
「でも、その人が本心から助けを求めているのなら、誰かに語り掛けると思うよ。それが、赤の他人に対してだったらなおのことね」
「―――そうでしょうか?」
「そんなものさ。それに、その人たちもきっと、心のどこかではちゃんと理解しているんじゃないかな。認められるかは別だけどね」
「……」
どうしてだろう、納得がいかない。
教授が言っていることは尤もだ、下手にかかわったところで、心まで助けられるなんて傲慢にもほどがある。
……だけど、どうしても「それは違うんじゃないか」と思ってしまう自分がいる。
なぜ、そんな気持ちになってしまうのだろう。
「う~ん……。なんか、今の寺田は、色々と余裕なさそうだね」
「ど、どうしてですか?」
「お、図星? ……だって、どこか焦っているように見えるよ?」
「……そんな風に見えますか」
「うん、見える見える。寺田は頑張り屋だからね~。もっと人に頼ってよかったんだよ?」
「ああ、そうかもしれませんね……」
安室教授のその言葉で、卒業研究に詰まって焦っていたことを思い出した。
なかなか研究がまとめられず……かといってあいつらに迷惑をかけたくもないから、一人悶々と悩んでいたっけ。
今考えると、バカだなぁとしか思えない。
みんなに助けてもらうことを、いつからか恥だと思っていた自分がいた。
……こうなってしまう前に、もっと助けを貰っておけば―――。
なんて、どれほど願っても意味は無いんだけれど。
「それに、たまには無駄な時間を作って、ゆっくりと過ごしてもいいんだよ。寺田はまだ若いんだからさ」
「それは、そうかもしれませんが……」
「自分のことを大事にしない人は、早い段階で潰れてしまうからね~」
「ですけど……」
「ほら、またそんなこと言ってる。一人じゃできないことだって、みんなと共にやったら出来るかもしれないじゃない?」
「―――! 確かに……」
「だから空き時間はリラックスするんだよ? それが今の寺田に一番必要な事だからね」
ゆっくりとうなずく。
相変わらず、教授はニコニコしながら、コーヒーをちびちびと飲んでいた。
教授はいつだって俺たちゼミメンバーに正確なアドバイスをしてくれる。
それに、さっき言っていた通り、自分から助けを求めた人には真摯に接していた。
だから、その言葉に嘘偽りなんて一つもないんだろう。
それにしても、いつも困っていなさそうな顔をしているけれど、悩みなんてないのだろうか……?
もしかしたら、うまくオンオフを切り替えているからこそなのかもしれない。
―――死んでいる身だけれど、少し気になる。
「ちなみに、教授はどのように息抜きされているんですか?」
「わたし? わたしはね~、毎朝早く起きてコーヒーをゆっくりとたしなんだり、将棋を楽しんでいるよ」
「なるほど……」
「あ、それと、夜はお酒と美味しいおつまみがあれば文句なしだよね!」
「そういえば好きでしたね、お酒……」
安室先生は、大学教授内で名が通るほど有名な愛酒家で、毎日のようにお酒を飲んでいるらしい。
しかも、度数の高いワインや焼酎ばかり飲んでいるそうだ。
流石に毎晩呑むのは健康に悪いからやめてほしい。
……死人が口出しするのもあれだけど。
「とにかく、自分の限界を超えるようなことはあんまりしないこと。もう大人なんだし、どんなことをしたら辛いかわかるよね」
「そう言われても……」
「働くことも大切だけど、休むことも大事だよ。自分のために頑張っているのに、息が詰まってばかりだと意味ないじゃん?」
「確かにそうですね」
「でしょ? だから、休む時は休む。働くときは働く。そうやってメリハリ付けて行動すること。決して無理や無茶を一人でしないこと。いいね?」
教授の言うとおりだ。
無茶をして目標を達成したとしても、自分が潰れてしまったら元も子もない。
無謀にも、あの濁流へと入っていった俺に、今の言葉を聞かせてやりたいな……。
「あ、もうこんな時間じゃん。そしたら、わたしは講義の準備があるから、今日はここまで!」
「お話、ありがとうございました」
「うん。まあ、生きていたらいつかはいいことあるよ。何か相談したいことがあったら、またおいで」
「はい」
「じゃーねぇ~」
「ありがとうございました。失礼します」
大きく一礼して、扉へと手を伸ばす。
扉を閉める際、教授の方を見ると、にこやかな笑みで手を振ってくれていた。
体の奥底から込み上げてくるものを必死に抑えながら、小さく会釈をして、扉を閉めた。
「……凄く優しい人だね」
「……そうだろ?」
「私も安室教授みたいな先生の下で勉強したかったなぁ」
「そういえば、勉強好きなのか?」
「ううん、大っ嫌い!」
「ええ……」
「でも、あの人に教えてもらえるのなら、頑張れると思う」
「……そうかもな」
本当に、教授にはいろんなことを教えてもらったような気がする。
学業の事だけでなく、うんちくや雑学、身の回りの知恵に、俺の悩みにも真摯に向き合ってくれた。
感謝してもしきれないほど、多くの事を教えてくれた人だった。
……もう、自分は死んでしまっているけれど。
二度と、安室教授の言葉通りに行動を起こすなんて出来ないけれど。
この時間は、『黄泉還り』で有意義に使えたんじゃないかと思う。
「じゃあ、次に行くか」
「そうだね、」
「寺田……? 寺田か……!?」
先に進もうとして、呼び止められる。
振り向くと、見覚えがある長身の男性が、ゆっくりとこちらへやって来た。
《『黄泉還り』終了まで あと21時間》
*
出ていった晃の後姿を見送った後、小さく溜息を吐いて、安室孝は椅子に腰かける。
「だから、無茶だけはやめておけと、前々からあれほど言ったんだけど。……でも、こうなってしまったからには、仕方がないのかもしれないけどね」
寂しげな顔でそうぽつりと呟いた安室教授は、手に取った今年の卒業論文を開く。
晃の論文は、そこでいなくなってしまったかの如く、書きかけのまま提出されていた。




