安室孝の意見
安室孝の意見
雨は好きなんだけどねぇ。
やっぱり、あの日の事は思い出しちゃうよね。
私は被害なんて殆どなかったけど、家族を亡くした人とか、大切な仲間を失った人だっている。
そのことは、心のうちに留めないとね。
次は自分がそうなってもおかしくないんだから。
でも、きっと忘れたらいけない。
誰よりも頑張り屋だったあの子も、無念のままに死んでいったはずなんだ。
だから、辛くても覚えてあげないとね。
それに……。
辛い思い出でもいつの日かきっと、洗い流してくれるはずだから。
紆余曲折を経てたどり着いた大学は、大雨の影響をあまり受けていないように見えた。
まあ、それもそうか。うちの大学は高地にあるわけだし。
それに、案内人から聞いた話によると、避難した人たちの待避所となっていたらしい。
だから、こうやって普通に残っているのは当たり前だ。
当たり前、なんだけど……。
「……」
「いつまで引きずってるの?」
「そんな言い方―――!」
「それでも、私たちにはどうしようもできない。そうでしょ?」
「だとしても……」
「いい加減にして。これ以上言うようだったら、返してもいいんだからね?」
「う……」
そこまで言われてしまったら、黙るほかない。
それにしても、苦虫を嚙み潰したような顔をした俺に対して、珍しく案内人が怒っていた。
けど、そう言われてしまうのも、仕方がないと思う。
だって、俺には何もできないんだと、ここに来るまでに散々思い知らされたから。
俺は大学へと向かうために、公園から出て少し歩いたところで、漸く水害の全容を知ることになった。
雨による被害が、どれほど酷いものだったのかを。
「嘘だろ……?」
「嘘じゃないよ。これがあの雨で残ったもの」
案内人が冷静に返事を返すが、俺は愕然としていて、その言葉を理解するまでに時間がかかる。
それほどまでに、目の前に広がる光景が信じられなかった。
俺が住んでいた町の住宅地はもはや、住宅地とは呼べない状態だった。
人ひとり歩いていないそこは、建物が殆どなくなっている。
まるで、最初からそこに何もなかったかのように、平坦な大地が辺り一帯に広がっていた。
残されている建物も、家の中まで泥に浸かり、使い物にならない家屋に。
車庫だけ残されて、そこで生活しているのか、色々なものが詰め込まれている家。
そして、どうにか難を逃れ、綺麗なままの住宅も、人の気配が感じられない。
なにもかも、あの雨が押し流していったんだと、考えるしかなかった。
「……」
「……」
俺たちは一言もしゃべらないまま歩き続ける。
悲惨に変わり果てた住宅地を抜けると、繁華街にたどり着いた。
繁華街は、まだ住宅地よりも被害はなさそうに見えた。
すこし少ないけれど、朝方だからか人も多い。
だが、それも見た目だけだと、早々に気付かされることになる。
駅や線路が真新しくなっていた。
……つまり、交通網ですら、一度は全く使い物にならなくなっていたんだ。
それに、一部のビルはいまだ、こびりついている泥を落とせていない。
所によっては壁面の泥跡が、二階の窓ガラスを半分汚してまでいた。
低い土地だったことも相まってか、水があの位置まで来ていたんだろう。
その光景を想像しただけでも、身震いが止まらない。
そして、そんな街中で、大声を上げる男性の声が―――。
「誰か、この子供たちを知りませんか! どんなに些細な情報でも構いません! この子たちの行方を知りたいんです!」
「あ……」
そうだ、全く考えてもみなかった。
この雨に巻き込まれて死んだのは、俺だけじゃないかもしれない事に。
四十近くであろう男性は、目に見えて衰弱していた。
白髪交じりになった髪も相まって、老人のようにも見えてしまう。
それでも彼は、腹から声をひねり出して、周囲の人たちに呼び掛けている。
―――行方不明になった、息子と娘の写真を張り付けたプレートを掲げながら!
「……っ!」
「……ねえ、何するつもりなの?」
駆けだそうとしていた俺は、案内人に左腕を掴まれた。
レインコートの人に比べ、握力はとても非力だったけれど、なぜかその場から動けなくなる。
「放せ! 俺は―――っ!!」
「無駄だから止めて。私たちじゃ、彼を救うことは出来ない」
「けど……!」
「あなたが『黄泉還り』したのは、こういった救いようのない人たちの手を、がむしゃらに掴んで意味のない助けをするためだったの?」
「そういう事じゃない! でも、だからって見捨てられるかよ!」
「それなら、一日中相手してあげればいいよ。それが、『黄泉還り』してまでやりたかったことなら」
「……くそっ!!」
脚に込めていた力を抜くと、案内人は簡単に俺の手を離した。
自分の役立たずさに苛立ち、手のひらを強く握りしめる。
彼女の言っていることは、決して間違いじゃない。
俺が『黄泉還り』をしたのは、みんなに別れを告げる為であって、見ず知らずの人に、助けの手を差し伸べることじゃない。
それに、俺一人が手を差し伸べたところで、出来ることは限られている。
ほんの一瞬で、彼の幸せは奪われてしまったのだろう。
でも、その幸せを取り戻すのは、途方もない時間を要するかもしれないのだ。
……たった一日じゃ、俺はなにもしてあげられない。
「行こう。こうしている間にも時間は過ぎていくんだから」
「……わかった」
ごめんなさい……ごめんなさい……!
俺は、あなたの手伝いすら、やることが出来ない。
あなたのお子さんと同じように、いなくなってしまった人だから。
『黄泉還り』してでも、やり遂げたいことがあるから。
だから……、ごめんなさい―――っ!
男性の声に耳を傾けないようにしながら、交差点を通り過ぎた。
俺が必死で駆け抜けた橋も、簡易的なものに変えられて、元の立派なものに変わるのは数年以上かかると書いてあった。
氾濫していた川は、昔よりも水量が減っているように見える。
もしかしたら、洪水の対策として、上流で何かしらの手段を取ったのかもしれない。
そして、そんな浅く、穏やかになった川岸に一人の女性が佇んでいた。
その後ろ姿は寂しげで、震える手には小さな箱が握られていて……。
「……」
「ねぇ、わかってるよね?」
「わかってるよ。けど、話を聞くぐらいはいいだろ?」
「あ、ちょっと」
案内人が何か言おうとしていたが、それを無視して女性へと駆け寄った。
何を言われようが、構うもんか。
さっき、あの男性を見捨てるようなことをしたんだ。
これ以上、たとえ自己満足だとしても、誰かを放っておくなんて、俺にはできない。
「どうかされましたか?」
「プロポーズされたの、彼に」
俺が声を掛けると、何事もないように、彼女は振り向いた。
そして、その顔を見て思い知った。
遠目から見ると、泣いているように思えたけれど、それは違う。
彼女が怒っていたんだ。
「でも、そんな彼は雨に浮気しちゃった。雨なんて大嫌いだって、あれほど言っていたのにね」
「それは……」
「だから、彼が帰って来たら、逆プロポーズしてやるんだ。雨なんかより、私の方が魅力的だって、思い知らせてやる」
「そう、なんですね」
「ええ、だから……私の邪魔しないで、見知らぬ誰かさん」
「―――はい」
そう、言葉を返すことしか出来なかった。
このまま居座ったとしても、彼女の邪魔にしかならないのか……?
何か、何か俺にできることは……。
「……行こ?」
「あ、ああ」
案内人から掛けられた言葉で、はっと我に返る。
そうだ、悩んでいる暇なんて俺にはないんだ。
……ごめんなさい。何もできない役立たずで。
再び川を見つめ続ける彼女に謝りながら、案内人に引きずられるようにその場を後にした。
そうして、今に至るわけなのだけれど……。
誰かに会えるような、そんな気分にはなれなかった。
「なあ、俺に出来る事は、本当になかったのか……?」
「ない」
「断言しなくても―――」
「街中の男性や、河原の女性が、そう簡単に救われると思う? 周りの人ですら、手に負えない状況なのよ。だったら、時間があの人たちの傷を癒してくれると、信じるしかないでしょ」
「……ああ、そうだな」
「……気持ちはわかるよ。でも、あなたに出来ることはない。そんな事で『黄泉還り』の時間をかけてほしくないから」
「……」
こんな時、案内人は気丈で強いと思う。
俺なんかよりも、よっぽど冷静に立ち回れたんじゃなかろうか。
―――涙もろいのはさておくとして。
もしも、今から会う人がその場にいたら……。
「もし、安室教授だったら、どうしたんだろうな」
楽天家だけど、しっかりと道理を説いているあの人だったら、一体どうしただろう。
彼らを諭すような言葉を投げかけただろうか。
それとも、俺と同じように手助けをしようとしたのかな……。
「聞いてみたらいいんじゃない? 今から会うわけでしょ?」
「……そうだな、そうしよう」
とにかく今は、教授に会うことだけを考えよう。
こんな暗い顔していたら、絶対に何か言われるに決まっている。
気を紛らわせるために、ふっと思い浮かんだ曲を口ずさむことにした。
「ふふふ、ふんふん、ふふふふ、ふふーふーん、ふふふんふん、ふふふーん……」
「どこかで聞いたことがある鼻歌だね」
「ああ、だけど、どうしても思い出せないんだよな」
それでも、頭から離れない以上、相当聞いてきたはずなんだが……。
「そもそも、大学って今の時期夏季休業じゃないの?」
「え、今って何月なんだ? 蝉がうるさいし暑いから夏だとはわかるけど」
「あれ、言ってなかった? 八月だよ」
「そういえば、初盆の盆入りって言っていたな。ってことは、平成三十年八月十三日か。……あれから、一年以上も過ぎているんだな」
そういえば、盆の日なのに、平日同様に活動している人が多かった。
もしかしたら、一年以上経っていても故人を偲ぶ余裕すら、この街にはないのかもしれない。
そう考えるだけでも、少し持ち直していた気分が、また下向きになる。
「で、話を戻すけど。夏休みに入っているだろうから、行っても意味無いんじゃない?」
「勿論、夏季休業中だ。けれど、サークル活動は普通に行われているし、研究室によっては教授が残っているところもある」
「へー、そうなんだ。……ん? だったら、あなたの教授がいるかどうかわかるでしょ?」
「一年経っているんだろ? だったら退職している可能性だってある」
「そういえば、あなたの教授……安室孝さんは、相当に歳とっていらっしゃったよね」
俺が教授に会いに行くと言っていないのに、案内人はさも当然のように、安室教授の名前を口にする。
聞いた話だと、前もって、俺の会いたい人リストみたいなものを見ているそうだ。
それに、欲しい情報が脳内に直接届くようらしい。
こうやって色々と覚えていられるのだから、記憶力はいいんだろう。
それに、こんな環境の中にいるのに、少したりとも絶望することなく、しっかりとしている。
これだけなら、だいぶ頼りになる人なんだけど……。
如何せん、涙もろすぎるせいでどうしても期待できない。
「居るか居ないかは分からないのか?」
「うーん……。あ、いるみたい」
「だったらよかった。大学まで来たのに無駄足じゃ、時間がもったいなさすぎるからな」
「それなら、あの人たちの手伝いをした方がマシって言おうとしたでしょ?」
「……わかってるよ、俺が手伝ったところで意味が無いことは」
俺が行った出来事全ては無かったことにされる。
たとえ、行方不明者の遺体を見つけたとしても、翌日にはその事実すらなかったことにされるのだから。
「おー、やってるねぇ。凄い凄い」
目の前の光景を
校内の広いグラウンドで、陸上部がトラックを駆けている。
俺もつい最近まで使っていたはずなのに、なぜかとても懐かしく感じる。
「歓声を上げるほど凄くもないぞ」
「見ての通り、私はあなたよりも早死にだから、こんな光景もほとんど見たことない、親不孝者なんだよね」
「……そうだったな。後悔はないのか?」
「そりゃあるよ! まだまだやってないことだらけだったし、やりたいこともたくさんあった」
「……でも、仕方がないと割り切るしかなかった」
「わかってるじゃん。だから私は、あなたが後悔しないよう、こうやって忠告しているんだよ」
「あ、ありがとう」
急に歳以上の優しげな表情をした案内人に、思わずどきりとする。
それと同時に、既視感を覚えた。
やっぱり、彼女とはどこかで会ったことがあるような、そんな気がする。
でも、彼女とは初対面のはずだ。
年下で女性の知り合いといえば、家庭教師のバイトをしていた時の生徒しかいない。
きっと気のせいだと割り切って、研究室のあるキャンパスに入り、階段を上り始める。
「……エレベーター使えばいいじゃん」
「他の人に迷惑になるだろ。それに、これくらいなら生きていたころでも苦痛じゃなかったしな」
「うへぇ、流石体育系だなぁ」
大学教授の研究室は、ほとんどがキャンパスの最上階にある。
だから、エレベーターは混むし、階段で登ると凄く疲れるんだよな。
この体は疲れを感じないみたいだから、普通に会談で登ったけど。
それで、だ。
ようやく安室教授の研究室前までたどり着いた。
中に教授がいることも、もうわかっている。
そこまではいい。
けれど、中に入るためのノックが出来なかった。
「やっぱり、緊張するな」
「え、あなたの教授って怖い人なの?」
「そんなことはないぞ。むしろ教授の中では優しいほうだな」
「だったら緊張しないでしょ」
「それとこれとは話が別だ」
さっきからひっきりなしに、案内人は言葉をかけてくる。
こいつ、年齢の割には好奇心が旺盛だな……。
もしものために、一応忠告をしておくべきか。
「いいか、俺が誰かと会っている時は、絶対に話しかけるなよ」
「え、どうしてよ」
「気が散る」
「まあ、そう言われればそうか」
案内人は納得したように、うんうんと頷く。
だが、そんな様子を見ていても不安しかない。
健治と会っている時は一言も喋らなかったけれど、声を掛けられる可能性は十分にあった。
話しかけてくるのではないかと考えながら、知り合いに会うのは極力避けたい。
だから、念のためこうやって声をかけておいた。
これで、案内人から話しかけてくることはほとんどないだろう。
……と、思いたい。
彼女が悪い奴ではないことはわかってはいる。
けど、正直うざったいんだよなぁ。
「ねえ、いつまで扉の前にいるの?」
「わかっているって、時間がー、だろ」
ここまで来て挨拶しないのは、流石に良くないよな。
一息いれて意を決し、研究室の扉をノックする。
「はーい」
「失礼します」
「おー、寺田じゃないか。久しぶりだねぇ~」
「お久しぶりです、安室教授」
扉を開くと、案の定、部屋の奥には一人の男性が座っている。
久々に会った安室孝教授は、髪の毛は伸びているけれど、その優しげな顔は一切変わっていなかった。




