少しゆっくり歩いてみる
いつからだろう、前を向くことしかできなくなったのは。
いつからだろう、足元にいる小さな虫に気づかなくなったのは。
いつからだろう、少し前はずっとマシな場所にいたはずなのに。
いつからだろう、大人になるってこういうことだったんだ。
いつからだろう、全て受け入れてしまったのは。
第1話 社会賛歌
地下鉄の駅の階段を登りきったところで一息つく、
すると間もなくシャツの胸ポケットに入れた携帯が突然鳴りだす。心拍数が上がる。
かけてきた人物の名を見ると上がった心拍数がさらに上昇する。
「やっちまったかぁ」
思わず口から漏れる。その電話をとることなく切れるのを待った。
怖くて出ることができなかった。いや、今日も家に帰ることが出来なくなったということを認めたくなかったのだ。
そんなことをしていても何も進むことがないのは分かっている。間髪を入れずにかけなおす。
口からは何年使い込んだであろうテンプレートが、何の思考も感情もなくただ再生ボタンを押したように流れ始める。
「もしもし、○○産機の田中と申しますが、申し訳ありませんお電話をいただいたみt」
「どうなってんだよぉ!!注文した仕様と違うものが入ってきてんだけどぉ!!!・・・・・・」
さえぎるように客先の叫び声が耳をつんざく。
その後数分にわたりサンドバッグになり、見えもしない電話先の相手に向かって必死にお辞儀をする。
ここまでがテンプレート。自動再生。
確認はしてないが、きっと悪いのは僕ではないのだろう社内の顔も名前も知らない誰かの代わりに頭を下げることさえ何も感じなくなった。
いや、何も感じないわけではない。頭の中では『はい、四泊目確定』と。
さすがにずっと椅子で寝るのでは体が痛み始めっているので、そろそろ寝袋でも買いに行こうか。
帰り道に東急ハンズがあったはずだ。
いや、その前に客先によらなくては……
……出た時より大荷物を背負って小さいオフィスに戻る。
東急ハンズでは念願の寝袋の入手を蛍の光が祝福していた。
余談だが最近のお店って結構遅くまで営業してるんだなと考えたところで、その下は自分と同じ家畜モドキが支えてることに気づいてしまったが、まあいい、おかげで寝袋を買うことが出来た。
「週末のキャンプの準備スカ?」
寝袋を見た後輩が尋ねる。
「佐藤も性格が悪い。週末なんかないことをお前もよく分かっているだろう。第一、今日は月曜日だ。」
隣にいた同期が笑いながら突っ込みを入れる。
「いやいや吉田よ、寝袋に入りながら突っ込みいれても説得力が……ってかもう寝るなら帰れよ。まだ終電間に合うだろ。」
文脈はともかくあまりにシュールな絵面に僕も思わず突っ込みを入れてしまった。
「いや、何かトラブルあった時のために……」
と、僕らに向かって自分をだますように必死に釈明を入れる。
あぁお休みと僕は返すが、佐藤にはこのやり取りがまだ理解できないみたいだ。理解する必要はない。
その後も後輩と僕、しばらく会話もせずにお互いの仕事を進め、終わったものから椅子で、寝袋で眠りについた。
今日帰れなかったのは3人か、昨日よりは少ないな。不夜城にも一時の静寂が訪れる。
数時間たっただろうか、ビルから電気が消えて間もなく、鶏の代わりに電話の着信音が鳴り僕らの目を覚ます。
電話のあて先は吉田、昨日は佐藤だった、なるほど、これがあるから帰らなかったのか。
顔色をうかがうに今日も宿泊が確定したみたいだ……
人は違えどいつもと同じ風景だが、心なしか今日は体が軽い。そうか横になって寝たのは5日ぶりだ。
寝袋は素晴らしい。これで自宅に帰りたくなる欲求の一つをなくせる。諦めがつきやすくなる。
寝袋導入を進めてきた張本人である電話中の吉田にアイコンタクトを送る。
それどころではないだろうと思いきや、大型物件をとったかのような誇らしげな顔で返してくる。
悔しいが今度コーヒーでもおごってやろう。
ちなみに佐藤は始発でシャワーと化粧をしに家に一旦戻った。いつもの風景。
あいつに関しては、寝袋に加えてシャワーとパウダールームの導入が必要だ。
シャワーは僕もほしい。営業を促進しよう。
本格的に仕事をはじめだした吉田を片目にもう一眠りつこうと目を閉じる。
唯一の安らぎの時間をむさぼるように必死に目をつむる。
しかし、意識が遠のいていく中もう一度憎き電子鶏に叩き起こされる。
時計を見る。
もう電車は動いている。
急いで着替える。
5泊目が確定した。