第3話 『淡く幽かに』―2★
side ビクター・ゼル
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ジリジリと焼けるような日差しだった。
眩しすぎる景色の中に日陰にしては暗いトンネルがあった。トンネルと言うよりも、アーチのようだった。子供の頃だったから好奇心が働いたのだろう。そのトンネルの向こう側が気になって覗いてから記憶が無かった。
気が付けば、自分の部屋のベッドで寝ていて、父親が心配そうに見ていた。
「あ、れ……」
「ビクター…」
「父さん、どうしたの?」
「覚えてないのか?」
言われてみれば、何かしていた気がする。
目を瞑って思い出してみる。
たしか、森の中で遊んでいた。川の畔で魚が跳ねる様子を見たり、散策していた。散策と言っても家のすぐ側にある森だったし、そんなに広くないから庭みたいなものだ。背の高い木々の中だというのに、かんかん照りの日差しが眩しくて帰ろうとしたところでアレを見た。
森の中にあるはずのない真っ白い建物。
アーチの先に、歩いて通りすぎて行く人達の黒い影が見えた。
魅入っていた。
息をする事も忘れて見ていたら、通り過ぎていくだけだった人影の一つが立ち止まってこっちを見ていた。
そこからの記憶はない。
アレは幻でも見ていたのだろうか。でも、すごく記憶としては綺麗に残っているから妄想でもないはず。もう一度、父さんを見ようとしたときに、視界にアレが映った。
開けっ放しになっているドアの先で、日も落ちはじめて薄暗くなった廊下に黒い人影が立っていた。
「うわぁああ!!」
「ビクター!どうした!!」
急に叫び出した僕にびっくりしつつも心配そうに肩を掴んできた父さんの向こう側には、あの黒い人影は既に見えなくなっていた。
「…人影が……森の中で見たやつ」
「人影?誰かいたのか?」
「そこに、いた…と思ったけど」
「まだ、寝ていた方がいいな。父さん出掛けてくるけど、もう少ししたら母さんが帰ってくるからな」
「わかった」
疲れてるんだと思う。じゃなきゃ、こんなにも体がダルいはずない。そもそも、森の中で見たアレも鮮明には残ってるけど現実味のない記憶だし、きっと夢と記憶がごっちゃになってるんだろう。
おとなしくベッドに横になって、父さんが部屋を出ていくのを見送った。
一眠りすれば体も楽になるだろうと瞼を閉じた。
*
目が覚めると、月明かりが部屋に差し込んでいた。料理の匂いが食欲を誘っている。
小一時間くらい寝ていたようだ。おかげで体のダルさが無くなっている。階段を下りてリビングに行くと、父さんも帰ってきていた。
「あら、ビクター。大丈夫なの?」
「今は平気だよ、母さん」
「そう、よかったわ」
ほっと胸をなでおろした母さんに、心配を掛けさせてしまったことを申し訳なく思った
「今日は暑かったからな。逆上せたんだろう」
「熱中症は怖いからね。寝てるときでもなるんだから、気をつけるのよ」
「わかってるよ」
そうだ。言われてみれば、今日は日差しが強かった。ずっと日向にいれば熱中症にもなる。あの黒い人影は、きっと父さんが迎えに来た人影だったのだろう。
そう思って1ヶ月が過ぎた。
図書館で本を読んでいたら、外が暗くなっていた。急いで帰り道を辿っていると人気の無さが気にかかる。いつもなら夕飯の時間だから人がいなくても当たり前かと思ったはずだけど、なぜか気になった。
街灯が目に映り込む。
歩くのも忘れて見てしまった。
街灯の明かりに照らされているはずなのに、その真下にある黒い人影を。
「ひっ…!!」
恐怖を感じた。
命の危険を感じたわけじゃなくて、未知に対する怖さだったんだと思う。口と思われる窪んだ所がモゴモゴと動いている。何かを喋っているようだった。
…シ ……シ シ……… ………シ…
聞き取れたのはこれだけ。後は怖すぎて走り出していたから、なんて言っていたのか知りたいなんて思ってなかった。無我夢中だった。もし、振り返ってアレがいたらと思うと家まで必死に走った。
慌ただしく玄関のドアを閉めて、ドアを凝視するようにしてアレはいったいなんだったのかを考えながら乱れた呼吸を整えていた。
ミシッと背後で音が鳴った。
ビクターはその音にすら恐怖し、後ろを振り返ると
「おかえり、ビクター」
さっきまでの緊張感が解かれていくのが自分でも分かった。
母さんが不思議そうな声音で迎えてくれたからだろう。つくづく、家族ってスゴいなと感心する。
「ただいま」
「どうしたの?顔色悪いわよ」
「…気のせいだよ。走って帰ってきたからそう見えるんじゃない?」
「そう?」
「心配しすぎだよ」
なんて、口では平気そうに振る舞ってはいたけど、嫌な汗が背中を流れていたのは事実だった。
*
あれから仄暗い所では、ほとんどの確率で例の黒い影を見掛けるようになった。
街灯や夜遅くまでやってる店が集まっているような夜でも明るいと思われる場所でも、その陰にはいる。
最初の頃は日が暮れてからしか見なかったけど、1年が経つ頃には日陰でも見掛けるようになっていった。
そんな異常な日常に慣れて、黒い影を見ても恐怖とか感じなくなったある日、ふと思い出したことがある。
黒い影は一度だけ、何かを喋っていた。
シ… ……シ シ……… ………シ…
聞こえたのはこれだけだった。
一体、なんて言っていたんだろう。
そう考えながら今まで近付こうともしなかった森の入口に立っていた。
不気味さは感じない。
至って普通の森だ。別に、心霊スポットで有名なわけでもないから当たり前と言えば当たり前。
あの日、遊んでいた川の畔に足を運んでみたけど、アレはいなかった。ここに来れば、アレがなんなのか分かる気がしたのだけれど。
無駄骨だったかと踵を返す。
「あ……」
すると、視線の先には黒い人影。
こんなにも空は晴れていて、木の影も掛からないような明るい場所だというのに、それは黒い人影でしかなかった。
「おまえ、なんなの……まさか、幽霊…なのか?」
今まで恐怖を感じていたものに対して、なんとも口調が強くなってしまったと心の中で思うほどに、今は恐れていないようだ。ただ陽炎のように揺れる黒い人影。答えなど期待できないかと歩き出した途端に聞こえた。
シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ
全身総毛立つとはこの事。
さっきまでは慣れたもんだと嘲笑すら出るくらいだったのに、その言葉を耳にした瞬間に初めて遭遇したあの時よりも恐怖を感じている。
叫んで走り出したいと思う頭とは裏腹に、体は石になってしまったかのようにビクともしない。
森の出口から再び黒い影に視線を寄越すと、黒い影はニタァと口元に三日月のような弧を描かせていた。
*
汗が首筋を伝う感覚で意識が戻った。
真昼の森の中で、川の畔に立っていた。
今、あの黒い影と会っていたはず。白昼夢でも視たのだろうか。しかし、夢にしてはリアルだった。
荒い呼吸を整えて、森の出口へと向かう。
精神的な疲れも相まってか、体がやけに重く感じた。さっきまでが夢の中にいたかのようだ。
森を出たところで違和感を感じたが、あまり気にせず自宅へ帰ると様子が変だった。
がらんとした家。庭は雑草が伸び、落ち葉の処理がされずにいた。開いていた玄関から、ただいまと声を 掛けて家にあがり、リビングに行くと母さんがテーブルに伏せていた。
ただいま、母さん。
そう声を掛けても動かない。寝ているようだ。起こすのも可哀想だから、そっとしておこう。車庫が開いていたし、中には車があったから父さんもいるはず。
書斎にでもいるのかなとドアを開けようとした時に父さんが出てきた。ぶつかりそうになるのを避けながら、ただいまと声を掛けたが、父さんは無視してリビングに向かっていった。
無視かよ。
嫌な感じだなと思いながら着いていくと、リビングで母さんの肩を優しく撫でている父さんがいた。
「そろそろ立ち直らなければ。いつまでもこうしているわけにはいくまい」
「でも、あなた……あの子はまだ15歳だったのに…」
「ああ。なんであんなことになってしまったんだろう」
何を悲しんでいるのだろう。
凄く大切なものを失ったかのようにうちひしがれている両親の姿を初めて見た。
ちょっと、状況に着いていけなくて訊ねてみたけど、両親は聞こえていないかのように悲痛な様子だ。さすがにこんなにも無視されると怒りが沸くもので、ちょっと強めに声を出そうと口を開いたが、絶句してしまった。
「ああ、ビクター……なぜ、死んでしまったの…」
嗚咽混じりの母さんがそう言ったからだ。
僕が、死んだ?
どういうこと?
意味がわからない。僕は今ここにいるのに僕が死んだなんておかしな話だ。
しかも、出掛けたのは2、3時間前なのに死んでから何日も過ぎたかのように言っている。
ち、ちょっと、母さん何言ってんだよ。父さんもさ…
冗談だと思いながらも声が震えていた。
二人とも本当に聞こえていないのか、反応がない。
自然と後退っていた。
壁にぶつかって、窓ガラスがカタカタと鳴っても、父さんも母さんも気にもしていなかった。
*
僕は死んだ。
いや、死んだ事になっている。
だって、こんなにも意識がはっきりしているのに自分が死んだなんて信じられない。でも、自分の名前が刻まれた墓があったから信じるしかなかった。
あの森に出掛けた日に僕は死んだらしい。着けっぱなしのテレビでニュースキャスターが言った日にちは、あの日から1ヶ月が過ぎていた。
徐々にだけど父さんも母さんも立ち直り、この家にも日常が戻り始めていた。
よかった。このまま二人とも死んじゃうんじゃないかと心配していたけど、杞憂に終わりそうだ。
自分が死んだ事には納得出来ないけど、大好きな家族をこうして見守る事が出来ているから落ち着いていた。
それから、1年2年と過ぎていくと変化があった。
死んだはずなのに死ねていないというこの現状に僕の頭はおかしくなりそうになっていた。
腹は減らないし、眠くもならない。物にぶつかることはあっても痛みを感じない。疲労もない。
それが、自分が死んだということに納得できた理由ではあるのだけれど、この気が狂いそうな感覚が僕の精神を挫くのに、そう時間はかからなかった。
「ビクターがいなくなってから、もう3年か…」
ふと、その言葉が意識に刻まれた。
ビクターって誰だろう。この人たちは何の物思いに耽っているのだろう。そもそも、この人たちは誰だ。
何もわからない。
「そうね、あの頃はこの世の終わりのようだったわ」
「今は悲しみは薄れてしまったが、楽しい思い出があの子のいた証だな」
「ええ…いい思い出だわ」
寄り添う二人。なんだか、嫌な気分だ。
僕をひとりにしないで。
気付いたら手を伸ばしていた。男の人の肩に手が触れる。何か不思議そうにこちらを見た。
「……?」
「あなた、どうしたの?」
「いや…今、誰かが肩に触ったような気がしたんだが……」
「風じゃないかしら。今日は風が吹いて涼しいから」
「そうか…そうだろうな」
何を言っているんだ。僕がここにいるじゃないか。
僕はなんで怒っているんだ。
ちょっと待って、僕が誰だか分からない。自分自身の事が分からない。
「今思えば、森で倒れた辺りから様子が変だった。あの時に気づいてやれなかったのが墓までの心残りだよ」
「暗闇を怖がっているようだったわ。何か見えてたのかしらね」
「死神でも見えていたってのか?バカバカしい」
「例えばの話よ」
「もしそうだとしたら、今、わたしの肩を触った気がしたのはビクターの所為なのかもしれないな」
冗談混じりに笑いながら会話する二人を見ていて思い出した。
僕は、ビクター・ゼル。この二人は僕の両親だ。そうだ。全部思い出した。
僕は森の中でアイツに会って、気が付いたら死んだ事になっていた。それから、ずっとこの家で二人を見てきたんだ。
思い出したんだ。僕はここにいるよ、父さん母さん。
声を 掛けても見向きもしない。なんでなんだ。触ることは出来るのに声が聞こえないなんておかしい。
「痛っ…」
「どうした?」
「今、肩を掴まれた気がしたの」
「まさか、本当にビクターがいるというのか?」
そうだよ。でもなんで、恐る恐るといった感じでこっちを二人が見るのに、まったく目が合わないんだ。
―――なんで!!
家中に声が響いた。
両親の恐る恐るといった表情が色身を変えていく。
明らかな恐怖の顔。女は悲鳴を上げ、男は暖炉の上にあった猟銃を取って構えた。
「だ、誰だ?」
家には自分と妻しかいないはず。窓際で震えている妻を見やり、男はそちらにゆっくりと近づいていく。
「本当にビクターなのか?」
「あ、あなた……そこ」
震えながら女が指差した方を夫が見ると、引き摺るように床に何かの通った跡があった。その先で、花瓶がガタッと動いた。
「!!!」
喉をひきつらせ、反射的に猟銃の引き金を弾いた。花瓶に当たり、激しく破片と水が飛び散る。
「な、んだ……おまえ…」
声を詰まらせ、それでも絞り出した声にそれは反応した。
それは黒く蠢く影で、形が定まらないのかズルズルと上から流れては、また形を作ろうとしている。
そして、何よりも気味が悪いのは、人の形を採ろうとしているところだった。
もごもごと窪みが動く。まるて、人が話すかのように。
………死……く…い……
ゴポゴポと水の中で話しているかのように聞き取りにくかったが、得体の知れない何かに恐怖した男は、それを猟銃で撃った。
すると、黒い影は赤い液を噴き出し、男を呑み込んでしまえるほど大きく広がった。
*
見慣れたはずの部屋は、真っ赤な血で染め上げられていた。グニュリとなんとも言いがたい感触に下を見やれば、内蔵と思われる物が床に散らばっていた。
ああ、これは腸か。そんな風に怖がることもなく目に写るものを認識していた。
「ごめんなさい。父さん……母さん」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。それと同時に、自分が両親をこんなにしてしまったということを理解した。
不思議とそれに対しての恐怖は無かった。
どうしようか考えていると、部屋の入口に黒い人影が立っていた。
「おまえ………」
黒い人影は、口と思われる所を三日月のように歪めただけだった。
言葉も出ずに対峙していると、既視感を覚えた。川の畔で会ったやつでも白い壁の向こうで見たやつでもない。もっと現実味のない見方をした気がする。
「これは、夢……なのか?」
その言葉を呟いた後には、玄関で項垂れる僕に薔薇十字団の人が話し掛けるまでの記憶は無かった。
団に入れば免罪されるとかなんとか言っていたけど僕はただ、黒い人影に会いたくなくて、そこなら逃げられると思って了承していた。
◆
視界が戻る。体が痺れて動けないが、目だけは動かせた。荒縄がぶら下がる様子を見て、左、右と視線を動かすと暗い部屋の中に金色が見えた。
「ビクター・ゼル。お前に対して抹殺命令が出ている」
冷たく言い、金色は拳銃のスライドを動かして弾を装填する。
「……ああ、そう」
「お前、首吊ってたのに死んでないってどういう事だよ」
「それは、君が夢を見ていたんだよ」
「悪夢を実現する異常“レムレス”。それは、周りにも作用する……だから、抹殺命令が出たのか」
「そうだよ。僕にとっての悪夢は、ようやく逃げ切れたと思った所にあいつが現れる事……寝ると必ず悪夢を見て、それが現実になる」
金色は煙草を深く吸い込み、煙を吐くと
「………。壮絶だな」
「ああ………今、夢を見ていた。この異常が発症した時の夢だ。父さんと母さんを殺してしまう夢だった。今になって不思議に感じる。さっき見た夢は記憶から呼び起こされたものか、想像による悪夢なのか判別がつかない程に曖昧なんだ。あの日があったから今に至るのか、さっき夢を見たからあの日に影響したのか分からない……」
「……………」
「滑稽な夢だ。自分が幽霊になって両親を殺すだなんて…」
掠れた笑い声を出せば、漆黒が囁くような声量で言った。
「それが、あなたの起源」
「つまり、後者だということ?」
「そう。いつかのあなたが異常を来たし、そこから過去のあなたへと悪夢が影響した…の。今のあなたは、別のあなた」
「そうか……そう、か………」
「あなたの悪夢は、終わらない連鎖…なの。救えるのは…」
「死…のみ」
頷いた漆黒を見て、納得した。
自分が逃げてきたものが、よもや自分自身だったとは、とんだ笑い話だ。
そうか、あの黒い人影が言っていたのは僕を救うためだったのか。いや、自分を救うためだ。
そして、今の僕を救う方法は死ぬこと。
「もう、疲れた……この世界の僕は死ぬけれど、別の可能性の世界の僕はこの夢を見て悪夢だと鬱ぎこむだろうね。ああ、この異常に僕という存在は呑み込まれてしまったということか」
「可能性の世界の話だろ。今のお前が死ぬことによって、悪夢を見ることは無くなる。そうしたら、過去への干渉は無くなる。お前の存在は正常な流れに戻るんだよ…死んじまうけどな。で…今、俺の目の前にいるお前は救いを求めてるのか?」
そう言いながら、金色は拳銃を僕の額に向けた。
「ああ、この悪夢を終わらせてくれ」
*
息を止めたビクターの痩せ細った体を見下ろして善は深く呼吸した。
まるで、ホログラムが消えるかのようにボロボロの屋敷が消えていく。既に夜明け前の明るさが林の中に差し込み始めている。
「善さん、Liri」
「任務を遂行出来たようだな」
橙色の髪の少年と朱髪の女が迎える。
善の元に集まり、ビクターの遺体を前に二人は黙祷を捧げた。
「……自分の夢が自分を苦しめるなんて、辛いさ」
「異常ってのは、そんなもんだ」
「ある意味、死こそが彼の救いだったのだな」
ボロボロのその体は、彼の憔悴具合を表している。落ちてきた朝露が目尻から流れ落ち、まるで涙のように見えたが、安らかなその顔は解放を喜んでいるかのように感じた。
そんな彼を、朝日が淡く幽かに照らしていた。