空と不確かなものと 2
未明の頃、慌ただしい気配を感じてサラは目を覚ました。
しかし、暗渠のような眠りの世界から浮かび上がった彼の意識は完全に結ぶにいたらず、漂いながら漆黒の水底に引きこまれようとしている。
本能的な恐怖が無音の叫びを上げさせ、サラの意識に無理やり浮力をつけさせる。サラはまぶたを強引に引き上げ、座席で傾いでいた体を起こす。
背骨が鳴った。冷えた身体は重く、昼間の漠土行と戦機人による戦闘の疲れが抜けていないと少年は感じる。
彼の右手の小窓から見える空の景色には、寝入る前にあった眼下の雲海はすでにない。雲ひとつ無い大気は、夜明けが近いことを思わせる深い青に染まっている。金色の砂をまいたように散らばっていた星たちも、力の無いものは消えゆこうとしていた。
艇員の一人がサラの横の通路を足早に奥へと通り過ぎた。革の飛空服が擦れる音が耳に残る。
サラが見回すと、主艇室にはデュバン艇長の姿がない。しばらく落ち着かない気持ちで彼は座り続けたが、今度は奥から艇員の一人が現れ、サラのところで立ち止まる。
「起きていましたか。申し訳ないのですが艇尾の貨物槽までご足労願いますか。デュバン艇長が来てほしいと頼んでいますので」
サラは座から腰を上げ、無言で艇員の後に従った。
艇員とサラは小さな仮眠室の横を通り、三つだけあるこれもまた小さな客室の横を通り過ぎようする。
唐突に、その扉が内側に開いてショアルの顔が突き出てきた。彼女と目と目があってサラは思わず眉をしかめる。
ショアルの顔が引っ込む。サラは顔を伏せた艇員の後につづいて横をすり抜ける。
彼が横目でちらりと半開きの扉の向こうを見る。暗い扉口の向こうに、ショアルの白い部屋着と眼球が闇に仄かに浮かび上がって見えた。彼女は通り過ぎるこちらを目で追っているようだ。
二人の艇員が扉前に監視に立つ、帝国兵の監禁につかっている二室の前を、サラは奥へ進む。
後ろで声がした。サラが振り返るとショアルが監視の艇員と何か話していた。どうやら彼らの後について来るつもりらしい。
薄暗い貨物槽にはサラの戦機人が横たわっている。戦機人はどういった材質なのか、通路の薄暗い照明光を吸い込んで、よりいっそう暗闇を増すような漆黒の装甲である。まるで巨大な闇の塊が在るかのようだ。辺りには、瘴壊爆発の影響を除くために使った溶剤の匂いがまだ残っていて、彼の鼻を刺した。
サラが近づくと戦機人は微かに唸っているように感じる。機体の重量を軽くする為、至源炉が半覚醒されているのである。これは古製代戦機人特有の機能の一つだ。もっとも、製造されて最初に起動した時から、古製代の戦機人の至源炉は完全には停止する事が無いらしい。
実際には、戦機人自体は音を発していない。戦機人の周りの大気中物質が振動しているのだった。はっきり音として耳が捉えているわけではないが、計測機器で調べると何かの現象で振動しているのは分かる。
この共鳴現象のようなものは、古製代戦機人に顕著に現れる〈導恩〉などの、空間に働きかける現象と何らかの関連があるのではといわれていた。むろん、現代の技術水準では解明できていない。俗に、東方では宗教観から奈落より漏れ出る魂罪人のおめき声だと言われている。西方では逆に天人が祝福の聖句を唱えているとされる。
艇尾に近づくと空気に流れがでてくる。その風の中に新製代の戦機人特有の悪臭が微かに臭う。培養キメラ筋肉とその浸透吸餌である蟲骸泥の腐敗する臭いだ。いちばん近い臭いをあげるとしたら屠殺場などの排水溝に滞る大量の血が腐った臭いだろうか。
前方のいくつもの手持ち灯の明かりに浮かぶ人影の中に、サラにも見覚えのある艇長帽があった。
貨物槽の最後尾にある蓋扉が少し開いている。その隙間の向こうに、夜の空の深遠な広がりが流れていた。
風がそこへ向かっている。漆黒の空に吸い込まれそうな感覚にサラは軽い怖気を覚える。
集まっている人数は三、四人のようである。こちらに気づいたデュバンらが顔を向けてきた。近くに繋いであるサラのラマ馬も同じようにこちらを見る。
その時、鋼鉄と鋼鉄がこすれて軋むような不快な音が、艇の奥から彼の耳に伝わってきた。蓋扉の向こうの小甲板である。
サラの方を向いていた全員が音のした方に首を戻す。ラマ馬も音源に首を向ける。まるで艇員の一人のようだ。小さく噴く笑い声がサラの後ろから聞こえてきた。
艇員たちが場所を空けたので、サラはデュバン艇長の横に並ぶ。彼はショアルの方を見て何か言いたそうにしたが何も言わず、サラの方に話しかけてきた。
「ご足労すいませんね。早速ですがこれを見てもらえませんか」
蓋扉の隙間の向こうには、半壊した帝国製の戦機人が一領、鋼縄で小甲板に固定されている。本来は荷物の積み下ろし用のもので、小甲板は大して広さがあるわけではなかったが、膝を抱えるように戦機人の機体を折り、何とか積載していた。
その戦機人がしばらく見ていると身じろぎするのである。
戦機人の機体が邪魔して後部蓋扉は少ししか開かない。その為によく見えず、一瞬、風の影響かともサラは思ったが、確かに動いている気配がする。その背中が微かに動くと、鋼縄が軋む音や甲板を金属の塊が擦る嫌な音がするのだ。
パラカン帝国の戦機人は操士も乗らず、むろん至源炉も覚醒させていない、それにも関わらず身動きしようとしている。
サラは息を呑んだ。戦機人が剣の刺突によってできた大穴の開いた頭をゆっくりともたげ、左右を見回すように首を振ったのだ。少しだけ開いた蓋扉の隙間からでは後頭部しか彼らには見えないのだが、隙間からでもその動きが分かったのである。
悪臭が少し強くなった気がサラはした。ひとりでに動く戦機人はまるで生きているかのようで、とても気味の悪いものだった。
「サウラヲミ殿はこのような現象をご存知で。戦場では破壊されたこの型の戦機人もあったでしょう。もしも、こんな所で戦機人に大暴れでもされたら艇がひとたまりもない」
デュバンはもしかしたらサラが何か知っているのではと、少し期待しているように見えた。彼はすでに少年がイスタール皇国とパラカン帝国の戦いに従軍していたことを聞いている。帝国の対イスタール戦役が終結していることは、この時点では居合わせた者の中に知る人間はいない。
「イスタール軍は……戦場は帝国軍に支配されていた……ぼろ負けの繰り返しで……撤退ばかりのイスタールにろくな情報が入るはずがない」
自身の言葉が歯切れの悪いものである事をサラは自覚し、内心で歯噛みする。
「破壊された戦機人が徘徊するうわさなどなかったのですか?」
サラは首を左右に振って知らないと示すのだが、デュバンが自分の表情を観察していることに少年は気づく。
そのデュバン艇長の視線がゆるむ。彼は自分の思考に沈み込んだかのようにサラには見えた。前日の帝国製戦機人を飛空艇に積み込む際の、その時の少年の態度をデュバンは思い出していたのであるが、そこまではサラにも察せられないでいた。