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空と不確かなものと 1

 太陽は澄んだ残照の記憶を後に置き、すでに雲間に没していた。

 代わって暗蒼(あんそう)の空には弦月が艇の左手を追いかけてくる。眼下には灰色の雲海が彼方までも続き、空の上の寒々しさは増すばかりだった。

 艇内は至源炉の稼動する低く微かな音に満たされ、気流による艇体の(きし)みと、ひそめた人の話し声のみが静寂を乱していた。明かりも計器周りと通路以外は落としてあり、薄暗い室内は少し離れれば顔の判別も難しい。声高に話すのは(はばか)れる雰囲気になっていた。

 白い飛空艇アクロフォカは応急の修理を終わらせ、今はクシャス市に向かって飛行している。幸い帝国の戦列砲艦がアクロフォカを不時着させるために使った噴進弾(ふんしんだん)の一種は、深刻な障害を圧推モーターに負わせるような物ではなかった。その為、羽刃(はねば)に付着した鎖を編みこんだ布を除去するだけで、何とか問題なく使用することができた。

「それでデュバン、何でまたあいつを乗せたのよ」

 ショアルが低く抑えた声で、とぼけ顔の艇長に重ねて訊いた。

 夜の高空は艇内でも寒く、彼女は襟と手首の周りにふさふさの長毛が見える柔らかい裏皮の飛空外套(ひくうがいとう)を着ていた。ショアルは艇長座の真後ろの貴賓座(きひんざ)に坐っていて、身を乗り出すような格好でデュバンに頭を寄せ、耳打ちしている格好だ。

 横の座席はアギン右書記官長が座ることになっているが、今は自室にあてがわれた小部屋に戻って休んでおり、この場にはいなかった。

「これはまた、なんて言いぐさを」

 艇長座に横掛けに腰を下ろして身体を少し捻った姿勢のアルベル・デュバンは、まったく(なげ)かわしいといった表情を作って首を振る。

「んもう! だいたい胡散臭いとは思わないの? ヒルコがなんで古製代装神甲をもってミド漠土の真ん中をうろついているのよ」

「まあいいじゃありませんか、彼もクシャス市に向かっているっていうし」

「べつにこっちから頼まなくてもいいでしょう。あいつはラマ馬で行くつもりだったのだから」

 デュバンは眉を寄せ上げて悲しそうな顔をする。

「命の恩人を何のお礼もなく漠土に放り出せとおっしゃるので」

「あー、もう! 分かったわよ。もうデュバン艇長には言わないわよ。いいわよ、わたしが見張っているから」

 ショアルが低く抑えた声でそう言い放つと座席から立ち上がり、身を翻して通路を艇の奥へと足早に進みだした。侍女のサビヤも後を追う。

 デュバンは疲れの見える難しい顔で、その後姿を目で追う。彼もショアルの指摘は重々承知していたし、余計なことはせずに今は一刻も早く国元(くにもと)に帰還して肩の荷を下ろしたかった。

 しかし、パラカン帝国の影はあまりに早く迫りつつあり、そして強大だった。すでに近い将来には、パラカン帝国との戦争は避けられないだろうという感覚がデュバンにはある。そして漠然とだが、彼らテベル同盟では(てき)しえない気がしてならないのだ。

 それを確かめたいが為に、デュバンはイスタール軍の傭兵操士として、帝国軍と豊富な戦闘経験があるらしい傭兵操士サウラヲミ・サラ、その彼との繋がりを()めておきたいと思ったのだ。また、そうでなくとも、サラはそれなりの戦力となりうると彼も判断している。所有している戦機人は、滅多にお目にかかれないほど強力な代物だ。

 戦力分析のための情報収集はまだしも、一領の戦機人を得たところで、はたして戦争となったときに戦局へ、いかほどの影響があるあるのだろうか。そうデュバン自身も思わないでもない。だが、彼が飛空艇乗りとして(つちか)ってきた、現実に対処するための思考方法と情緒が、空想的な平和論や根拠のない自軍戦力の盲信による思考停止を妨げている。自分たちを有利にするのなら、どんな小さな芽でも大事にしたい衝動に駆られているのだ。

 デュバンは頭痛でもするのか眉根をつまむように()(ほぐ)し、疲れに(よど)んだ息を吐き出した。

『とにかく、姫様がサウラヲミという氏族名の響きがパラカン人系だと気づかなかったのは幸いだな……』

 しかし再び前に向けられたデュバンの目には、厳しい光が宿り、けして気を緩めていない事が見て取れた。あるいは長く厳しい戦いへの予感が、彼の心から余裕を奪っていたのかもしれない。

 

 ショアルは歩いていた足を止める。主艇室からその奥へと続く通路の出入り口の所である。そこにはサラが坐っていた。主艇室の座列の最後尾にあたる座である。彼女が見ると、彼は何やら片腕で顔を撫ぜている。

 薬草らしき臭いにショアルは気づいた。サラはどうやら軟膏(なんこう)を顔に塗っているらしい。

「なにしているのよ?」

 仏頂面な声というものがあったら、彼女のこういう口調をいうのだろう。

 サラがショアルの顔を見上げる。

「……見ればわかるだろう」

「ふーん、男がお肌のお手入れね。まあ女の子みたいな名前だとは思ったけど。東方名だからサラが個人名で、何とかっていうのが氏族名なのでしょう」

「…………」

 サラが口をつぐんだ。傍目にもいきなり険悪になりそうな雰囲気だった。

 ショアルから半歩のところに退いて立つ侍女のサビヤが、上半身を捻って艇長座の方を見る。彼女のどういった対応すべきかを問いかける視線に対し、デュバンが酷く真面目な顔を作って大げさな敬礼をよこした。その動いた口の形が『健闘を祈る』と言っているように彼女には見えた。

 サビヤは二十二、三歳ぐらいに見え、ショアルやサラよりそれなりに年上のようだった。柔らかな顔立ちに似合わない、男の視線を捕らえて離さない抜群な肢体の持ち主である。その彼女は、泣きそうな顔で『わたしがやるのですか』と自らの豊かな胸の上を押さえる。

 デュバンが顎を引いて深く(うなず)くと、不承々々といった感で彼女は顔を前に戻す。そうしてから数瞬の間、躊躇っているのか動作の硬直を見せたが、息を一つ吸って思い切ったように勢いよく一歩前へ出る。そして睨み合う感じで目と目を合わせる二人に向かって、明らかに後先考えていない様子で声をかける。

「あーあーあー……あのですね……えーと、ですから、その……なんと言いますかそのー」

 彼女の当初の狙いは達したようで、サビヤは二人の耳目を集めることに成功したのだが、その後が続かない。いたずらに意味の無さそうな珍妙な身振り手振りだけを繰り返す。

 ショアルは(いぶか)しげに眉をひそめ、小首を(かし)げる。

「サビヤ、なにを踊っているのよ」

 一瞬の間が空き、サビヤが凄い勢いでショアルの真正面に顔を振り向け、さらに取って返す刀でサラの方にも顔を向ける。

 サラは鼻白らんだ様子で、ショアルはかなり驚いていた。

「……わ、わかったわよ! わかったから、だからそんな顔しないでったら」

 離れていた所から(うかが)っていたデュバンらと艇員が、この主従のやりとりに思わず吹き出しそうになったらしく、それぞれが口を押さえたり奥歯を噛み締めたりする。

 笑いの気配を察したのかサビヤが顔を向けてくる。一瞬にして艇員たちの表情が凍りついたように固まり、全員が素早く座の背もたれの陰に身を隠した。

「そうそう、これって蘆薈(ろかい)の葉の匂いですよね。あっ私、ショアル姫様の侍女を勤めさせていただいています、サビヤ・マルメロと申します。蘆薈の軟膏(なんこう)をお顔にお塗りになるなんて、どうかなさったのですか?」

 サビヤは見事に優しげな表情である。ショアルにも先ほどの顔が何かの間違いだと感じられるほどだった。

 そして、すっかり毒気を抜かれたらしいサラは、不思議なものをサビヤの顔に見ている面持ちに見えた。

「この軟膏は……その、おれ、おれは肌が焼けて……顔の皮膚が痛くなって……だから軟膏を塗ってる」

 サラが言葉に突っかかりながらそう言った。途中から顔つきや語調に少し苛ついた様子が再び表れている。

 サビヤは彼の感情の揺らぎに気づかないみたいだった。

「まあ、あらでも、ターバンをお顔に巻かれていたように見受けましたけれど」

 少年は飛空艇の中でも、先ほどまではイスタール風の漠土ターバンを顔に巻いていた。おそらく軟膏を塗るために外したのだろう。

「よくわからないけど、おれは肌が弱いから少し日に当たったくらいですぐに皮膚が赤くなってしまう。黒くならないんだ」

「まあ、それはおかわいそうに」

 サビヤは何の気なしに言った風だったが、彼女を見るサラの視線が鋭くなる。

「ああ、ごめんなさい。わたし何か失礼なことを」

 すぐに誤ってきた彼女にサラの方こそ驚いたみたいだった。少年は慌てたように表情を緩め、口の中にこもるような小声で「いや別に」とそれを否定する。

「でもお気に(さわ)ったのではございませんか?」

 サビヤのちょっと怯えたような小動物を思わせる態度に、きまり悪そうな顔のサラが重ねて気にしてないと伝えた。

「気にしているじゃない!」

 唐突に傍からショアルが口を開いた。二人は相手にしないのか、何も喋らない。

 数瞬の後、ショアルが作った気まずい沈黙を振り払うように、サビヤが高く華やいだような声を出す。

「あら、ここに延ばしむらが……ちょっと動かないでください」

 サビヤが無造作に手を伸ばし、サラのあごの辺りに触れる。再び驚いたらしく硬直する彼を尻目に、彼女は伸ばされないまま盛り上がっていた蘆薈の軟膏を、首筋に丁寧に塗り伸ばした。

 彼女は、それから少し微笑んだ顔を近づけ、サラの顔の周りを点検する。

「はい、もういいですよ。他の塗りむらも無いようです」

 サラが呆然とした感じでサビヤの顔から目が離せないでいた。

「……ありがとう」

 ショアルは行儀悪く腕組みし、人差し指で軽く自分腕を叩く。

「なによ、一応はまともに口がきけるじゃない。侍女と口がきけてもわたしとはきけないの」

 サラが苛立った気持ちを隠そうともせずに、少し歪めた顔をショアルに向ける。

「人を人とも思わないような人間とは口を利きたくない」

 ショアルは腕組みを解き、下に降ろした手をぎゅっと握った。

「なによそれ! だいたい、それはあなたでしょう。いくら相手が帝国の兵士だからって、あんな虐殺していいと思っているの」

 サラは答えず、あまりよくない類の笑みを口元に貼り付けただけである。

「あなた人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ。人を馬鹿にするのは自分が馬鹿だからよ。あなたは無知で残酷で冷酷なのよ。だから平気で人殺しができるのよ。そういうのを世間一般ではならず者とか悪漢(あっかん)っていうのよ」

 慌ててサビヤが、ショアルの興奮を鎮めるように手を優しく包み込む。

「姫様、それはいいすぎですし、それに何かちょっと的外れのような気がしますわ。きっと変な本の読みすぎですよ」

「ヘンな本て何よ! あなたが持ってきた本でしょうが」

「サラさんが最初は失礼な態度に見えたのも、ターバンを被ってなくて日に焼ける心配があったからですわ。ね、そうでしょうサラさん」

「ヘンな本は無視なのね」

「いや、サビヤさん。その女の言うとおりだ。おれは残酷で破壊を好むものだ……悪漢とかいう奴なんだろう」

 サラが皮肉げに片頬をゆがめて見せた。

 ショアルはサビヤに握られていた手を強引に引き抜く。

「ちょっと何よそれ! せっかくのサビヤの救いの手を無視して!! わたしもそれにちょっと付き合ってあげたのに」

「何のことだ?」

「何ですって!? だいたいその女ってなによ。わたしを馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ。わたしを誰だと思っているのよ」

「知るかよ。おれはヒルコだ! 大陸から集められて島に流されるヒルコだ。なんでいちいち大陸の姫様だか何だか知らないが、おれがぺこぺこしなきゃいけないんだ」

 サラが眼光鋭く睨みつける。

 負けじとショアルは睨み返す。

 しかし、ショアルは彼の眼を恐ろしいもと感じてしまった。彼女には、その視線は刃物のような鋭利な圧力を持っているように思えてならない。

 肉体的には力強さなど、サラ本人からはまるで感じない。だが、先の皇国と帝国の戦争に参加していたという背景と、昼間の戦闘でみせた残酷なまでの圧倒的な強さが、いっそうショアルに重圧を与えるのである。そもそもショアルは、このような敵意のある視線を向けられたことなど皆無だったのだ。

 また、彼女の祖国であるバレル聖国を含めたテベル同盟自体も、小競り合い以外の対外戦争を二十年以上も行っていなかった。そのため実際に戦闘で人が殺されたことも、人を殺したとはっきり認識できる相手を見ることも、ショアルは今日が初めてだった。

 殺人。忌むべきことの最たるものである。

 サウラヲミ・サラの、どこか病的な美しさをもった顔を睨んでいると、ショアルは肌が(あわ)立つような感覚をおぼえた。

 この時、彼女は自覚しなかったのだが、その感覚は一種独特のものだった。ショアルが後に思い起こせば、この時に感じたものと一番近いものは、肉親の死に接した時のものだったと思い至る。記憶にある五年前の父親の死体に接するときに感じたあの、冷たさ、二度と動かないという事実、永遠が壊れていく無常の感、その感覚に似た思いに彼女は捕らわれたのだ。

 死体となった彼の横たわった寝台のある父親の私室は、床に敷かれた絨毯(じゅうたん)の暗い赤が足を飲み込みそうで、まるで何万もの微小な手が下から伸びてきているかのようだと彼女は感じた。最後の対面だといわれたが、あの時はその顔をどうしても見たくなかった。どうしても見たくなかったのだ。

 眼の焦点がサラから分解する。ショアルは視線を足元に逸らし、いたたまれなく感じて通路を艇奥へと小走りに去る。

 手の空いていた副艇長が腰を上げかけたが、デュバンが身振りで制した。

 サビヤが後を追おうと足を踏み出したときに、サラが早口に声をかけた。

「サビヤさん、ありがとう。あなたの親切は(いっ)生涯(しょうがい)(わす)れません」

 サビヤが目を丸くした。あまりに大袈裟(おおげさ)な物言いであると彼女は感じているらしい。

「はい、覚えていてください。でも、今度軟膏を塗るときはちゃんと最初から塗ってさしあげますからね。ですから声をかけてくださいまし。それと姫様はわたしなんかよりも、もっと親切でお節介(せっかい)()きですから姫様が塗ってさしあげるかもしれませんね」

 そう言うとサビヤは顔を(ほころ)ばせた。

「はあ」

「姫様は心根(こころね)のお優しい方です。幾人もの随行(ずいこう)の方々が帝国軍に襲われて……お亡くなりになってしまわれて、だから気が動転しているだけなのです……でも、本当にお優しい方なのですよ。ですからサラさんも仲良くしてくださいね」

 サラはどう答えればいいのか分からない様子で黙っている。

 その彼の前から、サビヤが「それでは、わたくしも失礼させていただきます」と言葉を置き、艇の奥へと去っていった。


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