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未明の脱出 2

 パラカン帝国の特殊工作艇となっている交易艇が、クシャスの飛空艇港に着陸する。

 前回の難民艇のクシャス到着より、四日ほどと、いくぶん間が空いている。それまではひっきりなしだったので、イスタールからの出国者は途絶えたものと思っていた艇港員は、首を捻りながらも久しぶりの仕事にめんど臭さを感じる。

 あるいは昨日までたちこめていた霧の為に、たんに他の沿海州国に着陸していただけか、とも彼は思った。東からの物流が途絶えると、覿面(てきめん)に暇を持て余したのだが、彼はその状態に慣れて怠け癖が頭をもたげていたのであった。

「いけね、お仕事お仕事。それにしてもヤル気でねえな」

 艇港員が交易艇を手旗信号の誘導で港の一角に停止させる。艇港官吏の一人が、降ろされた昇降階段を上がって操舵座のある主艇室に入る。

「入艇係官のウィクタ・オメリヤンチュクです。これは難民艇ですか? 責任者の方はどなたですか?」

「わたしが責任者のキシュマだ。この難民艇の代表である」

 座席から立ち上がった声の主を見て、入艇係官は倦怠感が吹き散らされ、背筋に悪寒が走るのを感じた。この男は間違っても難民などではないと勘が告げている。故郷を追われた人間とは目の輝きがまるで違うのだ。この男が難民などというのは何かの冗談としか思えなかった。

 そして明らかにイスタール人ですらなかった。こちらに近づいてくる時に発つ、艇室の金属格子の床を歩く靴音がやけに大きく聞こえる。彼は不吉を運んでくる地底蛇女神(モルガドゥナ)の影が見える気がした。

 炯々とした輝きを放つどんぐり眼に見つめられ、入艇係官は唾を飲み込む。書類を挟んだ記帳手板を握る手の感触が緊張からか遠く思えた。

「て、艇の名前と所有者名、国籍および艇籍港を申告願います」

「艇名は〈ベラスの星〉号、艇主(ふなぬし)はアガ・ハガサ物産会頭リクサルドゥ・へラモヴィッチ。一応は大イスタール皇国籍でプナポリ市艇港籍だ」

「当港に複数回の来航歴がありますね。過去に問題が無いので臨検は免除になります。それでは、どういった用向きでクシャス市に来られたのですか? クシャス市は小国ですので一時受け入れしか難民および亡命者の受け入れはしておりませんが。経由目的なら出国先をお教えください」

 彼はキシュマと名乗った男の目の光が、さらに鋭さを増したように感じた。

「来訪の目的はしかるべき人物に話す。貴君はすぐに艇港長官の所へ、私を案内してもらいたい。他の者に知らせず、内密に願おう」

「そ、それはどういったことで?」

「君は知らぬ方がよろしいと思うが」

「しかし……」

「職務に忠実なるはよし。しかし話はついている。重ねて案内を願おう」

 交易艇を出た二人は、入艇係官の先導で艇港長官の執務室に向かう。それは発着場の建物の奥まった所にあった。

 八つの獅子頭が浮き彫りにされた青銅の扉の前に二人は立つ。入艇係官が中央にある叩環(こうかん)を扉に打ちつけ、キシュマ(なにがし)の来訪を告げる。意想外にも即答で入室を許可された。忙しい振りをするのが大好きな長官には珍しいことだ。

 二人が入室する。執務室にはクシャス駐剳のパラカン帝国公使と公使館付き武官が、すでにその場にいた。キシュマ・ギェンバは顔立ちを隠すように目深に被っていた行軍帽を脱ぎ、滑らかな額を見せる坊主頭をあらわにする。

 職務上、公使らの顔を知っている入艇係官は、そこにいる人物たちの格に気圧(けお)されて一瞬黙り込む。だが職務への責任感からか、来室理由の報告を口早にする。

「長官殿への来客をお連れしました」

 パラカン公使が艇港長官に目配せする。

「案内ごくろう。君は持ち場に戻りたまえ。そしてこの事は他言無用だ」

「はい」

 緊張のうかがえる声で返事をし、入艇係官が速やかに退室しようとする。

「君! ウィクタ・オメリヤンチュクと言ったね」

 呼び止めたのはキシュマ・ギェンバと名乗った男だ。入艇係官は踏み出しかけた足を止めた。緊張から全身に力が入らない。

「な、なんでしょうか?」

「先日、息子さんが生まれたのだってね。それに奥さんのスヴェトゥルナさんは以前、市立カジャモシ聖病院に勤めていたそうで、まさに良妻賢母といったところだと聞くよ。いや、独身の自分には羨ましいかぎりだ」

 入艇係官の男はぎょっとした。キシュマ某が世間話し風に喋りかけてきたのだが、それは先ほどクシャスに入市したばかりの彼が知っているはずのない情報である。彼は自分でも顔から血の気が引くのが分かったほど、強い恐怖を覚えた。

「な、なにを……」

「さっ、もう行きたまえ。家族は大切にするのだよ」

 呆然の面持ちの入艇係官がぎこちない動作で退室すると、キシュマ・ギェンバは艇港長官に向き直り、その鋭い目つきで睥睨する。

「早速ですが、本日の事は長官自身においても内密に願います」

 艇港長官はクシャス高官たる彼を、歯牙にもかけない態度に鼻白(はなじろ)んだようだ。しかし、すぐに怒りからか顔が紅潮する。

「いったい、どういうつもりだ! いや、そもそもおまえは何者なのだ」

「自分はパラカン帝国武装親衛隊所属、キシュマ・ギェンバ准佐であります。当地には任務で参りました。これ以上は聞かぬほうがよろしいかと」

「武装親衛隊だと……」

 絶句する艇港長官をよそに、キシュマ准佐は自国の公使に向き直る。

「第一執政官との面会はすぐに可能でしょうな?」

「無論だ」

 諸外国協調派で、現在は議席を全て失ったものの野党第一党だった開明政参党寄りと噂される公使は、吐き捨てるように言葉を発した。

「それは重畳。ではさっそく案内願います」

 ◆◆◆ 

 ドラジュミュラ・ロペーチはクシャス市の街角から、さりげなく視線を目標に向ける。

 二頭のケナガ馬が引いた馬車である。門衛の誰何に一度は止まったものの、すぐに市庁舎の外壁にある門扉内へと吸い込まれていく所だった。

 彼は市庁舎前広場の端に立っている。交易商人たちや、何かの許可だか訴訟だかを求める市民たちが、市庁舎別館の窓口に列をなしているのだが、その最後尾近くに並んでいるのだ。

 列に並んだ人々は、天蓋の無い直射日光の当たるところでは、小金持ちなどは使用人に大きな日傘を差させ、生活に余裕のある者も個人持ちの日傘を差している。貧乏人はイスタール風のターバンを巻くか、布きれを頭に乗せただけで我慢していた。

 市庁舎の上に突き出た時計塔の針は十ホル半を指し示している。列の周囲には飲料水や西瓜(シュドゴレ)()りに混じって、ちらほらと軽食の売り子たちが目につくようになっている。軽食で一番多いのは、ミチャ羊の薄切り焼肉とモロカラ菜の辛子酢漬けを、バルホドという種無しパンで挟んだものだった。

 列に並ぶ者の話し声や売り子の声で、辺りは喧騒に満ちていた。そんな中、窓の紗幕(しゃまく)が閉じられて内部を(うかが)えない馬車を、ロペーチは女物らしい花柄の洒落た日傘の陰から最後まで見送る。

『さすがに(つら)は拝ませてもらえないか。しかし、正門を使うとは大胆だねえ』

 この馬車は、表向きはここ数年で台頭してきた東方人財閥系の総合商社の、その番頭の一人であるクシャス支配人が所有しているものだ。だが実質の持ち主はパラカン帝国クシャス公使館である。公使館が所持している公用馬車が、表立って使用できない時に使われているものだった。

 状況の連絡がロペーチに入ったのは先ほどである。飛空艇港に張らせていた網に、駐剳パラカン公使が引っかかったのである。公使館の監視に気づかれずに飛空艇港に現われたのは見事だが、当の艇港長官の秘書がテベル同盟からそれなりの額の賄賂を受け取り、女をあてがわれていたので情報は筒抜けだった。

 そういった状況を作り上げていたのが、ロペーチなのだが、今回の働きでこの情報網も終わりである。間諜の要たる長官と秘書の両方の愛人役の女が、この情報と引き換えにクシャスからテベル同盟内への亡命を求めてきたのである。

 それは少なくない報酬とともに、彼女にその役を務めてもらう当初からの条件だった。クシャスにかかる暗雲を見て取った女から、即時の約束履行を求められたのだ。

 他にも第一執政官の第二秘書とも関係を持って情報を得ていたやり手なので、何とも痛い話なのだが、頭の良い女なので今回のことは仕方がないことだろう。そうロペーチも思っている。

 それにヒルコの少女の予言が本当なら、沿海州との関係自体が遮断される可能性が高い。連絡の取れない情報網は適時性において意味が無いし、連絡が取り続けられなければ現地人のそれなど早晩に消滅する可能性も高く、未来においても意味が無い。

 ロペーチたちにも、来訪者がどのような人物であるのかはつかめていない。しかし誰だが知らないが、パラカン公使と公使館づき筆頭武官が秘密裏に出迎え、そして今、クシャス市庁舎に案内するような人物であるという事は分かっている。

『さてさて、どうやらヒルコの嬢ちゃんの予言とやらの信憑性ってやつは、かなりのもんかもしれんな』

 ため息を一つついて、ロペーチはその場を後にする。彼の後ろに並んでいた訴訟人らしき若い男が、すかさず列の間を詰める。一人分だけ早くなっただけであるが、ちょっと嬉しそうだった。

『おいおい、明日あさってにゃどうなるか分からないんだぜ? 精の出るこったね、まったく』


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