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海図と批准書 4

「これがイスタール皇国に渡すはずだったテベルとイスタール二国分の批准書だ」

 ヘレニレスは、商談室に持ちこんできた書類鞄を低卓の上に置き、無造作に開ける。アクロフォカの艇内から商館金庫室に移していたものを、さらに持ち運びしやすいように飾り箱から書類鞄に移したのだ。液体を入れた小瓶と携帯の黄燐棒が隅に入っている。

 批准書は革で装丁された上質の綴り紙に、美しい書体で拘束内容や履行責務、効力化条件が羅列され、最終頁に締結を認める署名がなされていた。

 記名はテベル同盟評議会議長であるヘリオス・スピノザ・ミレメイノスとある。イスタールの記名は全権特使である前外務府長官コンスタール・フェヒルド・エデシッチの名前だ。

「まあ、これが世界に公表されれば、戦争を仕掛けたのはテベル同盟ということになりますね。今回のイスタール皇国とパラカン帝国の戦争は、西方列強はどの国も中立を宣言している。ここで同盟と帝国が戦争になったとして、大義のない同盟が援助を求めてもかなり足元を見られるでしょう」

 ヘレニレスが渋い顔でそう言った。

「援助ですか?」

「テベル同盟各国での食料の不足分をイスタールからの輸入に頼っていたので、その供給を断たれるとなると……どこかからの調達となれば、やはり生産量に余裕のある西方ということになりますね」

「あの、やはり食料に余裕は無いんでしょうか?」

 唐突に、今まで無言で成り行きを見ていたミホメが口を開いた。

「どうかしましたか?」

「わたし達ヒルコは食料が不足しているんです。ヒルコ船でも少しなら生産できるけど、乗っている人数が多くて……」

「このクシャスは小規模ながら一応は食料輸出国だ。ここならば多少なら用意できますが。いったい、いかほどの人数なのですか?」

「二万五千人ほど船には乗っています」

「二万五千人ほどですか……それはまた」

 ヘレニレスが驚くと、ミホメは慌てる。

「二万人を超えるといっても、先ほど言ったとおり、ヒルコ船には食料を生産する設備があるので、それほどたくさん不足しているわけでは……」

「でも、できるだけ多くは欲しいのも事実ですわ。金銭の類もないし、そこはサラの雇い料でなんとかならないかと」

 エレノアの言葉にヘレニレスは頷いたが、この場で言質を与えることは無かった。

「そうですね、この話は後ほどしましょう。今は海図を拝見させていただきたい」

「あ、すみません。これが海図です」

 ミホメの言葉に、ルクレツィアが肩掛けのずだ袋といった風のものから、丸められた紙を取り出しつつ進み出て、それを低卓に広げる。

「これは……」

 デュバンが唸った。それは、あまりにも精密に描かれた手書きの海図だった。

 ナガン山脈の南端の先から始まるアス大大陸の東ルメール側へ伸びる海岸線は、彼も良く知るところである。そこから沿海州側へ伸びるミド漠土西部を含む西イスタリアの海岸線もそうだ。

 そしてデュバンが高空から見下ろした地形の記憶と、海図の端にある陸地の海岸線の印象が、完全に一致している。

「これはヒルコの中にほんの一瞬でも、一度じぶんの目にしたものを、絵として完全に再現できる才能をもった方がいて、その方にヒルコ船の操舵室にあるキネマスコープのような動く絵図に出たものを、紙に描き出してもらったものです」

「やはり手書きということですか。縮尺とかは大丈夫なのでしょうか? 距離が違っていたら、事におよんださいに困るのですが」

 ヘレニレスの疑問はヒルコたちに向けられたものだったが、デュバンが答える。

「間違いないと思う。我々の地図とも大きさや距離の縮尺は一致するはず」

「その方はほんの一瞬見ただけで、本当に正確に書き写せます」

 そうミホメは太鼓判を押した。

 中央に大洋が大きくある図には、いくつかの小島が点在し、所々にエーテル蟲雲の発生場所が記されている。そして、下の方に巨大なヒルコ島があり、下端にはかなり大きな陸地の海岸線が描かれていた。大陸級を思わせる大きさだ。

 ナガン人らの知っている場所との比較から見て、ヒルコ島はここクシャス半島よりもかなり大きな島だった。亜大陸とまではいかないが、間違いなく今まで知られている島の中では、世界最大だと思われる。

「これだけの海図の元になったヒルコ船にある表示装置とは、いったいどのようなものなのだ」

 ふと疑問に思ったヘレニレスがそれを口にした。

「よくは知りません。ヒルコたちに大昔から受け継がれてきたものだと聞いています」

「一度、調べさせて欲しいものですな。ことによると古製代の製造かもしれない」

「それは……なるべく秘密裏に運用しろと言い伝わるものだから」

 ミホメが言いよどみ、しばし重い沈黙が部屋にあった。

 ヘレニレスが一つ息をついて滞っていた話しを進める。

「そうですね……ミホメさんはこの海図を持って我々と同行してもらい、まずはバレル聖国に来てください。事が事だけに、ナガン神王族の膝元である我が国に来ていただくのが、もっとも適当だと思われます」

「はい」

「同行者はどうします? あまり大人数だと飛空艇の手配に手間取りますが」

「時間が今日を入れて三日しか無いのだから、ここにいる五人でよいと思います。船のほうにも任せられる方がいます」

 デュバンが片眉を上げる。

「三日?」

「はい。この商館はパラカン帝国の者たちに襲撃されます、三日後の深夜に。猶予はあまり有りません」

 ミホメの言葉にヘレニレスが仰天する。

「な、なんだって!? それはどういう事なのだ、いったい?」

「未来を視ま……」

「そんな馬鹿な! いくらなんでも早すぎる。ここクシャスはイスタール西端からでも二千リコ・メルトは離れている。パラカン帝国だってイスタールとの戦闘終結からまだ間が無い。軍の作戦行動はそんなに簡単なものじゃない」

 デュバンが噛み付くような口ぶりで、ミホメの言葉を遮って否定的な見解を示すと、それに対してシャープルが怒号を放った。

「ミホメざまのいうごどばぜっだい当たるんだば!」

「やめなさい! シャープル」

 突然の事でほとんどの者があ然としていたが、驚いていない中の一人、当のミホメが鋭い制止を発っした。

「しかしミホメ様、シャープルの言うことももっともです。ミホメ様の予言を否定したのですよ。許せることではありません」

「ルクレツィア、あなたまで何を……」

「二人ともやめりー! 落ち着きなって」

 事の成り行きに目を白黒させるサラに、エレノアが「あんたからも何かゆうたりーな」と言う。

「この二人は、いったい何を興奮してるんだ? 何も知らない外の人間なら当たり前の反応だろう」

「サウラオミ・サラ! おまえもヒルコの一人ならミホメ様に対する無礼を許すな」

 とうとうミホメが小さな体から精一杯の大声で叫ぶ。

「やめなさい! ルクレツィアもシャープルも、騒ぎだてするのなら別の者を同行させます」

 少女の甲高い怒声に大男は消沈とうなだれる。

「ゆるじでげろミホメざま」

 ルクレツィアも憮然とした顔だったが頭を下げて謝った。

 仕切り直しの気配に、ヘレニレスが改めて少女に問う。

「それで、帝国が襲撃してくるとは、いったいどういうことなんだい?」

「そうですね……もう一度、未来を視ます。それが一番、わかってもらえるはずです」

 エレノアが気遣わしげな表情を見せる。

「それはミホメ……でも……」

「大丈夫です。体調は戻ってます。ではいきます」

「みな、お静かに願います。ミホメ様が時降ろしに入ります」

 厳粛な面持ちと声でルクレツィアがそう言った。

 ミホメの青みを帯びた盲目の瞳が、虚ろに宙を睨む。少女は作り物めいた極端な無表情となっていた。土気色になった顔は死人のように酷い有様である。生命にとって大切な何かが、ごっそりと無くなってしまったかのようだった。

 やがて少女は何の感情もこもらないような平板な声で、その予言を告げる。少女の声はパラカン人ら極東夷(ツガミエシ)の東方人の民間伝承いう、隠幽里(オニュリ)南風(ファエ)と呼ばれる異界の風のようだった。

 黒海柳(クルミニャギ)の影門が朔の夜に開く時、死者の声を運ぶ不吉な風が隠幽里から流れ出て、その声を聞く者の心を彼の地へと(さら)っていく。そして二度と此岸に還すことは無い。生きながらにして死に魅入られた童人は、食事も排泄も自分では出来なくなり、わずかばかりの月日で死んでしまう。だが、その短い生の間、多幸の言霊を宿して村に富を与えるのである。

 

 

 汝、東より来たる

 銀の髑髏はさまよう民を(よそお)

 その手に血塗られた剣を持ち

 弱き愚者に虚言を強いるために

 おお黒衣に慢心を隠すものよ

 剽悍なる山の民よ

 傲慢さが偽りの翼下に集うなら

 誇るべき諸々は夜の闇に消え去るだろう

 その時は迫る、すぐそこに

 突きつけられた剣に宿る鋼の意思に

 やがて天秤と蛇は呑み干されるだろう

 その二十と六の日と月に

 小人が鐘を鳴らす時計塔と古の獣が水を噴きだす泉の城

 星と太陽と月の運行の下

 ()のものは城門の鍵を贈るだろう

 市壁を打ち崩す選択と知っていながら

 そして来たりぬ、神の末と称する者の血を欲して

 赤き菱と黒き稲妻のものが

 その猛々しき

 その猛々しき

 その猛々しき

 

 

 ミホメが浅く速い呼吸を繰り返している。荒い呼吸さえも出来ないほど体から力が失われていた。予言の時の奇怪な雰囲気は雲散していたが、いまだ顔色は土気色を通り越して真っ青だった。

 一同は少女の雰囲気に呑まれて声もない。しばし静寂の中にミホメの息をする音だけが漂う。

「大丈夫ですか? ミホメ様」

「大丈夫よ、ルクレツィア。心配いらないわ」

 ミホメの声は消え入りそうなほど、か細かった。口にした言葉とは裏腹に酷く体調が悪そうだった。

「どこか休める場所がないか訊いてみます」

 そのやり取りを聞いていたデュバンが長椅子から立ち上がる。

「少し待っていてくれ」

 すぐにデュバンはサビヤを呼んできた。どちらかが機転を利かしたらしく、商館付きの女中らしき人物も(ともな)っていた。

「お部屋をご用意しました。お立ちできますか?」

 女中頭であろうか初老の女性に尋ねられると、ミホメは力なく首を振る。

「お、おだが、いっつも運んでるだ」

 シャープルが意気込んで言った。

「そうでございましたら、お願いいたします」

「わがっだ」

 シャープルは、いっそ(うやうや)しくと言っていいくらい慎重にミホメの体を抱え上げる。

「後のことは任せときぃ」

 エレノアの言葉にミホメは頷き、シャープルに抱えられてルクレツィアとともに退出する。

 少女の退室を待っていたかのように、デュバンがさきほどの予言に対して口を開いた。

「クシャス市庁舎前の広場には獅子の噴水があったな。市庁舎にはからくり仕掛けの時を鳴らす時計塔もある」

「いや、それどころではない。執政官の執務室の天井には天体図が月と太陽の運行線とともに描かれている。天秤と蛇もクシャス市の紋章だ」

「銀の髑髏といえばパラカン帝国の武装親衛隊の将校章だぜ。赤菱に黒雷も武装親衛隊の標識だ」

「えーと、わたしを狙っているってこと? 血を求めるってわたしを……その……殺すつもりなのかしら」

 ドラジュミュラ・ロペーチが声を張る。

「その予言の話しを聞いた限りじゃ、パラカン帝国の奴らがクシャス市の執政官に接触するみたいだな。監視の網を広くかける、マセル・ハダト第一執政官を中心に」

「頼む、そうしてくれ。デュバン、アクロフォカの点検修理は済んでいるのか? 念のために確認が欲しい」

「昨日までの進捗予定では一両日中に作業は終了する。飛空艇港への確認はわたしが行こう。それとニエーヴ商館に監禁している帝国兵はどうする?」

 ニエーヴとはテベル同盟構成国の一国で、同盟中の最大国で軍事力も突出している。同盟総軍の中核軍を擁する強国である。

「人数も少ないし、階級も全員が低い。たいした使い道も無いからニエーヴに任せよう」

「そうだな」

「さて、わたしはミホメさんたちの旅券の発行と商館撤収の準備だな。と、言っても重要書類の破棄だけか。やれやれ、せわしないな。予言とやらが外れてくれるとありがたいのだがな」

 うんざりした様子のヘレニレスに、エレノアが言う。

「ミホメの予言はかなりの確率で当たるんよ」

 ヘレニレスが肩をすくめる。

「当たって欲しくはないな」

「ミホメ自身も、いくつもの未来が同時に見える時もあるゆうてんから、未来は定まったもんとは、ちゃうんやない? あたしもそう思てんよ」

「そうですか」

「それにー、一見、定もてしもたよに見えてん、人の手によーて変える事できるちゅー未来もあるさかい、ともミホメはゆうとったよな気ぃーするなあ」

「そうですな。人の手によって未来が変わらないとしたら、この今という時を、人は無為に生きるしかなくなってしまう」

 ヘレニレスの言葉にエレノアが花が咲くように顔をほころばせ、サラの方に顔を向ける。

「未来は自分の手で切り開くもんやさかいにな!」

 突然、話しを振られて戸惑うサラを、エレノアは満面の笑みのまま見ていた。

 


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