昼下がりの影は濃く 3
その日の午後からクシャス市には海から霧が入り込んできた。穏やかな海面を伝わって滑るように上陸してきたという。
霧は市街地の一角にあるバレル聖国の商館の一室にも流れ込んできた。部屋の窓から入ってきたそれを見てショアルが驚く。
「さっきまで晴れていたのに」
彼女がサビヤの方を見ると、小さな机に向かって相変わらず詩作に耽っていた。ショアルは物音を発てないように静かに近づいて、横合いからサビヤの手元の紙片を素早く取り上げた。
「あっ……姫様何をなさいます」
「読ませて!」
「そ、それは構いませんけれど……まだ途中でございます」
「読むわよ」
「えっ?」
「ああ異国の空の下に流れる風に身をまかせ」
「わあッ、止めてくださいまし。何で声を出して、しかも大声で読むのでございますか。無体でございます」
「趣味よ! そうしないと読めないのよ。野をさまよい花々に涙を流す」
立ち上がって自作詩の紙片を取り返そうと伸ばされたサビヤの手から、ショアルが身をかわす。素早く二、三歩離れ、続きを音読しながら、さらに廊下へと彼女は逃げた。
サビヤは一見すると困っているようにも見える。だが内心では、一連の出来事によるショアル内親王の沈鬱さが、いくぶん和らいだことを彼女は嬉しく感じてもいたのである。
「美しき泉に沈む石はただ横たわり……んー才能に疑問があるわね」
「本人がよろしければそれでよろしいのです」
「その言い回し何か変」
踊るように二人は進み、階段の近くでサビヤの手が今度こそはと体全体で飛びつくように差し伸ばされた。しかし素早い手の振りで危うく奪還されるのを避けたショアルの指先から、勢いあまって紙片が離れてしまう。手すりを越えて階下の玄関広間に紙片は落ちていく。
その紙片を拾い上げる手がある。サラは顔を上げて紙片が落ちてきた先を見上げる。少年は階上の手すりから下を覗き込む二人を認める。健康な髪の毛先が両頬に掛かるショアルの顔は、少し口元が笑っているように見えた。
「サラさん読まないでください!」
急いで階段を降りてきたサビヤに、サラは紙片を渡した。おっとりとした彼女には似つかわしくない、受け取る動作がひったくるような勢いだった。荷役車によじ登ったことといい、案外お転婆な少女時代を過ごしたのかもしれない、そう少年は思った。
サラは漠土マントを纏い、その下にはいつも持ち歩いている肩掛けカバンを提げている。漠土ターバンは巻かず、室内なのでフードも被っていない。
昨日、工場での一件でサラの頬についた油汚れのあたりが、かなり赤く肌が荒れていた。サビヤがそれに気づいたらしく顔を曇らせる。
「どこへ行くの」
後からゆっくり降りてきたショアルがサラに尋ねた。
「待ち人が来た……晴れた日の昼間の海からやってくる霧は、ヒルコ船の着いた報せなんだ」
「ヒルコ船?」
「全長が何百メルトもある海の上を行く船だ」
「何百メルトも? そうなの! それなら少し待って、わたしたちも見に行くわ。手土産でも用意するから。じゃあ、わたしたちも着替えなくてはね。サビヤ準備するわよ」
「ついてくるのか?」
「当然じゃない! そうでなければこんな事は言わないわ。少し待っていてね。あなたのラマ馬は出さなくていいわよ」
当惑するサラに返事も聞かずにそう言い残すと、ショアルがサビヤを引き連れて部屋へと着替えに戻った。
サラは、このまま行ってしまおうかとも思ったが、何となく思い切れずに少し苛立ちながら二人を待っていた。しかし彼女たちが着替え終わって階段を降りてくる姿を見ると、彼はその気分を忘れてしまう。
二人とも流行の街着を着ていただけなのだが、そもそも衣服を何着も持っている人間を知らないようなサラは、その服がとても上等なものに見えたのだ。彼女たちがイスタールとの条約締結のときに着用するはずだった礼服や、昨日の市高官との非公式の会食に着て行った略式礼服を見れば、少年はもっと驚いたに違いない。
ショアルは透かし模様が袖や裾に飾り織られた、体の線に沿って流れ落ちるような一つなぎの婦人服を着ている。その白い色の服につば広の同色の帽子を被り、ごく薄手の生地でふわりとした感じの群青の単色帯を、腰周りにゆるく巻いている。銀糸飾りのついた踵の高い華奢な靴も履いていた。
文化国家として知られる西方列強の一国、レファンから流行しだした街着の装いだ。サビヤも似たような格好なのだが、こちらは淡い空色でまとめている。二人いわく簡単な訪問着なのだが、サラには今まで見たこともないような華美な衣服に見えた。
商館の玄関に向かう二人の後ろに、護衛の者が三人ついてきた。二人は飛空艇員の中に見た顔だが、もう一人の男はここの商館付きの武官なのか、サラが初めて見る顔だった。
彼はかなり長身の偉丈夫で、目つきが鋭く所作が明確で無駄がなかった。口元には皮肉っぽい笑みが張りついている。その原因である左頬から口元にかけての傷が特徴的である。
飛空艇員の暑苦しい詰襟の上着に腰ベルトといったかっちりとした服装に比べ、彼は文明国の都市部なら世界中の誰もが着るような、灰色の上下に襟なしのボタンシャツといった労務者風の衣服だった。
だが、袖に腕だけ通して羽織られた上着の胸元横からは、両脇に吊った二挺の自動装填式の大型ピストルの銃把が見えた。ピストルは残り二人の護衛も、腰ベルトに回転弾倉のものを提げている。
それはサラの所有する一般的な護身ピストルの、二倍もの大きさが有りそうな代物だった。肉厚の銃身が長く、用心鉄で囲われた引金の前には、八発もの弾が込められる四角い弾倉がある。さらに長銃についているような、長距離が狙えるように引き起こしができる型の照門もあった。明らかに軍用拳銃かそれに類するものである。
ドラジュミュラ・ロペーチ、それが男の名だった。明らかに荒事を得意とする要員であろう。
その男と護衛のもう一人が商館敷地の横手から裏に消える。サラたちがしばらく玄関口で待っていると、商館の脇の小道から銀灰色の自走車が一台現れた。小型の至源炉で電磁モーターを動かし、使役獣などに引かせずに走る乗り物である。
今までのところ電磁モーターというものが、あまり大きな力を出せるものではないので、乗り物の動力としては、せいぜいこういった自走車を動かすことに使われるくらいだ。もっとも、至源炉がかなりの貴重品のため、かなり珍しい機械ではある。
サラは生まれて初めて見る自走車に目を奪われた。イスタールでも高級参謀あたりが戦地の視察の際に乗車していたらしいのだが、サラのいる最も危険な最前線には現われなかった。
自走車は、四方を硝子窓で囲まれた中央から後端にかけての天蓋付き乗員室と、前に長く伸びる丸みを帯びた艇体形の動力格納部を持ち、そこの両脇に砲弾型の前照灯各一つずつが計二つある。
その四隅には泥除けに半分ほどが覆われたゴム車輪が付く。ゴム部以外の側面は、顔が映るほど磨かれた軸鋼線の防護皿がついている。この車体全体が金属で覆われた様は、どことなく飛空艇を思わせる。
「どう驚いた?」
ショアルがどこか得意げに訊いてきた。
「初めて見た。これが自走車か」
「のろのろとしか走れねえ代物だがな」
そう言ったのは大型ピストルの男、ロペーチだった。そして自走車よりもさらに珍しい二輪動車に跨っていた。前後に一見華奢な車輪がついていて、これもまた極小の至源炉と電磁モーターで走る乗り物らしい。
ロペーチは長毛馬の競争鞍のようなところに尻を落とし、前に出した両手で操縦桿らしき湾曲した横棒を握っている。その下の斜め前に伸びた棒に挟まれた車輪が自在車輪になっていて、それが舵の役割をするように見える。
サラはこんな危なっかしい乗り物があるのかと驚いた。どう見てもあっと言う間に平衡を崩して転ぶに違いないと思った。それとも今のように両足を地面に着けたまま乗るものなのだろうか。
「こいつなら重くないぶん速いぜ。そっちの馬車以下のどん亀とは大違いさ」
「ふーん、ずいぶんな言いようね。でも、この自走車は大型の電磁モーターがついているし、小さめの飛空艇に使うのと同じ中型の至源炉が載っているといったらどう?」
「おいおい、そういう大事なことは護衛には言っておくもんだぜ」
してみると、自走車の仕様を知らないことから、ロペーチがここの商館付きの武官ではないとサラは気づいた。それにしても、サラ自身もそうだが、一国の姫に対してずいぶんと無礼なもの言いだと思った。ショアルとロペーチは親しいのかもしれない。
一行はバレル商館裏手から、クシャス市の石畳の街路に出る。先ほどは速度自慢をしていたが、自走車は発ちこめる霧に前照灯を点けても視界がきかず、安全のために歩くのと大して違わない速度しか出せなかった。それとサラが驚いたことに、二輪動車も倒れることなく、その車輪だけで器用に走っている。
横の建物の壁から住宅や商店が立ち並ぶあたりに来たと分かったころ、その前照灯が照らす霧の中に複数の人影が浮かぶ。
運転手が自走車をゆっくり止める。緊張が感じられる。助手席の護衛は腰のピストルに手をかけそうな感じだ。
電磁モーターの唸りと車輪と石畳の発てる走行音が消えると、しゃんしゃんといくつもの金属が打ち合う音が聞こえ出した。
「心配ない、ヒルコ行列だ。降りる」
後部座席のサラが隣のショアルにそう言う。後部座席はショアルを挟んでサラとサビヤの三人が座っている。




