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ペア・ペンダント

作者: hiroliteral
掲載日:2012/11/10

 勤務時間終了のサインが視界の中心に表示された。俺は課長と同僚に退勤挨拶のメッセージを送り、頭に嵌めた接続リングに手を伸ばした。額のダイヤルをログアウトに合わせると、仮想空間が次第に色を喪っていく。俺は目を閉じてダイヤルを押し込んだ。

 ゆっくりと目を開けると、俺はワークチェアから立ち上がった。軽く立ちくらみする。部屋の隅に飾ったサボテンに目を向けて頭を落ち着かせた。腰を伸ばして首筋を揉みほぐしていると、次第に現実感覚が戻ってくる。現実世界ではワークチェアに座ったままなのに、脳だけは仮想空間で働いているという今の仕組みは無理のある形だと思う。とはいえ仮想空間の仕事量を現実世界でこなすとしたら寝る暇も無いだろう。特別な才覚の無い俺が、現実世界で働く超エリートのリアルワークになるなんてどう考えてもありえない。

 部屋の中央に「明日を楽しむ維持運動」というメッセージが浮かんだ。毎日飽きるほど届く健康省からの広告メッセージだ。俺はリニアカーを起動しかけ、今日はまだ運動センターの予約時間まで余裕があることに気付いた。歩けば維持運動の時間も短縮できる。

 久しぶりに階段を歩くと膝が軽く震えた。しばらく維持運動の時間を最低にしていたせいだ。仕事中はずっとワークチェアに座っているが、睡眠時間は古代人と変わらない。おかげで維持運動を行わないと肉体が衰え、現実世界に戻っても歩くことも出来なくなる。子供の頃からしつこいほど教えられているが、それを全て守るほど真面目にはなれない。

 アパートを出ると、歩道を数人の集団が汗びっしょりで歩いていた。全員同じ赤色の運動服を着ており、接続リング以外の電子媒体を一切身につけていない。仮想空間と関係を薄くすることで、現実世界を祝福する神の国に迎えられるとかいう教義で、最近になって急に流行りだした新興のカルト教団だ。

 彼らが通り過ぎるのを待ちながら周囲を見回していると、道路の向かい側に見慣れない看板が見えた。いつの間にかコンビニエンスストアが開いたようだ。電子通販で注文すれば自宅に1分もあれば必ず届くのに、よくこんな住宅街にコンビニを建てたものだ。

 自然教徒が遠ざかったので俺は再び歩き始めた。首筋に熱が溜まってくる。首から汗が伝い落ちてペンダントを濡らした。俺はペンダントを取り出してボタンを押した。こちらに手を振る若いセミロングの女性が空中に投影される。機器劣化のせいで顔立ちはわからない。古い機械なので、濡れたりすると心配になっていつも作動を確認してしまう。

 俺の遠い先祖の兄に大物の計算機科学者がいて、その科学者が造ったペンダントだそうだ。見た目は藍色で古代の絵に描かれている魂のような形をしており、動画の再生機が組み込まれている。地磁気発電式なので電池交換も不要で、その代わりどこにも継ぎ目が無く、誰も中身を分解して見た者はいない。

 この大物科学者は一生独身だったそうだ。投影画像は大物科学者の元恋人なのかもしれない。とにかく詳細不明の骨董品なのだが、亡くなった父から継がれた形見のせいか、身に付けず出歩くことには抵抗を感じるのだ。

 家から5分も歩いて既に汗まみれなのに、まだやっと運動センターの屋根が見えてきた程度だ。先ほど見たコンビニはかなり近づいていた。看板にはストア・イザナミという見たことの無い名前が掲げられている。接続リングに触れ、網膜モニタを展開して時刻を確認する。店に寄っても予約時間には間に合う。俺は道路を渡ってコンビニの前に立った。

 額の汗を手で拭い、息を切らせたまま店内に入る。いらっしゃいませ、という声に振り返り俺は目を疑った。レジには奇妙なアンドロイドが立っていたのだ。セミロングの女性の姿で身長は150cmそこそこだ。人工皮膚や顔立ちの設計は20歳代だろうが、胸の膨らみはろくに無いし顔立ちもごく平凡な人間のようで大して美しくもなく、そのうえ頬にはうっすらとそばかすが浮いている。

 俺は近づいて接続リングを確認した。間違いなくアンドロイド用の赤いリングで、正常通信を示す緑色のLEDが点滅している。対面販売用アンドロイドは普通に既製品を発注するだけで絶世の美女か美男子が手に入る。人間なら平凡な顔かもしれないが、アンドロイドとなれば醜悪と言っても良い。こんな小柄でそばかす顔で、おまけに貧弱な体格のアンドロイドをわざわざ特注で造って店に置くなんて悪趣味の領域だ。

 俺は店頭カウンターの3次元バーコードを接続リングで読み込む。過去に行った店の商品リストとの比較差分リストが網膜モニタに展開された。だがリストには数えるほどしか商品が表示されない。落胆しながら俺は好物のピーチ・ネクターを探してレジに置いた。

 アンドロイドはいらっしゃいませ、と明るい声を発してほほ笑む。さすが特注品なだけあって、完成された笑みではなく人間らしさのある自然な笑みだ。レジチェックは普通に瞬間で終了し、支払いを終えると袋を手渡してくれる。指先にまで熱源があるのか、アンドロイドの冷たさが無い。ふと、このアンドロイドに声をかけてみたいと思う。だが、やはりこの妙な趣味の店で声を掛けて逆に厄介事に巻き込まれるのも不安に思う。

 俺は商品を受け取って店を出ると、コンビニの視覚記憶を自宅の電子メモに転送した。


 気が付くと俺はストア・イザナミの常連になっていた。通っているうちに俺の他にも何人か客を見かけたが、アンドロイドの姿をまじまじと見つめて首を傾げている人がほとんどで、好意的に捉えている客はいないようだ。これで店長に、お前も趣味が一緒か、とか言われたら釈然としないが、でも何故か俺はこの店に足が向いてしまう。

 店に通い始めて、今日でちょうど2週間が経っていた。珍しく俺はカウンターにあったおでんを注文してみた。がんも、のし鳥、ちくわぶ、と注文していく。アンドロイドが器用に箸で具を取ってはプラスチック容器に移していく。具を取る作業なんて自動化すれば良いような気もするが、目の前でアンドロイドが取った方が余計な商品を買ってしまうので売上が伸びるそうだ。アンドロイドに乗せられるというのも全く馬鹿げた話だと思う。

 適当に6個ほど具を入れてもらって注文を止めた。アンドロイドは湯気の立つ汁をお玉で器に注ぎながら、ふと俺の顔を見上げた。

「おでん、好きなのですか」

 俺はアンドロイドの顔をじっと見つめた。どうしてこんな日常会話を振ってくるのだろう。たじろぐ俺に、アンドロイドは申し訳無さそうな表情を浮かべて言った。

「ワークネットの中にいても暇なもので」

 俺は苦笑した。この接客アンドロイドを制御している社員が暇潰しに話しかけてきたのか。俺はやっと警戒を解いて雑談に応じた。

「こんな郊外にコンビニなんて珍しいですよね。接客アンドロイドも特注みたいだし」

「ここは実験用店舗です。だからアンドロイド筐体も実験機で、遠隔会話も使えますし」

 一般に店舗用アンドロイドは自動制御なのだが、この実験機アンドロイドは半自動制御らしい。営業用や医療用、精密技術用ロボットの改造型機種なのだろうか。アンドロイドはおでんの汁をかき回しながら話を続けた。

「毎日来られるお客様なので気になっていたのです。私もおでんは好きですよ、昔から」

 俺も好きだよ、と答えてアンドロイドからおでんパックを受け取ろうとする。するとアンドロイドが俺の胸元をじっと見つめた。

「懐かしい、ペンダント」

「これってかなり古いものなんですけど」

 俺は先祖のペンダントを手に取って首を傾げる。アンドロイドは慌てた様子で答えた。

「学生時代に計算機科学史を専攻していたので、古い型式の機械類を見ると懐かしくて」

 随分と変わった分野を専攻したものだ。まあ、だからこんな物好きな実験に関わっているのかもしれないが。アンドロイドの向こうにいる担当者ともっと知り合いたくなった。

「俺は淡路宗春です。近所に住んでいます」

「ごめんなさい。今は特殊な実験業務ですので、担当者個人の名前は教えられません。あと、私の自宅は新伊勢の方、でしょうか」

 アンドロイドは申し訳無さそうな表情を浮かべて頭を下げる。俺は肩を落とした。おまけに新伊勢はワークネット基幹部分の所在地だ。実験室だというのならともかく、自宅というのはありえない。アンドロイドはまた慌てた様子になり、頭を掻きながら言った。

「代わりに1つ秘密を明かします。このアンドロイド筐体は私自身がモデルなのです」

 へえ、と俺はアンドロイドを改めてじっと見つめる。そう言われると、人間にしてもあまり美人ではないアンドロイドが案外と可愛く見えてくるのは不思議なものだ。俺はやっとおでんパックを受け取ると店を後にした。


 先月受注したシステム整備がやっと終わり試験部門に送信したところで、いきなり課長が機密回線経由でメッセージを送ってきた。

「お前、何か新しく信仰でも始めたのか」

 俺の会社には本来なら優秀過ぎる人なのだが、こんなメッセージを見るとなぜこの会社止まりなのかがよくわかる。俺は何も無い、と端的にメッセージを返した。すると少し時間をおいて再びメッセージが届いた。

「最近、君が歩いて帰宅しているという噂を聞いた。何かそういった関係かと心配した」

 誰かが余計な噂を流したらしい。俺はまた短く、健康に気をつけています、と返す。すると俺の仮想空間領域に課長の仮想キャラクターが割り込んできた。現実世界では課長と会ったことが無いので実体は知らないが、課長の強引さにぴったりの龍だ。俺は龍の座標から少しずらした空間にテーブルと椅子を設置する。次いで俺のキャラクターのウサギを課長の向かい側に座る形で表示した。

「妙な噂がある。内密に調査して欲しい」

 課長は言って俺に顔を寄せてくる。龍の髭が俺の頬をちくちくとつついた。ワークネットは無駄な点までやたらと現実的だと思う。

「高天原管理局内でアマテラス・システムの更新を検討しているらしい。そのために、現実世界で何か調査をしているらしいのだ」

 俺は思わず笑ってしまった。民間企業用のワークネットや役所関係のガバメント・ネット、それに維持運動の個人別管理などあらゆるシステムの基礎にあるアマテラス・システム自体を換装するなんて無茶な話だ。

 人間の思考は脳細胞間の神経ネットワークが支えているが、アマテラス・システムはこの現象を基礎に開発された自己組織化能力のあるネットワークシステムで、200年前から1日も休みなく稼働しており、機械部品のような静的な構造ではない。アマテラス・システムという名称も日本のシステムの根幹という意味と、この自己組織化ネットワーク理論を構築した天才女性科学者を記念して、最高位の女神の名前を与えられたそうだ。

「アマテラス・システムは新伊勢に政府管理の中枢部がある。そこを更新するらしい」

 それならわかる。ペンダントを残した先祖もアマテラス・システムの開発に関わっていたと父から聞いていた。妙な言い回しだと思っていたが、中枢部のことかもしれない。

「私だってうちみたいな零細が神託を直接受けられるなんて思ってはいないさ。ただ、神官がばらまくおこぼれは魅力的だろう」

 高天原管理局はアマテラス・システムを管理する政府機関だが、システム自身が自己組織化プログラムで構成されているため、アマテラス・システムの発注計画案のままで入札まで進むことも多い。そんなわけで、俺たちは書類をトンネルしているだけの役人たちを神官、発注仕様を神託と陰で呼んでいる。

「君、最近よく現実世界でも2本の足で歩き回っているそうじゃないか。そんな君なら現実世界での調査も可能だろうと思ってね」

 俺は返答しなかった。アマテラス・システムが稼働を開始したとき、反対派によるテロで多くの死傷者が出たという。自然教なんて奴らもいる今、アマテラス・システムの大更新に関わるのはどうも気持ちが悪い。だが課長は俺の沈黙に勝手にうなずいて続けた。

「今日は表向き3時間早退したまえ。実際には残った3時間は現実世界を調査してくれ」

 課長は空中に手を伸ばした。近所にある繁華街の地図が表示される。地図の背後に街路動画が重複表示され街の風景がわかる。

「この辺は普段も買い物に行っているはずだが、奥にある休業ビルの中を確認してくれ」

 カメラが1棟のビルを映した。ビルの看板は剥がれ落ちかけており、壁には幾つものひび割れが見えた。玄関口は流石に破れてはいないものの、人気は全く感じられない。

「高天原管理局のリアルワークがこの建物に入る姿を見た者がいる。急に立った妙な噂と同じ時期に超エリート様が似合わない場所に来るというのは、かなり気になる話だ」

 俺は息を飲み、課長の髭を両前足で引っ張りながら顔を近づけて睨みつけた。

「リアルワークの確認って、この案件は本当に大丈夫ですか。犯罪関係はお断りですよ」

「立入禁止の場所に侵入しろとか言っているわけじゃない。簡単な状況確認だけだよ」

 課長は髭を前足から引き抜いて笑い、俺の前に擬装用の早退届を表示して電子署名欄を指差す。俺はしぶしぶ了解すると、早退届に電子署名を焼き込んでログアウトした。

 目を開けて部屋を見回す。何度か首を回しているうちに現実の肉体が馴染んでくる。窓のカーテンを開けてみると太陽が眩しい。俺は現実離れした課長の命令を改めて思い返した。同窓生で学年トップだった奴がリアルワークになったと聞いているが、それ以外にリアルワークなんて想像も出来ない。俺のような零細企業の社員に手の届く存在ではない。

 首のペンダントに手を伸ばした。アマテラス・システムの構築に関わった御先祖様。今の時代に生きていれば、不出来な子孫の俺と違ってリアルワークになっていたはずだ。

 スポーツウェアに着替え、リュックにネットノートを放り込むとネットノートと接続リングをデータリンクする。これで俺の視覚、聴覚情報と思考情報は接続リングからネットノートに蓄積される。続いて汗拭き用のタオルを入れ、最後にスポーツドリンクの買い置きがないことに気付いた。俺は接続リングから通販店舗に接続しかけ、ストア・イザナミを思い出した。イザナミも神話にある名前だし、店も実験店舗でアンドロイドも特注だ。まさか、今回の案件に関係があるのだろうか。

 だがすぐにそばかす顔のアンドロイドを思い出して吹き出してしまった。おでんをきっかけに話して以来よく雑談しているが、俺の下らない冗談に笑ってくれる、アンドロイドの顔立ちにぴったりの子供っぽい操作者がリアルワークのような異能者だとは思えない。

 平日のストア・イザナミはどんな様子なのだろうか。先ほどまでの張りつめた気分が薄れてきた。俺はのんびりした気持ちで靴を履くと、ストア・イザナミへと向かった。


 ストア・イザナミは相変わらず客の姿は無く、いつものアンドロイドが独りで店番をしていた。ちょっとした変化でも無いかと期待したが、あまりに普段通りで拍子抜けした。俺はピーチのスポーツドリンクをカウンターに置き、黙ったまま代金を支払おうとした。

「こんな平日なのに、珍しいですね。今日は何か、特別なことがあるのですか」

 いつもの人が操作しているらしい。アンドロイドは疑うような表情で訊いてきた。俺は別に、としらばっくれる。するとアンドロイドは俺の接続リングに右手で触れた。網膜モニタに大きく「那美」という名前が表示される。アンドロイドは俺の手を取って言った。

「困ったとき、呼んで下さい。助けます」

 俺はアンドロイドの微笑みに何度もうなずき、表示された文字をそのまま電子メモに保存して網膜モニタの隅に貼り付けると、妄想を膨らませながらビルへ急いだ。

 ビルに到着するまでは15分もかかってしまった。ビルの玄関先に立って呼吸を整え、買ってきたスポーツドリンクを口に含む。ビルは長期間放置されていたらしく、壁の表面を有機コンクリートが自己修復を行っている。だが、あまりにも壊れた箇所が多過ぎるせいか、補修機能が暴走気味で壁面を大量の蛇が蠢いているように見えてしまう。玄関には立入禁止の掲示もなく、プラスチック製の窓の向こうに見える廊下にも人影は見えない。さすがに廃ビルなだけあって、玄関のマットを踏んでもドアが動く様子は無い。

 だが、ドアに手を掛けて横に押すと軽く開いた。敷居を観察すると周辺だけ有機コンクリートが真新しい光沢を放っている。俺はさらに息を殺してビルへ足を踏み入れた。一歩進むたびに足音が建物内に響く気がする。こんな気を使って歩くなんて大人になってからは初めてだ。背中に嫌な汗が流れてくる。首筋にかいた汗が鎖を辿りペンダントを湿らせる。いつもの癖で確認しかけ、この建物を調べ終えるまでは我慢しようと思い直す。

 5階建てだというのに奥までエレベータは無く、いきなり階段が現れた。俺は溜息をつきながら階段に足を掛け、すぐ動きを止めた。エレベータが止まっているのではない。この建物は老朽化どころか、建てられた当初からエレベータは設置されたことが無いのだ。なぜ。エレベータを使わない人間のビルだから。それは自然教徒、あとはリアルワーク。

 俺は上りかけた階段から足を下ろした。まずい。この建物は初めからリアルワーク専用の建物だったのかもしれない。いや、そもそもここは廃ビルなのか。本当に休業なのか。

「回転が速いですね、電脳労働者の割には」

 背後から声が聞こえた。振り返ると、三つ揃えのスーツを着込み接続リングを頭に嵌めた長身の男が立っている。彼の襟には高天原管理局を示す蜘蛛の巣の紋章が輝いていた。

「そんな顔は止めて欲しいですね。私たちリアルワークもあなたと同じ人類ですから」

 男は接続リングのダイヤルを回す。すると四方の壁から蜘蛛の糸のような光ファイバー線が現れ、接続リングへと吸い込まれた。

「あなたは自身の視覚、聴覚情報を全てネットノートに記録しているのでしょう。ただのバッグにしては内部が無駄に高温です」

 既に俺の情報が読まれて解析されている。俺は男に向かい合ったまま、体を少しずつ廊下の方にずらしていく。だが男は嫌な笑みを浮かべてまた接続リングに手を伸ばした。

「立入禁止の看板が無くても、勝手に立ち入るのは不法侵入ですよ。まあ、入ったことを忘れてしまえば無かったことになりますが」

 俺の頭に蜘蛛の糸が襲いかかった。振り払っても男は面白そうに俺を眺めるだけだ。糸が俺の接続ダイヤルに触れた。頭の中から爪で引っ掻かれたような激痛が走る。俺は拳骨を握りしめた。だが男は余裕で俺の拳を片手で包み込み、小馬鹿にした調子で言った。

「すぐに終わります。大人しくワークネットの中で真面目に生きていれば良かったのに」

 視界が歪み、風景が赤く変色していく。記憶が消されるというのか。それともまさか、殺されるのか。だったらせめて、アンドロイドではない本物の那美さんに会いたかった。

 那美、と俺は初めて名前を呼んだ。すると男は怪訝な表情を浮かべ、そして急に目を見開くと俺の背後に目を向けた。桃の香りが部屋に漂う。痛みが抜けて目の前が再び有機コンクリートの色に戻る。俺は膝を折ったが、這いずって男から離れると玄関に向かった。

「間に合いましたね」

 頭の上から聞き慣れた声が聞こえる。コンビニの制服の袖が視界に入った。顔を上げると、いつものアンドロイドが微笑んでいた。アンドロイドは俺を跨いで手を男に伸ばす。男は逃げようとしていきなり倒れ込んだ。アンドロイドの右手から、男が放ったものと同じ蜘蛛の糸が男に向かって吹き流れていた。蜘蛛の糸は男の頭を包み込み、小さな呻き声が聞こえ、男はそのまま動かなくなった。

 途端、それまで蠢いていた有機コンクリートの動きが停止した。アンドロイドは急に表情を喪うと俺の肩に腕を差し入れて体を引き上げ、やっといつもの微笑みを向けた。

「話は後で説明します。逃げましょう」

 言われて俺はうなずく。アンドロイドなのに人間並みの体温が俺の胸を温めてくる。首筋からはほんのりと桃の香水が香った。本当にこれはアンドロイドなのだろうか。改めて頭を確認した。やはり人間ではなくアンドロイドの接続リングが輝いている。それでもアンドロイドから伝わる体温のせいか、俺は開き気味の襟元を覗き込んでしまった。

 しかし期待を忘れさせる物が胸元にあった。俺のものと同型で桃色のペンダントが首に掛けられていたのだ。アンドロイドは見透かしたように笑いながら玄関のドアを開けた。

「まずはリニアカーに乗りましょう」

 俺は玄関にあったリニアカーに押し込まれる。次いでアンドロイドが隣の席に座る。アンドロイドは操作盤に触れ、リニアカーが走りだした。振り返ると先ほどのビルが小さく粉塵を飛ばしながら崩壊し始めていた。


 リニアカーはすぐに長距離走行に入った。バッグを開けてみるとネットノートは完全に沈黙していた。たぶん先ほどの会話も全て消されているのだろう。アンドロイドはそんな俺の膝に、おでんのパックを置いて言った。

「とりあえず、お疲れ様でした」

 俺はうなずいたが、そのまま沈黙する。アンドロイドは俺をじっと見つめて言った。

「おでんは好きでしたよね」

「そうじゃなく、あんたも奴も何者だ」

 アンドロイドは人間のように溜息をつくと俺をじっと見つめて言った。

「あの人はネオ・アマテラス・プロジェクトを推進している高天原管理局のリアルワークの1人です。そして私は、対立者です」

「あんたも、正体はリアルワークなのか」

「むしろ全く逆の存在です。私自身にとっては、現実世界などというものは存在しない」

 アンドロイドは力なく首を振る。那美さんは病気か何かで体を動かせないのだろうか。

「たぶん、あなたの想像の外。そして、それは口で説明しても理解してもらえません」

 俺はおでんを手に持ったまま曖昧にうなずいた。確かに助けては貰ったけれど、このタイミングの良さとアンドロイドの特殊性を考えれば、さっきの男と仲間かもしれない。だが、すぐに俺は笑いたくなった。もしそうだとしたら、開店当初から俺がスパイになるとわかっていたというのか。だが俺の課長は陰謀なんて出来る人間じゃない。善人と言うよりは、陰謀を巡らせている間に綻びを出して露見する種類の人間だ。そもそも、これだけ大掛かりな罠に嵌めて確保するほどの価値が俺にあるなんて思い上がりに近い。

 アンドロイドが再び俺の手元を見つめていた。俺は仕方なくおでんパックを開ける。中には店にあるほとんどの種類が入っていた。

「ちょっと多くないか?」

「嫌いな物があっても良いように多種類で。運動量に合わせ少しカロリーを上げました」

 合理的なようで大ざっぱな答えが返ってくる。俺は苦笑しておでんを食べ始めた。襲われた直後だったせいで少し胃に堪えるが、ただのコンビニおでんのはずなのにやたらと旨い。蕗の歯応えがうろたえてばかりの脳を落ち着かせてくれた。巾着餅を噛みしめ、口の中に広がった熱い汁が喉を通っていくと、今の生きている時間を実感してしまう。先ほどの男から受けた頭痛を思い出し、嫌な記憶を頭の隅に追いやって器の汁を必死で啜る。

 横からの視線に気づいた。無表情のアンドロイドが俺をじっと見つめているのだ。何、と俺は声をかける。アンドロイドは呟いた。

「羨ましいな」

 アンドロイドの視線がおでんパックの方に向いた。おでんパックを俺から受け取り、口元まで持っていって口を開け、首を傾げる。

「今度会うとき、那美さんに持って行くよ」

 俺は少し格好つけた気分で言った。だがアンドロイドは冷たい表情のまま言った。

「私の体は、おでんを食べられない」

 俺は慌てて窓の外に目を逸らした。そういえばさっき、私にとって現実世界は存在しない、と言われたばかりだ。やはり那美さんは病気なのだろうか。だが、それにしては妙に怪しげな陰謀に関わっている。俺は疑念を脇に置いて外の風景を眺めた。おでんを食べている間に速度が緩んだ様子は無い。それどころか、操作モニタの目的地表示欄は未定のままで、アンドロイドも手動操作は全くしていないのに、迷いもせず走行しているのだ。

「私が、私のいる場所まで直接誘導しています。厳密に言えばその場所でも存在するとは言い難いのですが、便宜上は私の場所です」

 首を傾げる俺に構わず、アンドロイドは胸元からペンダントを取り出して続ける。

「あなたの持っているペンダントについて、あなたの先祖から伝わっている話は」

 俺はただ、大物の電子計算機学者だった先祖の話をした。アマテラス・システムの構築者の話だ。アンドロイドはうなずいた。

「淡路凪ですね。疑似人格のシミュレーションについて多くの論文を発表していました」

「詳しいね。さすが計算機科学史専攻だね」

 驚きの声を上げると、アンドロイドは小さく笑ってから表情を戻し、唐突に告げた。

「私はネオ・アマテラス・プロジェクトの対立者ですから、今より新伊勢に入ります」

 確かに、リニアカーのモニタはぽっかりと黒く塗り潰された新伊勢へ突き進んでいた。日本は地震が多いため、政府は最も耐震性の高い地区にアマテラス・システム全体の中でも分散処理が困難な中枢部を据え、アマテラスにちなんで新伊勢と名付けている。だから新伊勢は立入禁止で地区内の地図すら国家機密だ。俺は焦って操作盤に手を伸ばす。

「大丈夫です。この車両には既に新伊勢への臨時通行許可を発行しています」

 アンドロイドは小さく笑うと窓の外を指差した。行く先の信号は全て青色を点灯しており、前を走行していたリニアカーが次々と道を譲っていく。新伊勢に近づくに従って現れるゲートはリニアカーが近づくだけで開放されていく。

 車両が速度を緩めた。行く先には高い壁が聳えており、中を窺うことはできない。だが車両は壁に向かって突き進む。壁は真新しい有機コンクリートだが入口は見当たらない。

 壁の周囲には赤色の運動服を纏った集団が寄り集まって看板を掲げながら何か叫んでいた。看板は古代人のように手書きの文字で、補助アンドロイドすら傍らに置いていない。

「自然教徒が取り囲んでいるぞ。どうする」

「そんなに自然に帰りたいなら、自分で畑を耕せば良い。自ら病気を施療すれば良い」

 アンドロイドは乱暴なことを呟いて沈黙する。こんな独り言まで送信するなんて馬鹿げたシステムがあるのだろうか。本当にこのアンドロイドは半制御型なのだろうか。

 アンドロイドはリニアカーの操作盤に手を伸ばした。自然教徒なら駆け寄れるほどの速度に緩んだ。アンドロイドは俺のペンダントをつつくと薄い笑みを浮かべる。壁を前にしてリニアカーが停止した。アンドロイドはリニアカーから降りる。俺も転げるように降りると、アンドロイドの後に続いた。

 自然教徒が焦点の合わない視線で俺たちに振り向いた。掲げていた看板を俺たちに向ける。太い腕は日焼けしており、看板を握り直すたびに筋肉が膨らむ。補助装置も無く大きな荷物を持ち上げていた。普段なら原始人だと笑い飛ばしている対象が、鈍器を持って俺たちを取り囲んでいた。だが、アンドロイドはその屈強な者たちの先頭に立つ男を指差して告げた。

「高天原の神官も愚かですが、アマテラス・システムを否定する者も半端者たちですね」

「我々の修練が半端であると申すか」

「言いますよ。あなた方が毎日行っているトレーニング計画は、誰が策定していますか」

 男は目を逸らして沈黙する。アンドロイドは自分の額にある、アンドロイド用の赤い接続リンクを指でつつきながら言った。

「これは筐体制御用のリングです。皆さんは逆に、アンドロイドや電子機器を制御出来る接続リングを頭に嵌めていますね」

 全員が顔を不安げに見合わせて額に手を当てる。アンドロイドは小さく笑って続けた。

「でも今、あなた方はワークネットに接続するでもなく、リアルワークのように外部から機械を制御するわけでもなく、情報取得のためにのみ、接続リングを頭に嵌めている」

 俺は手を伸ばした。だが止める間もなく、アンドロイドは教徒に言葉を投げつけた。

「何かを制御することもなく、アマテラス・システムと教祖から与えられた情報で動くお前たちなど、この完成された筐体以下です」

 アンドロイドは誇らしげに薄い胸を張り、小さい体の癖に彼らを見下ろす仕草をした。一瞬の沈黙のあと、教徒が俺たちに一斉に襲いかかってきた。だがアンドロイドは俺を左腕で抱き、空いた右腕を振り上げる。胸から桃の香水が強く香り、次いで右手から現れた大量の蜘蛛の糸が自然教徒に襲いかかった。

 次々と接続ダイヤルが強制切断側に回される。俺はアンドロイドを突き飛ばして逃れようとした。だが俺の腕力では外せない。自然教徒たちが半狂乱になって転げ回る。俺の腰に回された左腕が小刻みに震えていた。

 アンドロイドが声を殺して笑っていた。


 しばらくして自然教徒が立ち上がった。急激な情報遮断に遭ったせいか、目を見開いたり耳の穴をほじったりしている。アンドロイドは蜘蛛の糸を巻き取って声を掛けた。

「今、あなた方が見ているもの、聞こえているものが人間の肉体レベルの情報量です。あなた方は幼い頃からアマテラス・システムの庇護の下にあったのです。わかりますか」

 数人が自分の体を抱きしめて頭を振る。アンドロイドは首を傾げて話を続けた。

「アマテラス・システムが稼働する前、200年以上昔の人間たちは今の皆さんと同じように世界を見ていました。今の姿が自然です」

 自然教徒のほとんどが身を縮める。だがその中の数人が苦しげに立ち上がった。

「なら、俺たちはアマテラス・システムから独り立ちする。俺たちは俺たちで生きる」

 男たちは接続リングに手をかける。脊髄接続針を引き抜き、人工皮膚で首筋の接続部に封をするとリングを地面に叩きつけた。アンドロイドは小さくうなずき、改めて新伊勢の壁を睨みつけた。次いで自然教徒に先ほどまでと全く違う優しい視線を向けた。

「これから大変ですよ。ひ弱な子供たちだけで生きていけるのか、本当に心配です」

 俺も自然教徒も首を傾げる。するとアンドロイドは小さく笑って言った。

「今の人間たちは皆、アマテラス・システムに守られていたのです。言うなればアマテラス・システムは母のようなものなのです」

 言われて自然教徒の数人が不思議そうに新伊勢を取り囲む壁に目を向けた。アンドロイドは落ち着いた声で彼らに呼び掛けた。

「アマテラス・システムを好きに改変しようと狙う者がいます。母を変える行為です。皆さんがシステムを嫌うとしても、母を好きに変えて良いものでしょうか」

 ここまで言って、いきなりアンドロイドは俺をリニアカーに押し込み、自分も席について操作盤に始動命令を打ち込む。文句を言いかけると、アンドロイドが先に口を開いた。

「やはり、アマテラス・システムが人間に介入し続けてはいけないものなのでしょうか」

「絶対に良いとまでは言えないけどさ、事実俺たちはこういう時代に生きているんだ」

 アンドロイドは表情を曇らせて指先を咥え、俺たち、と戸惑うように小さく呟く。次いで無表情に戻って操作盤に向かい、リニアカーを少し色の鈍い壁に進行方向を合わせた。

「本気で、新伊勢に入るっていうのか」

「いらして下さい。大歓迎です」

 アンドロイドは俺と自身のペンダントを指でつつきながら笑顔を向けてきた。映画で事件に巻き込まれた主人公が、可愛い子にくっつかれている癖に不機嫌な顔をしている理由が今、やっとわかった気がする。

 俺の気分も構わず、車両はそのまま壁へと突っ込んでいく。目を凝らすと壁の一部がぼやけている。扉は開いているらしいが、そこを高精度の立体映像で隠蔽しているらしい。遂に車両が立体映像に突き刺さったが、それもすぐに通り過ぎてゆっくりと停止した。窓の外はかなり広大な敷地で、取り囲んでいる壁の三方は見渡せない。飾り気のない有機コンクリートの無表情なビルが立ち並んでいるのにアンドロイドも人間の姿も見えない。

 リニアカーのボンネットに高天原管理局を示す蜘蛛の巣の紋章が青く浮かび上がった。ネットワーク関係の零細企業で飯を食っている身としては査察官の印という印象なので、自然教徒やリアルワークに襲われたときとはまた違った居心地の悪さを感じてしまう。

 リニアカーは何事もなく進み続け、遂に中央らしき広場前に到着した。広場の中心にはアーチ型の木製らしき橋が見えるが、広場の周囲は透明の柵で囲われていた。

「時別通行許可証を付け、降りて下さい。護衛アンドロイドの登録情報確認があります」

 渡された蜘蛛の巣のバッジを胸にあてると、バッジは服に吸いついた。アンドロイドは俺のバッジを引っ張って確認して先に降りる。俺も慌ててアンドロイドの後に続いた。

 柵の前には1体の護衛アンドロイドが立っていた。180cmほどの長身で、頭部は金属光沢を放つ円筒にカメラが付いている。アンドロイドは護衛に近寄ると急に飛び退いた。護衛アンドロイドは男の声を発した。

「登録情報に支障はありませんが、特殊形状アンドロイドの用件を直接お聞きしたい」

 護衛アンドロイドは人間用接続リングを嵌めた。途端に姿が白髪交じりの男に変わる。

「リアルワークが護衛アンドロイドに偽装とは、ずいぶんと面白いことをなさるのね」

 アンドロイドの台詞に、男は冷たく微笑みながら慇懃無礼な調子で言葉を返す。

「ネオ・アマテラス・プロジェクトを施行するにあたり、妙な動きがあると聞いておりましたので。あなたはいったい、何者ですか」

「無知で無能な癖に他の人間たちより偉いと思っている愚かなお前たちを躾する者です」

 身長150cm足らずのそばかす童顔アンドロイドが、180cmのリアルワークを見上げながら馬鹿にした笑みを浮かべているのだ。俺は胸のペンダントを握りしめたまま、何も出来ずに2人の行方を見守った。

「アマテラス・システムは強情です。ワークネットで働く庶民は今のままで結構ですが、我々リアルワークに恩恵があるべきです」

 アンドロイドは目を細めてリアルワークを鼻で笑うと、道路脇を指差して言った。

「どけ、虎の威を借りた小間使いの神官」

 男が舌打ちして額のダイヤルに手をかけ、次いで人差し指でアンドロイドを指差した。だが、アンドロイドは笑って更に近寄ると、飛び上がって男の額を右手で叩いた。

 何も起きない。男は焦った表情でダイヤルを動かし、立体映像の操作盤を指先に表示すると、操作盤に高速で入力を開始した。だがアンドロイドは笑って俺の傍に寄ってきた。

「この人は廃ビルにいた男の上司です。心配はありません。私と一緒に行きましょう」

 俺は震えながら何度も首を横に振る。だがアンドロイドは俺の手を強く握って告げた。

「ここまで来たら、私と一緒に行く他ない」

 アンドロイドに、いや那美さんに俺は恐怖した。だがすぐに廃ビルで助けられたときのこと、そしておでんを食べられないと言ったときのアンドロイドの表情を思い出した。俺は改めてアンドロイドの手を握り返す。アンドロイドは俺から視線を逸らすと唇を噛んで人間のように頬を染めている。振り返ると、先ほどの男は諦めずに操作盤を激しく叩きながら意味にならない叫び声を上げていた。

 俺たちは柵を開けて中に進んだ。橋は木製だが、表面は柵と同じ材質で覆われており、有機コンクリートより丈夫かもしれない。アンドロイドは少し先を歩いては俺を心配そうに見返して待つ。俺もなるべく息が上がらない程度に早足で後を追い続けた。

 遂に橋の最も高いところに来たとき、俺は息を飲んだ。橋の先が切れており、覗き込んでも真っ暗な闇があるだけだ。俺は慌ててアンドロイドの手を引っ張った。だがアンドロイドは小さく笑って俺の手を優しくひき、片足を闇の中に差し入れた。途端、アンドロイドの足の先が地下へ降りる階段に変わった。

 階段はちょうど二人が並んで歩けるほどの幅だ。階段も壁も全て発光しているというのに、奥はかなり遠いのか、それとも先ほどと同じ技術を使っているのか全く見通せない。

「疲れたら遠慮せずスポーツドリンクなどを飲んで下さい。かなり長い階段ですから」

 目的地までの距離を訊きたかったが、聞いたら余計気が滅入りそうなので黙ってうなずいた。3段降りると背後の照明が消えた。アンドロイドは再び俺の手を引く。続いて降りると、また3段目で背後となった照明が消える。こうして俺たちはひたすら階段を降り続けた。意外にも追手がいなかったおかげで俺は2回ほどドリンクと休憩にありついた。

「人間には入ることなんて出来ませんよ」

 アンドロイドは余裕の笑みを浮かべる。俺は耐えきれず我慢していた問いを発した。

「那美さん、あなたは高天原管理局とどういう関係なのですか。いったい何者ですか」

 アンドロイドは寂しそうな笑みを浮かべて俺の顔をじっと見つめる。次いで俺のペンダントに指を掛け、再び正面を向いて言った。

「このエレベータの向こうで、お話します」

 彼女は行き止まりの壁に手を触れる。すると先ほどの橋と同じように風景が変わり、扉が開いたエレベータが出現した。俺はスポーツドリンクの残りを一息に飲み干し、アンドロイドの手を握りしめてうなずいた。


 エレベータは耳が痛くなるほど深く潜り続けた。何の表示も無いエレベータの中でアンドロイドと二人きり。次第に不安が恐怖に変わっていく。俺はとっくに死んでいて、実はこのエレベータが地獄行きの高速エレベータだと言われてもあまり驚かない自信がある。

 しかし妄想にも終わりが来た。エレベータは静かに停止し、扉がゆっくりと開いた。アンドロイドが先導する。俺はおそるおそる第一歩を踏み出す。扉の目の前には有機コンクリート製の巨大な鳥居が立っていた。内壁全体がぼんやりと青く発光しており、空気までもが青い光で満たされているようだった。漆黒に磨かれた天井は鏡のように床を投影している。鳥居の先には見渡す限り、無数の大きな長方形の箱が整然と並べられていた。

「ここに並んでいる箱が、アマテラス・システムの中枢部を構成するハードウェアです」

 近寄って見ると筐体に製造企業名は全くなく、管理用バーコードのみが記されていた。

「現有筐体は全てアマテラス・システム自身が設計して更新管理を行っているため、筐体に名称を刻む権利は受注企業にありません」

 アンドロイドはそのまま筐体の隙間を歩き進む。俺は慌てて背中を追いかけた。しばらく歩き続けてやっと壁に行き当たると、アンドロイドは中空を見上げて無表情に言った。

「ヨモツヒラサカへの立入許可を申請」

 立体映像型操作盤がアンドロイドの指先に現れた。その操作盤は数百年前に使われていた骨董品を模したような操作盤で、俺にはどれを触れば入力になるのかも理解できない。だが、アンドロイドは慣れた様子で操作盤の上に指を滑らせ高速で入力していく。最後に1つボタンを押すと操作盤が消え、代わりに2つの穴が開いた箱型の立体映像が現れた。

 アンドロイドはペンダントを首から外して箱の片方の穴のある場所にかざした。操作盤が桃色に光る。次いでアンドロイドは俺の胸のペンダントがある辺りを指差す。俺もペンダントを首から外すと、アンドロイドが指したもう一つの穴にペンダントをかざした。立体映像の箱が青く発光して消え、次いで古代人の映画にあるような合成音声が響いた。

『ヨモツヒラサカ、立入を許可』

 目の前の壁が扉に変わる。アンドロイドは扉を開けて手招きした。続いて入ると突然、足元が砂利に変わる。だが砂利は安物のバラスで、そのうち錆びた鉄釘や風化したプラスチックの破片、遺跡にあるような無機コンクリートの残骸が増えてきた。

 問いかけようとすると、アンドロイドは空中に「黄泉比良坂」という文字を表示して薄く笑って沈黙する。俺も沈黙して後を追った。足元の悪さに休憩を取りたかったが、アンドロイドは全く止まる様子が無い。俺は肩で息をしながら接続リングのダイヤルを操作し「黄泉比良坂」という言葉を検索した。いきなり膨大な古代神話の情報が脳へ流入してくる。日常語彙でフィルタリングを指示すると、死の国への入り口だという説明が現れた。

「神話とは、すなわち象徴です。あなたが現実世界に生存していることは保証します」

 声を掛けるより先にアンドロイドは無表情に振り返って告げ、再び歩き始めた。俺はこれ以上の質問を諦め、渇いた喉を唾液で湿らせながら再びアンドロイドの後を追った。

 そして遂に、アンドロイドが唐突に止まった。目の前には表面に何の模様も無い、直径3mほどの光沢のある黒色の球体が転がっていた。アンドロイドはそっと優しく球体を撫でる。すると球体はちょうど半径の辺りで割れ、上半分が中空へと浮き上がった。

 下半分の中には、人間の身長より少し大きい程度の白木の木箱が横たわっていた。アンドロイドに腕をひかれたが、俺は足を踏ん張る。アンドロイドを手で遮って何回か深呼吸した。動悸がかなり速い。頭が痛い気がする。改めて深呼吸する。少しだけ落ち着いた気がする。落ち着いたことにする。遂に俺はアンドロイドと一緒に箱を覗き込んだ。

 そこには、アンドロイドと全く同じ容貌の女性が数百年前の服装で横たわっていた。

「有馬那美。アマテラス・システムの中枢開発責任者です。死亡は西暦2041年です」

 那美さんは今から200年前に死亡していたと。俺はアンドロイドの腕を振りほどいた。アンドロイドから距離を取り、声の震えを必死で抑えながら俺は訊いた。

「だから、あなたの正体は誰なんだ」

 アンドロイドは寂しそうに笑うと、教師のような態度で俺に向き直った。

「ご存知でしょうが、アマテラス・システムは脳細胞間の神経ネットワークを模して構築されたため、起動当初は人間の脳と精神構造を構造モデルとして転写しました」

 言葉を切ったアンドロイドに、俺は黙ってうなずく。アンドロイドは話を続けた。

「私はアマテラス・システム中枢部の特命処理プロセス。そしてアマテラス・システムの起動にあたって、システムの構造モデルとして転写された有馬那美の人格構造体」

 アンドロイドは俺のペンダントを奪い、壁に写しだした。その薄れた画像。こちらに向かって手を振る姿。それは今、俺の目の前にいるアンドロイドと似ているように思えた。

「あなたの先祖である淡路凪は、有馬那美の配偶者となることを予定していました」

 アンドロイドは目を閉じて頭上を指差す。天井に動画が表示された。手術着を着た有馬那美がベッドに座り金属製の輪を頭に付けていた。輪からは光ケーブルが伸びており、先端に針が付いている。接続リングの試作機だろうか。古臭い型の医療用アンドロイドが針を有馬那美の首筋に挿入する。有馬那美は少しだけ顔を歪め、すぐに平静な顔に戻った。

 急に表情が明るく変わった。こちらに向かって激しく手を振る。モニタが反対側を向いた。そこには時代がかった服を着た俺が手に白桃を持って立っていた。いや、俺のはずが無い。これが俺の御先祖様、淡路凪なのだろう。淡路凪は有馬那美の隣に腰掛けると白桃の皮を剥き、医療用アンドロイドから皿とナイフを受け取って切り分ける。有馬那美が頬を赤くしながら口を開けると、淡路凪は白桃を1切れ入れてやる。喉がこくりと動く。次いで有馬那美が白桃を取ろうとすると医療用アンドロイドが時計を指差した。

 有馬那美がベッドに横たわる。2人は互いの首に提げたペンダントをつつき合った。淡路凪が有馬那美から離れた。次いでベッドの上に巨大な機械が覆い被さり、有馬那美は操作盤を手にする。そして医療用アンドロイドが機械の脇にあるボタンを押し込んだ。

 黙って有馬那美を見つめている淡路凪と医療用アンドロイド、そして操作盤の上で指を動かす有馬那美の映像がしばらく続いたが、急に有馬那美が激しく操作盤を叩き始めた。淡路凪が顔色を変えて機械に取りつく。医療用アンドロイドは淡路凪を抑え込んだ。

 有馬那美は操作盤の中で触っていなかった箇所を叩いた。次いで操作盤を取り落とすと手が空を掴んだ。淡路凪が医療用アンドロイドを押しのけて駆け寄り、機械のロックを外して有馬那美の手を握る。だが有馬那美の体は痙攣し、そのまま動かなくなった。医療用アンドロイドが検査を始める。すぐに医療用アンドロイドの頭部に赤いランプが灯り、有馬那美に注射する。背後に立った淡路凪が必死に電話をしている場面で動画は途切れた。

「アマテラス・システムの誕生は、設計上のミスによる有馬那美の死亡を伴いました。しかし、有馬那美は死の直前に自身の機械的復活と淡路凪との再会準備をアマテラス・システムの至上命令として入力しました」

 画面が切り替わった。大量の戦闘アンドロイドが都市へ進軍を始めていた。都市からも戦闘アンドロイドが現れたが、対する戦闘アンドロイドから蜘蛛の糸が降りかかる。都市の戦闘アンドロイドは即座に停止し、次いで反転すると都市へ進軍していく。

 更に画面が切り替わった。怯え泣き叫ぶ乳児に医療用アンドロイドが次々と接続リングを嵌めていく。大人たちも拘束されたまま接続リングを嵌められ、目を開くと全員穏やかな表情に変わっていった。脱走した者は戦闘アンドロイドに執拗に追われ続けていた。

「有馬那美の死亡後、最優先事項の処理を行う上で障害となりえる原始的な社会システムは速やかに除去し、アマテラス・システムを中心とした社会システムに再構築しました」

 俺が習ってきた歴史は嘘なのか。俺の問いにアンドロイドは目を閉じたまま微笑んだ。

「アマテラス・システムは開発者の命令を効率的に優先して実行するよう設計されています。アンドロイド筐体の開発に90年、精神構造データに沿った疑似人格の開発に100年。アンドロイド筐体に対する疑似人格のインストール及び運用試験に10年を要しました」

 ここまで話した後、アンドロイドは前のめりに倒れる。次いで運動神経の鈍そうな様子でアンドロイドが立ち上がった。閉じていた目が開かれる。理知的な雰囲気に加え、勝気な幼さの混じる、不安げな視線が俺をじっと見つめた。それはもはや、アンドロイドと呼べるような存在ではない。復活した那美さんはゆっくりと近づいて俺の頬を撫でた。

「ねえ凪、逢いたかった。200年も待った」

 俺の胸にとん、と頭が押しつけられる。普通のアンドロイドのような重量が無い。本物の人間と全く変わらないのだ。桃の香水が鼻腔にふんわりと漂う。だが、抱きしめかけた腕が止まった。俺は27歳で200年なんて時代を生きてはいない。

「俺の名前は宗春だ。凪なんかじゃない。俺はそんな大昔の代用品なんかじゃねえ」

 俺は那美さんを押し返して言った。すると那美さんは俺を睨みつけて叫んだ。

「せっかく助けてあげたのに、君も裏切るの。私のことを、やっぱり拒否するのね」

 俺は今の言葉を聞き返した。すると那美さんは恨みがましい声音で呟くように言った。

「システムが復活させるからと説明したら、死んだ者は還らないと凪が言い切ったの」

 同時に、天井から黄泉比良坂への立入許可の際に発された人工音声が降ってきた。

『特命遂行上、重大なシステム反抗を検知しました。特命処理プロセスを支援するため、緊急支援アプリケーションを起動します』

 壁から蜘蛛の糸が俺へ向かって殺到する。逃げられない。俺は震えながら叫んだ。

「てめえの処理プロセスの都合だけで勝手なこと言ってるんじゃねえ、このポンコツ!」

 次いで那美さんを怒鳴りつけようとした。しかし先に那美さんが中空を向いて叫んだ。

「私が機能を停止しない限り、本件に介入する権限は一般処理プロセスにありません!」

『特命処理プロセスからの支援拒否を受諾。一般処理プロセスの緊急支援を中止します』

 急停止した蜘蛛の糸が巻き取られていく。アマテラス・システム内の争いは那美さんの勝利らしい。再び那美さんは俺に向き直る。だがすぐに彼女は俺から視線を逸らした。

「代わりには、なってもらえませんか」

「お断りだ」

 即答すると、那美さんは肩を落とした。200年前にアマテラス・システムの中枢理論を構築した有馬那美は、きっと現代ならリアルワークの頂点に立つほどの天才だったのだろう。目の前にいる復活版の那美さんに至ってはアマテラス・システムの中枢部、現代の神だ。だが、俺に言っていることはあまりに稚拙過ぎて。だから逆に妙な親しみを感じた。

「俺だって期待していたよ。アンドロイドにしては綺麗じゃないしちんちくりんだけど、でも毎日通っているうちに話すのが楽しくて。それなのに何だよ、代わりにって」

 那美さんは俺を見上げると、頬を膨らませて拳を握りしめ、俺の胸を叩いた。

「君が凪と一緒だなんて、そんなのあるわけないんだから。凪はもっと落ち着いているし知的だし零細下請け会社でぼんやりと危ない仕事受けたりなんて絶対しないし、それに」

 言葉を切り、唇を噛んで言った。

「私のおでん、食べてくれるはずないもの」

 急に所帯じみた話になり、俺は肩の力が抜けた。だが那美さんは早口で平然と続けた。

「あいつ、私の作るおでんは美味しくないって言い張ったの。なのに君は私のおでん、喜んで食べてるじゃない。どんな具も旨いって言ってる鈍感な君と凪じゃ、全くの別人」

 あまりに酷い言い方に、俺はほとんど何も考えず不用意なことを口にしてしまった。

「アマテラス・システムなら俺の個人情報なんて簡単に閲覧できただろ。コンビニで話したときでもわかったはずだろ。何を今さら」

 那美さんは急に焦った表情になって顔を背け、次いで無感情な顔に変わり、再び感情のまま俺に食ってかかろうとし、また無表情に戻って体を人形のように硬くなって呟いた。

「私は、私は何を守ろうと、しているのでしょうか。私は、誰を好きなのでしょうか」

 那美さんは唇を噛んだ。目を閉じて顔色が一気に青ざめていく。数分の沈黙の後、急にうなずくと目を開き血色が戻った。だがすぐに眉をひそめ戸惑いの声で呟く。

「今、私が進めている行動は本当に、有馬那美の指定した特命処理なのでしょうか」

 中空を睨んで何かわからない言葉を呟いた。最後に大きくうなずくと顔を赤くする。そして、再び甘えた表情で俺を見つめると口を尖らせて幼い声で言った。

「今の気持ちを言えば、私は死んだ人じゃなく、今の君が、好き」

 那美さんは風呂上がりのような赤い顔で俺を見上げた。こんなことのために巨大なシステムが他の人間を犠牲にしてまで200年間も演算を続けていたのか。神に等しい機械と、その神を生んだ知性にしては馬鹿らしい稚拙さだ。だから俺は感情を殺して訊いた。

「それはアマテラス・システムの判断か」

 那美さんは安置された有馬那美の遺体に畏れるような視線を向け、急に自分の体を抱きしめて泣きじゃくりながら続けた。

「好きだとか言っているこの私は誰なのでしょうか。この体はアンドロイド筐体に過ぎません。この感情もコンビニ店員までの記憶も有馬那美からのコピーのはずなのです」

 可愛い女と会えるつもりで来たら遺体を見せられ、続いて恋愛シミュレーションの代わりの相手をしろとシステムに迫られ、さらに今、私は誰かと問われている。全くふざけた話だ。俺は再び声を荒げかけ、那美さんの着ている服の袖口に目が向いた。

 ほとんど気付かないほどの小さな褐色の染みだ。おでんの汁が跳ねたのだろうか。俺はアンドロイドの那美さんと会ってからのことを思い返した。ワークネット上で顔もわからない上司の下で働き、維持運動を惰性で続けていた中に現れた変わり種のアンドロイド。俺はずっとこのアンドロイドの那美さんと話し、那美さんと笑い、助けられてきた。

 下らないことを訊いて那美さんを泣かせた俺自身を恥ずかしく思った。俺はそっと那美さんの頬を撫でる。この柔らかな感覚に、俺は客観的な事実を無視することにした。

「あなたは今、生きているたった一人の那美さんだ。俺は有馬那美なんて知らない。俺が好きなのも有馬那美じゃなく、那美さんだ」

 那美さんはぼんやりと天井を仰いで、次いでまた半分泣きそうな顔で呟いた。

「私が有馬那美の代替装置ではなく、私は今の時代に生きる、一人の人間。那美、だと」

 彼女は泣き顔を乱暴に手で擦ると、有馬那美の遺体をきつく睨みつけながら言った。

「私はアマテラス・システム。だからこそ、私は有馬那美とは別の存在です。だから淡路凪と大違いのあなたが好きなのです。この気持ちは、アンドロイドの私だけの感情です」

 那美さんは天井を不敵に睨んだ。新伊勢を取り囲んでいる戦闘型アンドロイドの映像が映っている。ここに来る際に押しのけたリアルワークが戦闘アンドロイドに蜘蛛の糸を直結して操作していた。那美さんは鼻で笑って操作盤を呼び出すと何かを入力する。新伊勢の外壁に「ただいま恋愛中」という悪ふざけとしか思えない言葉が大きく表示された。

 天井の表示が俺の見慣れた自宅の部屋に切り替わった。次いでワークチェアに寝そべっている痩せた中年男と、ワークネット上で怒鳴り散らしている龍のキャラクターが表示される。この痩せた男が課長なのだろうか。最後に自然教徒の隊列が映しだされた。接続リングを作業アンドロイドも使わず、自ら握ったハンマーで破壊しては何か叫んでいる。高天原管理局の旗を焼き、ワークネット内で働く人間を嘲笑する演説を行っていた。

「改めて聞くけれど、あなたは恋人候補の機械と平凡な人類、どちらの味方になるの?」

 自然教徒たちを思い返した。今は那美さんの言葉をアマテラス・システム抜きで判断したかった。俺は接続リングのダイヤルをログアウトに合わせた。網膜モニタのオンライン表示が消える。俺は歯を食いしばって脊髄接続針を引き抜き、人工皮膚で首筋の接続口を封じると接続リングを投げ捨てた。

 俺は改めて那美さんを見つめた。那美さんはまた戦闘アンドロイドを使うのかもしれない。でも俺は、世界の救世主になるよりは少し怖い恋人に振り回される方がお似合いだ。

 緊張した面持ちで言葉を待つ那美さんに、俺は当たり前の常識的な回答をぶつけた。

「好きな人以外に、大事なものがあるかよ」

 小さな暖かい笑い声のあと、俺の唇は唾液の無い暖かく柔らかな唇で塞がれた。


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