猛獣公爵夫人は、今日も愛されたくて必死
王宮の執務室は、石の匂いと、重臣たちの濁った溜息で満ちていた。テーブルを叩く音が乾いた響きを立て、窓の外では夕闇が鉛のように重く垂れ込めている。机の上に散らばる報告書には、モスウッド領の絶望的な数字が並んでいた。
「また一箇所、西の防壁が破られたか……。あの魔獣の巣窟を、誰が抑えるというのだ」
宰相が乾いた唇を舐め、血走った目を机の上の地図に落とし込む。その場にいた者たちの誰もが、喉の奥に小骨を詰まらせたような沈黙を呑み込んだ。誰もが責任逃れの算段を巡らせ、薄暗い部屋の空気がじっとりと肌に張り付く。
「……でしたら、適任がおりますが」
一人の側近が、冷ややかに眼鏡のブリッジを持ち上げた。その乾いた声に、周囲の視線が一斉に突き刺さる。
「ほう、誰だ」
「エーテル公爵家の三女、イリア様です」
その名が落ちた瞬間、室内の温度が一段と下がったような錯覚を覚えた。
イリア・エーテル。
プラチナシルバーの髪は常に凍りついた刃のように周囲を威圧し、サファイアの吊り目は一瞥した者の足元をすくうと噂されていた。少しでも気に触れば容赦なく牙を剥くという狂犬の二つ名に、貴族社会の誰もが関わることを避けてきたトラブルメーカーである。
「そうだ……!あの女ならば、魔獣をも恐怖でひれ伏させ、鬼のリーダーシップで領地を立て直せるはずだ!」
「まさに『最強の猛獣!』王国の救世主だ!」
男たちは勝手な妄想を膨らませ、不安を打ち消すように声を荒げた。
その頃、当の最強の猛獣ことイリアは、自室のベッドの端で小さく丸くなっていた。
(ひっ……!どうしよう、どうしようどうしよう……!)
ドレスの裾を強く握りしめる手のひらは氷のように冷たく、喉の奥がカラカラに乾いて痛む。プラチナシルバーのストレートロングに切れ長の吊り目は生まれつきのものであり、他者を威圧するためなどではない。幼い頃から争い事の気配がするだけで胃が激しく痛み出し、誰かと目を合わせることすらおぼつかない極度の内気な性質だった。
非合理な諍いなど、世界の終わりほどに恐ろしい。できれば小さな部屋で、温かいスープでも飲みながら誰とも目を合わさずに暮らしたい。それが彼女の切実な願いだった。
しかし、現実に鏡に映る自分の顔は、硬く引き結ばれた唇と鋭い三白眼のせいで、どう見ても凶悪な悪党のそれに見えてしまう。
(臆病なのががバレたら、一族の恥として捨てられる……!だから、トゲのある態度をとって、怒ったような顔を作って、強い女を演じ続けなきゃ生き残れないんだわ……!)
こめかみに汗が一筋伝う。震える指先で頬を叩き、凄みのある表情を作ろうとしたまさにその時、扉が激しく叩かれた。
「お、お嬢様!王家の使者の方々が、なぜか玄関の床に額をこすりつけて『どうかお慈悲を!』と泣きついております!」
執事の引きつった声が、静まり返った廊下に響いた。
「……は?」
わけがわからないまま引きつる足取りで客間に降りたイリアを待っていたのは、王国の中枢を担う偉い大人たちが、床の染みになるように平伏している光景だった。
使者の代表である宰相は、恐怖に体を震わせ、床に額をこすりつけたまま上擦った声を絞り出す。
「い、イリア様!お噂はかねがね聞き及びております!どうか……どうかモスウッド領の嫁になっていただき、あの荒れ果てた地をあなたの恐怖で完全に支配してきてくださいませんか!お願いします、我が国のためなら何でもしますからぁ!」
それは懇願という名の、怯え切った大人たちによるあまりにも重い丸投げだった。
イリアの脳裏で、雷鳴が轟く。
(ひゃあああ!私に最前線の魔獣領を統治しろだなんて無理!無理無理無理!争い事なんて絶対にできない!でも……ここで『嫌です、怖いです』なんて言ったら、役立たずの臆病者ってバレて軽蔑される……!)
心臓が早鐘を打ち、口から飛び出しそうになるのを、必死の思いで胸元を押さえて堪える。奥歯を噛み締めすぎて顎が痛い。イリアは全身の微小な震えを鋼の精神でねじ伏せ、ゆっくりと視線を伏せた使者たちに向けた。
「……ふっ。王家がそこまで私を頼るというのなら、慈悲深い私が赴いてやってもいいわ。せいぜい、私を満足させるだけの領地にしておきなさい」
絞り出すのがやっとだった声は、しかし重臣たちの耳には絶対者の宣告として響いた。使者たちは恐怖と安堵に歪んだ顔で床に涙を滴らせ、何度も頭を垂れた。
こうして、胸の中で大号泣しながらも最強の猛獣の仮面を完璧に被りきったイリアは、逃げ出すことも許されない運命のモスウッド領へと旅立つことになったのである。
モスウッド領の古びた城門は、油の切れた蝶番をきしませながら重く開いた。石造りの廊下に並ぶ使用人たちは、一様に青い顔をして床の染みを見つめている。最前線を預かる若き当主の姿も、その中に凍りついていた。
(ついに来てしまった……!ここが魔獣の巣窟、モスウッド領……!)
馬車から降り立ったイリアは、プラチナシルバーの髪をなびかせ、切れ長のサファイアブルーの目を細めて周囲を威圧するように歩を進める。だが、豪華なドレスの裾に隠された足元は、恐怖で小刻みに震え上がっていた。
(頼むから誰も私に話しかけないで……!睨みつけてやるから、どうか近寄らないでちょうだい……!)
一方、玄関の片隅で出迎えた夫のラークは、漆黒の髪を無造作に乱し、生気のない淀んだ瞳で小さく身を縮こまらせていた。
(き、来た……!噂に聞く魔獣も恐怖でひれ伏す令嬢が……!)
ラークは実戦経験の乏しいデスクワークと内政特化型の当主であり、他人のわずかな息遣いや視線の鋭さに異常なほど怯える極度の神経質だった。
(あんな恐ろしい戦闘狂の嫁を怒らせたら、窓から放り投げられて消される……!)
胸の内で必死に絶叫しながら、ラークは直立不動の姿勢のまま微動だにしない。
やがて、広間で二人は正面から対峙した。
(夫よ……!なんだその怯えきった目は!私を疑っているの!?ここでヘタレなところを見せたら、即座に捨てられて路頭に迷うわ……!)
焦燥に駆られたイリアは、全身から必死の殺気に見えるが実は恐怖による筋肉の硬直を放ち、限界まで見開いたサファイアブルーの目でラークを射抜いた。
(ひっ……!なんという殺気だ!目が据わっている!僕を今すぐ切り刻む気だ……!)
一方のラークは、イリアの氷のような視線を今にも処刑台へ送られる宣告と誤認し、膝の皿をカタカタと痙攣させる。
二人は数秒間、声を発せずに凝然と見つめ合った。それはもはや新婚初夜のあいさつではなく、どちらが先に呼吸を乱したら負けという、命がけのにらめっこであった。
(こ、この男、少しも動じない……!さすが魔獣の巣窟を束ねる当主、一筋縄ではいかないわ……!)
(この嫁、一言もしゃべらずに僕の息の根を止める気だ……!なんて恐ろしい……!)
お互いを自分より遥かにヤバい怪物と錯覚した二人は、冷や汗を滝のように流しながら、必死に作り笑いや威圧的な仮面を貼りつけ続ける。
やがて、これ以上その視線に晒されれば心臓が破裂すると本気で察知し、ラークはかすれた声を絞り出した。
「よ、ようこそ……我がモスウッド領へ……。も、もしお気に召さないことがございましたら、なんなりとお申し付けを……!ど、どうかご慈悲を……!」
そのあまりにも低姿勢すぎる懇願を耳にしたイリアは、内心で激しく首を傾げた。
(……え?私を怖がってない?いや、待って、これって「お前の機嫌を損ねたらどうなるかわかっているだろうな」という無言の脅しじゃないの……!?こわい、こわすぎるわ……!)
ごくりと乾いた喉を鳴らし、掠れそうになる声を無理やりドスの利いた冷徹な響きにねじ曲げて言い放つ。
「ふっ……。私を満足させられるかどうかは、あなたたちの今後の働き次第よ。せいぜい、私を退屈させないことね」
その傲慢に響く宣告に、ラークは心の底から絶望の色を滲ませた。
(やっぱり僕を消す気だ……!あんな恐ろしい美人と結婚してしまったなんて、僕の人生はもうおしまいだ……!)
初対面の余白を恐怖で塗りつぶしながら、最凶のヘタレ夫婦による最悪の共同生活の幕が、静かに、そして重く上がっていった。
新婚生活の幕が上がってからというもの、モスウッド領の古びた城内は、いつ爆発するか知れない火薬庫のような奇妙な緊張感に包まれていた。
夫であるラークの生存本能は、一瞬たりとも休むことなくフル稼働を続けている。
(いつかあの妻に、この窓から放り投げられる……!)
その尽きせぬ恐怖に耐えかねたラークは、妻の機嫌を少しでも取り繕うため、必死の懐柔工作を開始した。彼は毎朝、最高級の激レアスイーツや、魔獣避けの特製お守りを、こっそりイリアの執務机の引き出しの奥底へ忍ばせたのである。
一方、その差し入れを発見したイリアは、毎日心臓が飛び跳ねるほどの衝撃を受けていた。
(な、なんだこれ……!?高級菓子に、魔獣避けのお守り……?私への嫌味!?「甘いものを食って油断しているとこうなるぞ」っていう無言の圧!?ひょっとして、これには致死性の毒が入っているかもしれないわ……!)
命の危機を本気で感じながらも、イリアは負けじと瞬時にその菓子をすべて口へと押し込んだ。
(ここで残したら「私の差し入れが気に食わないのか」って怒鳴られて殺される……!)
そして、涙目で空っぽの箱をデスクへ押し戻し、分厚い書類をドスンと叩きつける。
「……ふん、お菓子は美味しかったわよ。次からもっと珍しいものを用意しなさい」
その返答を耳にしたラークは、頭を抱えて暗澹たる絶望に沈んだ。
(全部食べられた……!いや、あれは「こんな子供だましでごまかせると思うなよ」という無言の処刑予告だ!もっと怒らせてしまった……!)
お互いに勝手な恐怖を果てしなく膨らませ、すれ違いの攻防戦は日増しにその激しさを増していった。
そんなある日、領地の未来を文字通り左右する全体会議が開かれた。
王家から言い渡された恐怖で領地を支配しろという重圧に耐えかね、イリアの脳裏で危機を知らせる警報が激しく点滅する。
(どうしよう、私にまともな統治なんてできるわけがない……!でも、ここで優しくしたら「役立たず」ってバレてしまう!何か、とんでもなく厳しそうなことを言わなきゃ……!)
極限まで追い詰められたイリアは、ガタリと椅子を引いて立ち上がり、サファイアブルーの目を限界まで釣り上げて絶叫した。
「聞け!効率など知ったことか!今月から毎日、全員で手を繋いでスクワット十万回だ!!」
それは、あまりにも理不尽で狂気じみた精神論だった。
しかし、その場に平伏していた男たちは、全員が顔面蒼白となって全身を激しく震わせた。
「さすがは王家が土下座して送り込んだ夫人だ……!効率を無視して肉体を極限までいじめるなんて、スパルタがすぎる……!」
屈強な体躯を持つ兵士たちは恐怖に顔を歪め、翌日の朝から、全員で固く手をつなぎながら大粒の涙を流してスクワットにはげむようになった。
さらに、ラークはその異常な光景を柱の陰から盗み見ながら、部下たちへ向けて必死のフォローの声を絞り出す。
「み、みんな……妻は、兵士同士の連帯感を重んじているのだ!だから手を繋いでスクワットを……!くじけるな、妻の機嫌を損ねたら全員消されるぞ!」
当主の必死の弁明と、夫人の狂気のスパルタ命令。その奇跡的な悪循環のシナジーによって、モスウッド領の兵士たちは変貌を遂げていった。モスウッド領の兵士全員が、毎朝全員で手をつないで涙を流しながらスクワットをする恐怖の精鋭部隊へと……。
中身は全員が極度のビビり集団であるにもかかわらず、その身の毛もよだつ鉄の結束力と過酷なスパルタ訓練のおかげで、なぜか周囲の魔獣は一匹も寄り付かなくなり、領地の求心力と治安は皮肉にも過去に類を見ないくらいに向上していくのだった。
モスウッド領が奇跡的な治安の良さを誇り始めていた、ある日のこと。その平穏は、あまりにも唐突に、そしてシュールな悪夢となって打ち砕かれることになった。
その日、イリアは執務室の机で、山積みの書類に目を通していた。
(今日もなんとか「怖い夫人」を演じきれたわ……。あぁ、はやく自室に戻って温かいお茶を飲みたい……)
そこに、廊下からガタガタと慌ただしい足音が響く。直後、重厚な扉が勢いよく開き、夫のラークが青い顔をして飛び込んできた。
「た、大変だぁ!夫人、外からとんでもない化け物が……!」
「なっ、私に向かってそんな取り乱した声を……!」
イリアが叱責を飛ばそうとしたその瞬間、ラークの後ろからトコトコと別の何かが室内に侵入してきた。
それは、真っ白でふわふわとした毛並みを持ち、つぶらな瞳をした小動物系の無害な魔獣であった。戦闘能力などない、ただのモフモフした愛らしい生き物である。
しかし、極度の臆病風に吹かれている二人にとって、それは最悪の恐怖の象徴に見えた。
「「ひゃあああ来るなあああ!」」
夫人と、最前線を預かる当主が、完璧なハッタリを忘れて完全に同じ悲鳴を上げた。
イリアはドレスの裾をまくり上げ、あろうことか近くにあった高い書棚の上へと驚異的な身のこなしでよじ登り、ガタガタと歯を鳴らしながら重いカーテンにしがみついた。
「助けてくれぇええ!」
一方のラークは、自分のデスクの下へ猛スピードで滑り込み、両手で頭を抱えて丸まったままと情けない声を上げて泣きじゃくる。
部屋の中を歩き回る無害なモフモフの魔獣。その横で、領地を恐怖で支配しているはずの最強夫婦が、揃って這いつくばり、涙と鼻水を垂らしながら絶叫し続けるという凄まじい光景が広がった。
ちょうどその時、書類の確認のために執務室を訪れた部下の兵士たちが、ゆっくりと扉を開けた。
「失礼いたしま――って、えっ……?」
「いやぁぁぁあ!こっち見ないでぇぇぇ!」
部下たちはピタリと動きを止めた。そこには、カーテンにしがみついて号泣する美しい夫人と、机の下でダンゴムシのように丸くなって震える当主の姿があった。
スパルタ指導も、鉄の結束も、この瞬間、音を立てて完全に崩れ去った。
さらに数日後。領地の視察にやってきた王家の使者がこの執務室を訪れ、二人の「虫が出ただけで大パニック事件」の真相を目の当たりにすることになった。
使者は顔面を青くさせ、頭を抱えてその場に崩れ落ちる。
「えっ……?我々が土下座して頼み込んだ『恐怖の猛獣』って一体……いったい何だったんだ……!」
こうして、二人の完璧だったはずの虚勢は、無害なモフモフの魔獣によって木端微塵に粉砕されたのである。静まり返った部屋の隅で、二人はただお互いの顔を見合わせ、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
モフモフの魔獣一件により、お互いの偽りの姿は粉々に砕け散った。
しかし、その日の夜。静まり返った私室の中で、イリアとラークは向かい合い、ぽつりと力のない息をつく。
「……あの、私、本当は争い事が大の苦手で、虫も魔獣も見るだけで気を失いそうになるくらい怖がりなんです……」
震えながら本当の姿を吐露するイリアに、ラークは涙目で激しく首を横に振った。
「ぼ、僕もだよ……!実戦経験なんてゼロだし、他人の機微にビビりまくるだけのただのヘタレだ。君を怒らせて窓から投げられるんじゃないかって、毎日胃に穴が開きそうだった……」
お互いの正体がただのビビりであると完全に発覚した瞬間、二人の間に張り詰めていた重苦しい緊張の糸は、音を立ててプツリと切れた。
(なんだ……私だけじゃなかったんだ……)
(よかった……僕だけがポンコツじゃなかったんだ……)
そこから先は早かった。
「「もう無理して強がらなくていいんだ」」
腑に落ちた二人は、これまでの盛大なすれ違いの数々を思い出し、顔を見合わせて腹を抱えて大笑いした。そして、お互いを守るために必死でハッタリを張り続けていた孤独な労苦をねぎらい合い、温もりを確かめるように強く抱きしめ合う。
それからというもの、二人の生活は一変した。
外向きには、相変わらず恐ろしい夫人と、冷汗をかかされる夫という看板を、保身と世間体のために完璧に掲げ続けている。領地の兵士たちに対しても、イリアがキリッとした凄みのある顔で宣言する。
「引き続き朝のスクワット十万回を義務付けるわよ!」
「さすが鬼の夫人……!」
兵士たちは青い顔で震え上がりながらも、さらに強固な鉄の結束力を発揮していった。
だが、夜の私室の重い扉が閉ざされれば、その姿は全くの別物へと変わる。
「今日、あの怖い上司の書類仕事、本当に怖かったね……」
「よく頑張ったね、イリア。えらいえらい」
二人は身を寄せ合い、お互いをよしよしと甘やかして傷を舐め合う、究極のヘタレ夫婦へと落ち着いたのだった。
一方、二人の正体を完全に知ってしまった王家は、頭を抱えて激しく苦悩した。
「どうしよう……あの二人は本当はただの気弱な夫婦だった……しかし……」
使者から上がってきた詳細な報告書に目を通し、宰相は領地の現実を突きつけられて目を丸くする。
モスウッド領は、兵士たちの恐怖による狂気のスクワット訓練が功を奏したせいで魔獣が一匹も近づかず、治安は王国随一の安定を誇り、内政の業績もうなぎのぼりに向上していたのである。
宰相は観念したように深く息をつき、すべての不条理を忘れることに決めた。
「……まあ、聞いてた話と中身は全然違うけれど、なぜか領地は最高に栄えているから、いっか!」
こうして、最強のハッタリと盛大な勘違いが生んだヘタレ夫婦は、今日も今日とて内心で激しく怯えながらも、窓辺で仲良く穏やかな平和の日常を紡ぎ続けていくのであった。




