第1章「このルートは解釈違いです!」
●1-1 目覚めたらラスボスでした
目が覚めると、天井が高かった。見慣れない石造りのアーチと、風になびく重厚なカーテン。空気には仄かな香が漂い、どこか格式を感じさせる。
ミカはまばたきを繰り返しながら、上体を起こした。重みのある布団の感触が、明らかに自宅のものとは違うことに、すぐに気がつく。
記憶を探る。たしか自分は……。
「信号……無視……」
最後に見たのは、猛スピードで交差点を突っ切ってきたトラックと、それに跳ねられた自分の身体。死んだ――その認識には、揺るぎがなかった。
にもかかわらず、今、自分は生きている。
慌てて布団を跳ね除けると、足元には濃紺の絨毯。壁には見事な刺繍入りのタペストリーが飾られ、部屋の隅には全身が映る大きな鏡が立てかけられていた。
ミカは吸い寄せられるように鏡へと近づき――そして、絶句した。
鏡に映っていたのは、黒髪の長髪に翡翠の瞳を持つ、背の高い男性だった。
「……嘘、でしょ」
震える低い声が、静かな部屋に吸い込まれる。だが、何度まばたきをしても、そこにいるのは紛れもなく、自分ではない“誰か”だった。
いや、違う。ミカには、この顔に見覚えがあった。
――ラヴィニス。
ミカの記憶に、鮮明すぎるゲーム画面がよみがえる。『フローリスの契り』──少女リリアが女神に選ばれ聖女となり、王子とともに世界の危機を救う、名作乙女ゲーム。美麗なスチルに泣けるシナリオ、そして何より、レオナール王子との正道ロマンスが最高だった。
当然のように全エンドをコンプし、何周もプレイしたあのゲーム。18年間の人生であれほど熱中したコンテンツはなかった。
ラヴィニスはその最終盤、ヒロインと対峙する最後の敵として登場する、絶望を抱えた魔術師だ。
「ちょ、ちょっと待って。これって、もしかして……ラスボス転生!?」
ミカはがばりと鏡の前で後ずさった。状況を整理しようにも、頭が追いつかない。
だが、転生したと仮定して、しかもその相手があの“ラヴィニス”だとすれば……。
「最推しの幸せを邪魔するポジションって、どういうこと!? いや、でも、でも……」
考えを巡らせるうちに、ミカの口元に、乾いた笑みが浮かんだ。
「討たれるのが既定路線ってことは、むしろ……推しのために散るルート、ありでは?」
オタクとしての業が疼く。ミカは拳を握りしめ、小さく呟いた。
「リリアのためなら、ラスボスくらい喜んでやってやるよ……」
そう、ここはゲームの世界。彼女の“愛する世界”。そして、最推しのリリアが、真のハッピーエンドを迎えるべき場所だ。
ミカは覚悟を決めた。自分はラヴィニス。ならばその最期を、美しく、そして推しのために飾ってやる。
●1-2 リアルなラスボス生活?
覚悟を決めてから数日。ミカ――いや、ラヴィニスとしての日常が始まった。
だが、始まってみると、想定していた“ラスボスライフ”とはどうにも勝手が違っていた。
まず、朝一番に顔を見せた側近が、やたらと優しい。
「おはようございます、ラヴィニス様。昨晩も遅くまで研究室にいらしたと聞いておりますが……ご体調のほうは?」
長身で短髪の青年、ルディ。ゲーム本編にも登場はしていたが、あくまで立ち絵すらない“モブ扱い”の補佐官だったはずだ。
なのに、今目の前にいる彼は妙に存在感があるし、声もはっきりしている。何より、ミカ(ラヴィニス)に対する気遣いの言葉が本気だ。
「あ、ああ……問題ない」
口調に迷いが出る。本来のラヴィニスならもっと冷たく一蹴するところだろうが、それをやると心が痛む。何より、ルディが犬のような目で見てくるのがつらい。
「本日のご予定ですが、午前は王子殿下との戦術会議、午後には国境方面の魔力流調査の報告書確認がございます」
「……了解。準備してくれ」
ラヴィニスの振る舞いに慣れてきたとはいえ、“冷酷な宮廷魔術師”を演じるのはなかなか骨が折れる。
そして案の定、次に現れたアルヴィオン王国の王子――クラウディオが、さらにミカを困惑させた。
「ラヴィニス、例の魔力干渉理論だが、俺の計算だと第三結節点の波形が妙に歪んでいるんだ。見てくれるか?」
クラウディオは、傲岸不遜で自信家の王子。ゲーム本編では、ラヴィニスと共に悪役側の立場として登場し、隣国フロルティア王国の聖女リリアを手中に収めようと画策していた。本編中では最終的にラヴィニスに利用される人物として描かれていたが、ファンディスクでは攻略対象としてルートが追加された人物だ。
「……よし、こちらの測定値と照らし合わせてみよう」
ラヴィニスの脳に浮かんだのは、専門用語の羅列とともに、魔力波形の解析手順だった。
おかしい。こんな細かい知識、自分は知らない。だが、身体が自然と理解してしまう。
(これが“キャラとしての知識”……ってやつか……)
「助かる。さすが、最高魔術顧問様だな」
クラウディオが茶化すようにそう言って、ラヴィニスの背を軽くたたいた。
本来ならば敵対的で形式的な関係に留まるはずの二人が、こうして仲が良さそうに会話を交わし、協力し合っているというのが、ミカには不思議でならなかった。
(なんでこの王子、こんなに懐いてるの……? 本編でこんな描写あったっけ?)
違和感はあったが、ゲームとして見ていた世界に転生するということは、知らなかった余白が埋まるということなのだろうと、ミカは納得することにした。
●1-3 この世界、もしかして
空は灰色がかった薄曇り。アルヴィオンとフロルティアの国境沿い、広い平原に魔術障壁が展開されていた。
今日は両国合同の演習日。魔力の干渉による地形変化や、魔物発生の対応を確認するための軍事的訓練だ。
ラヴィニスとしてミカが参加することになったのは、あくまで“魔力波形の観測支援”という名目だったが、実際には――
「……まるっきりイベントっぽいシチュエーションなんだけど」
肩に魔力測定器を引っかけ、ミカはぶつぶつと文句を呟く。ゲーム本編ではこんなシーンなかった。少なくとも、ラヴィニスが最序盤からフロルティア側の人物と顔を合わせる展開なんて、絶対に記憶にない。
視線の先には、フロルティア王国の王子・レオナールがいた。
美しい銀の髪、蒼の軍装、真っ直ぐな眼差し。ミカの記憶にある“推しカプの片割れ”そのものだった。
(うおおお、レオナール王子……! 本物ってマジでイケメンだな。すっげー……)
さらに、その後ろには、リリアの幼馴染・カイと、神官ファロアの姿も見える。彼らもゲームの主要攻略対象としてちゃんと登場しているのだろう。
しかし、問題はそのさらに奥――一人の男性に、ミカの目が釘付けになった。
「あれ……あの人、誰……?」
重厚な黒鎧に身を包み、長身で鋭い目つきの男。見覚えがあった。だが、それはゲームプレイ中ではなく――
(……公式サイトの、ファンディスク特設ページの、スチル……!)
『フローリスの契り』は好評を博し、数年後に追加ディスクが発売されていた。ラヴィニスを含む番外的攻略キャラがルート対象になると発表され、「推しカプ以外は別にいいや」派のミカがスルーした、あれだ。
この男の名前はたしか――エドワード。アルヴィオンの第三騎士団長で、ラヴィニスの護衛役として数点だけ公開されていたスチルの端にいた男だ。ゲーム本編には登場せず、ミカ自身もそのスチルを見て「誰だよこいつ」と切り捨てた記憶がある。
その彼が今、ラヴィニスに向かって会釈をした。
「ラヴィニス様、先導は我々が務めます。ご安心を」
ミカは硬直した。エドワードが話しかけてくるなど、絶対に本編にはなかった。にもかかわらず、男の声や振る舞いに一切の違和感がない。
(……これ、完全に“あのスチル”の構図だ)
ファンディスク未プレイながら、事前に情報だけは漁っていたミカの記憶が警鐘を鳴らす。
そして、全てが繋がった。
「ここ……本編じゃない……ファンディスクだ……!!」
ようやく理解が追いついた。だからクラウディオが妙に懐いてきた。だからラヴィニスとしての生活の“解像度が高すぎた”。
ラスボスたるラヴィニスが攻略対象になった、あの忌まわしき追加ディスクの世界。解釈違いで避けていた、未プレイの領域。
「最悪だああああ……!」
ミカはその場で頭を抱えて、誰にも聞こえないように小声で叫んだ。
●1-4 ラスボスルート、ダメ、絶対!
「どうしようどうしようどうしようどうしよう……!!」
演習を終えた後、ラヴィニス――としての立場で騎士団に簡単な指示を出し終えたミカは、部屋に戻るや否や、執務机の上で頭を抱えた。
ファンディスク。未プレイ。情報不足。しかも、自分が攻略対象ってどういうこと!?
「そんなの、オタクとして、倫理に反するでしょおおおお……!」
机に突っ伏して悶絶するミカの脳裏には、これまでの出来事が次々と浮かんでくる。
クラウディオの妙な親しみ方。側近ルディの忠誠心。エドワードとの唐突な接触。そして、なにより――
(リリアが、私に接触してくる未来があるかもしれないってことでしょ……?)
それが一番恐ろしかった。
リリアは、ミカにとってこの世界の“最推し”であり、守るべき存在であり、そして“レオナール王子と結ばれるべきヒロイン”だった。
にもかかわらず、そのリリアと、ラヴィニス――つまり自分――とのフラグが立つなどということがあってはならない。
ラヴィニスはこの物語のラスボスで、悪役だ。彼と結ばれるエンディングなんて、リリアが幸せになれるとはとても思えなかった。
ミカは慌てて立ち上がり、部屋の中をぐるぐると歩き回る。
「だ、大丈夫、まだルート確定はしてない、ただの接触イベントだけなら……でも、ゲームってだいたいその後に分岐条件入ってくるんだよなあああっ」
頭をかきむしりながら、ミカは考える。リリアに会うなというのは無理だ。国のトップ魔術師としての立場上、フロルティアとの交流で顔を合わせることは避けられないだろう。
(でも、少なくともフラグを回避するための言動は、心がけるべき!)
例えば優しくしすぎない。共感しない。手を差し伸べない。よくある“好感度上昇選択肢”を絶対に避ける。
問題は、自分の中にある“オタクとしての衝動”が邪魔をしてくることだった。
「リリアが泣いてたら、慰めたくなるに決まってるじゃん!! でもダメ!! 私は……私は……!」
ミカは拳を握り締めて、天井を仰ぐ。
「私は、ラヴィニスとして、絶対にリリアとのルートなんて成立させない!!」
それが自分の使命だ。最推しの幸せのためなら、自分がどんなにツラくても構わない。
たとえリリアが自分に懐いてきても、たとえ彼女が可愛くてたまらなくても――耐えて、耐えて、耐えきってみせる。
その決意を胸に、ミカはひとつ深呼吸をして、鏡の前に立った。
そこに映るのは、長身で黒髪の長髪をなびかせる、冷静で知的な雰囲気を纏う男――ラヴィニス。
「よし、やってやろうじゃない……フラグ、全部へし折ってやる!!」
鏡の中の自分に、ミカはぎこちなく笑いかけた。
●1-5 ルート阻止、始動
翌朝、ラヴィニスの執務室には、いつも通りの空気が流れていた。
ミカは机の前で、魔力結節点の報告書を読みながら、静かに考えていた。顔には表情を浮かべず、だがその内心は――燃えていた。
(大丈夫、ミカ。冷静にやるんだ……これはルート阻止という名の謀略戦……)
推しカプを結ばせるために、自分がするべきこと。
それは、まず“レオナールルートを阻害しうる要素”を排除し、“望ましいイベントの成立条件”を整えることだった。
たとえば――
・リリアとレオナールの接触機会を増やす
・王子の好感度を“意図的に”底上げする
・リリアとの自分の接点は最小限に抑える
つまり、イベント制御である。
しかもこの世界は、ゲーム的要素が強い。情報が明らかになればなるほど、何かしらの“選択”が起点になっている可能性が高い。
であればこそ、やるべきことは明確だった。
「ルート分岐制御、イベント誘導、感情調整……上等だよ……!」
声には出さずに、だが心の中では完全に覚悟を決めていた。
そこへ、執務室の扉が控えめにノックされた。
「ラヴィニス様。国境方面より、フロルティア王国の聖女一行が近日中に訪問されるとの報が入りました」
ルディの声に、ミカは手元の羽ペンを止めた。
まさか、もう来るのか。リリアが――ついに“画面の外”から現実の存在として、この世界に降臨する。
「……そうか。迎えの手配を整えておけ。丁重にな」
「はっ」
ルディが下がったあと、ミカは息を吐いた。
とうとう、始まる。リリアと、レオナールと、自分――この世界に存在するすべての“ルート”との戦いが。
だけど、負けるつもりはない。
(ぜったいに、リリアとレオナールのルートに入れてみせる!)
己の決意を胸に、ラヴィニス――ミカは椅子から立ち上がった。
鏡の中のラヴィニスは、昨日より少しだけ引き締まった顔で、彼女を見返していた。