Last Aria
本作は短編ですが、4話構成(起承転結)になっています。
本作は「セルラーメモリー」(よければ読み終わったら調べてみて下さい)という仮説を題材にしていますが、科学的な考証よりも、登場人物たちの心の軌跡を何より大切に描きました。
また、この物語は最後に二つの結末へと分岐します。どちらの未来も、彼らが懸命に生きた証拠です。
最後まで、二人の奏でるアリアに耳を傾けていただけますと幸いです。
【第1話 金木犀のアリア】
九月の終わりの空は、高く、どこまでも澄み渡っていた。
あれほど肌を焼いた夏の暴力的な日差しは、まるで嘘のように鳴りを潜め、肌を撫でる風は乾いた葉を転がすような軽やかな音を立てる。昼休みの喧騒が遠ざかっていく放課後の校舎は、心地よい静寂に包まれていた。
遠野想介は、高校二年生の秋を、そんな風に少しだけ退屈に感じていた。
向かう先は決まっている。旧校舎と新校舎の間に挟まれた、中庭と呼ばれる小さなスペース。用務員さんが手入れをしている花壇と、古びたベンチが二つ。そして、この中庭の主のように佇む、一本の金木犀の木。
それが、想介のいつもの居場所だった。
姉の、遠野花凪が亡くなってから、二年が経つ。
太陽みたいによく笑い、誰にでも優しく、そして少しだけお節介だった姉。彼女がこの世からいなくなって、想介の世界からは、確かな光が失われた。人を本気で心配したり、誰かのために心を尽くしたり、そんな当たり前の感情に、いつからか蓋をするようになった。深く関われば、失った時の痛みが襲ってくることを、もう知ってしまったから。
お人よしで世話焼き。姉が生きていた頃はそう言われた自分も、今ではクラスメイトのどうでもいい間違いを見つけては指摘する、ただの口うるさいツッコミ役でしかない。誰かのために心を砕くのが、もう怖かった。
金木犀の甘い香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。
この香りを嗅ぐと、姉を思い出す。まだ想介が子供だった頃、この木の下で、姉が秘密のあだ名を付けてくれた。
「そうすけの『そう』って、『想う』って書くんでしょ?優しい子になるようにって。だからね、今日からそーすけは、『そーちゃん』ね!」
子供っぽすぎるからやめろと何度も言ったのに、姉はからかうように、楽しそうに、そのあだ名を呼び続けた。今ではもう、誰も呼ばない、姉だけの特別な呼び名。
「……そーちゃん。」
不意に、背後から澄んだ声がした。
幻聴かと思った。姉の声にしては、少しだけ高い。けれど、確かにそう呼ばれた気がして、想介はゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、見慣れない制服の少女だった。
一年生だろうか。少し大きめのブレザーと、ウェーブのかかった柔らかな髪。九月の淡い陽光を輪郭にまとい、その姿はどこか儚げで、現実感がなかった。ブレザーの袖口から覗く手首があまりに細く、まるで幻のようだった。
けれど、何より想介の心を奪ったのは、その表情だった。大きな瞳をきらきらと輝かせ、満開の花のように笑っている。
「やっぱり! 探したんだよ、そーちゃん!」
「……は?」
間抜けな声が出た。なんだ、こいつは。人違いか?
いや、それにしては、あまりにも真っ直ぐに俺を見ている。
「人違いじゃないか? 俺は遠野想介だ。そーちゃんなんて名前じゃない。」
「えー、でも、その名前が一番しっくりくるもん。」
「もん、とか言うな。だいたい、あんた誰だ。うちの一年だよな?」
「うん! わたしは朝霧花音。よろしくね、先輩!」
花音、と名乗った少女は、ぺこりとお辞儀をする。その屈託のなさに、毒気を抜かれてしまう。
だが、謎は深まるばかりだ。なぜ、この後輩は俺の昔のあだ名を知っている?
「……朝霧、さん。悪いが、俺はお前のこと知らないし、その呼び方もやめてほしい。」
冷たく言い放つ。これ以上、関わってはいけない。心の警報が鳴っている。自分のテリトリーに、ずかずかと踏み込んでくる気配を感じる。
「やだ」
「はあ?」
「だって、やっと見つけたんだもん。面白い先輩!」
「面白いってなんだ、面白いって! 俺のどこにそんな要素がある!」
「今みたいに、すぐツッコんでくれるところとか?」
くすくすと、鈴を転がすように花音は笑う。
その笑顔を見ていると、胸の奥が、ちくりと痛んだ。懐かしい痛みだ。姉と交わした、他愛ないやり取り。失われたはずの時間が、目の前で再生されているような錯覚。
この少女は、危険だ。
想介は本能的にそう判断し、彼女に背を向けようとした。その時だった。
「この香り、懐かしいな。」
花音の呟きに、足が縫い付けられたように動かなくなった。
それは、数年前の秋の日。この場所で、姉が全く同じことを言ったのだ。
「この香り、懐かしいな。なんか、泣きたくなるくらい、優しい匂い。」
振り返った先の花音は、金木犀の木を見上げて、うっとりと目を細めていた。
その横顔が、記憶の中の姉の姿と、呼吸が止まるほどに重なって見えた。
【第2話 オルゴールのアリア】
あの日以来、朝霧花音は本当に毎日、俺のいる2年C組の教室にやってくるようになった。
「そーちゃん、お昼一緒に食べよ!」
昼休みが始まるチャイムと同時に、廊下側のドアからひょっこり顔を出すのがお決まりのパターンだ。俺が「来るなと言っただろ!」「自分のクラスで食え!」と追い払おうとしても、花音は「えー、やだー」と柳のように受け流し、当たり前のように俺の前の席に陣取る。
「遠野も大変だなあ。」
友人の健介が、呆れと面白さが半分ずつ混じった顔で弁当をつつく。
「全くだ。なんで俺がこんな目に……」
「でも、あんな可愛い後輩に懐かれるなんて、羨ましいけどな。」
「やるよ。今すぐ貰ってくれ。」
「はは、そりゃ無理な相談だ。」
そんなやり取りも、気づけば日常の風景になっていた。うるさくて、鬱陶しくて、ペースを乱される毎日。だが、不思議と不快ではなかった。花音がいるだけで、退屈だった教室の空気が、少しだけ色づいて見える。そんな自分に気づかないふりをしながら、俺はため息と共に学食のパンをかじり続けた。
その日常は、十月も半ばを過ぎた頃、唐突に途切れた。
いつものようにチャイムが鳴っても、花音は来なかった。
「あれ、今日はお姫様のお出ましはなしか?」
健介の軽口に、「知るか。むしろ平和で最高だ。」と俺はそっけなく答えた。
だが、その平和は一日、二日と続くと、徐々にその形を変えていった。三日目には、昼休みのチャイムが鳴るたびに、無意識にドアの方を目で追ってしまう自分がいた。健介の軽口を待つまでもなく、がらんとした目の前の空席が、やけに広く感じる。まるで、ぽっかりと穴の空いた自分の心のようだ、なんて陳腐なことを考えてしまい、舌打ちした。
一週間が経った放課後、俺は気づけば一年生のフロアに立っていた。花音のクラスのドアの前で、女子生徒たちのひそひそ話が、嫌でも耳に飛び込んでくる。
「花音、また入院だって。」
「今回はちょっと長引くかもって……心配だね。」
──入院。
その二文字を聞いた瞬間、姉の最期の日々の記憶が、無数のガラス片になって脳裏に突き刺さった。足元がぐにゃりと歪み、冷たい汗が背筋を伝う。
驚きよりも先に、胸を突いたのは強烈な既視感だった。
「ああ、またか。」
また、俺のすぐそばから、大切な人間が手の届かない場所へ行ってしまうのか。
姉の、花凪が入院した時もそうだった。最初は誰もが、すぐに戻ってくると信じていた。俺自身、「また大袈裟に騒いで」なんて、軽口を叩いていた記憶すらある。それが、二度と話すことのできない別れになるとも知らずに。
「心配だ」と、思う。けれど、その自然な感情はすぐに、過去の後悔という名の分厚い氷に閉ざされる。「心配したって、俺に何ができる?」「あの時だって、何もできなかったじゃないか」。心の奥底で、もう一人の自分が嘲笑う。だから俺は、普通の高校生が口にするはずの「大丈夫か?」の一言も言えず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
そう決意した、次の土曜日のことだった。
俺は意を決して、ずっと手付かずだった姉さんの部屋のドアノブに手をかけた。窓を開けて空気を入れ替え、床に積まれた本の山に手をつけようとした、その時。
「そーちゃーん!いるー?」
階下から、台風みたいな声が聞こえた。まさか。
慌てて階段を駆け下りると、そこには玄関のドアを勝手に開けて、にこにこと笑う花音が立っていた。
「おま、なんで……!?」
「退院したから、サプライズで会いに来ちゃった! あ、ピンポン押したらお母さんが出てきて、上がっていいって。お邪魔してます!」
悪びれもなくピースサインをする花音に、全身の力が抜けていく。結局、押し切られる形で、俺は花音と一緒に姉さんの部屋を片付けることになった。
「うわー、すごい本の数! あ、このCD……」
本棚の隅にあったCDのファイルケースを見つけた花音は、ぱらぱらとそれをめくり始めた。それは、姉さんが好きだったインディーズバンドのCDだ。
「懐かしいな。このバンド、わたしも好きだったんだ」
「……マイナーなバンドだぞ。知ってるのか。」
「うん。特にこのアルバムの、三曲目がいいんだよね。イントロのギターが最高なの。」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。その曲は、アルバムの中でも特にマニアックで、姉さんが「この良さが分かるのは、世界で私と想介だけだね。」と笑っていた曲だった。
俺が言葉を失っていると、花音は「よいしょっ」と言いながら、クローゼットの天袋に手を伸ばし、埃をかぶった木箱を下ろした。
「なんだろう、これ。宝箱かな?」
「おい、勝手に……!」
俺の制止も聞かず、花音は無邪気にその箱の蓋を開けた。
カラン、コロン……。
澄んだ、けれどどこか物悲しいメロディが、静かな部屋に響き渡る。
オルゴールだった。姉さんが大切にしていた、アンティークの。
「……あ」
オルゴールの音色を聴いた花音は、小さく息を呑んだ。
「この曲……知ってる。大好き。」
呟くと、花音は流れ出したメロディを、一音も外さずに、ハミングで正確になぞり始めた。
全身の血が、急速に冷えていくのを感じた。
だって、その曲は。
姉さんが亡くなる少し前、楽譜を片手に「まだ誰にも聴かせたことないんだけどね」と、はにかみながら俺にだけ聴かせてくれた、未完成の自作曲だったのだから。
【第3話 心臓が記憶するアリア】
花音を家まで送った後も、俺は姉さんの部屋から動けずにいた。
あのオルゴールのメロディが、頭の中で何度も繰り返される。花音が口ずさんだ、拙くも正確なハミング。そして、「この曲を聴くと、胸が温かくなるの」と言った時の、不思議そうな、けれど幸せそうな顔。
偶然。
その一言で片付けるには、あまりにも出来すぎていた。
知らなければならない。この正体不明の感情の渦に、名前をつけなければならない。そうでなければ、俺は前に進めない。
強い衝動に駆られ、俺はもう一度、姉さんの遺品と向き合った。今度は、明確な「目的」を持って。机の引き出し、日記、手紙の束。その全てを、何かに取り憑かれたように調べ尽くす。
そして、見つけた。
引き出しの一番奥にしまわれていた古い財布。そのカード入れの隙間から、一枚のカードが顔を覗かせていた。
「臓器提供意思表示カード.....。」
心臓、肺、肝臓……提供できる臓器の項目に、綺麗な字で丸がつけられている。そして、署名欄には、見慣れた姉さんの名前。
心臓が、大きく脈打った。姉さんが、意思表示をしていた。
だが、それだけだ。意思があったというだけで、実際に提供が行われたという証拠にはならない。俺は暗い部屋の中、その一枚のカードを握りしめ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
数日後、俺は昼休みに花音を中庭に呼び出した。
「この前の、オルゴールのことなんだけど。」
俺の真剣な様子を察したのか、花音はいつもの笑顔を消し、こくりと頷いた。
「本当に、どこで聴いたか覚えてないのか? 例えば、夢で見たとか、誰かに聴かされたとか……。」
花音は少し考え込むそぶりを見せた後、悲しそうに首を横に振った。
「ごめんなさい……やっぱり、わからないの。でもね、」
そう言うと、花音は自分の制服の胸元を、ぎゅっと握りしめた。
「あの曲を聴くと、胸のこのあたりが、きゅーって温かくなるの。すごく、すごく優しい気持ちになる。だから、きっと大好きな曲だったんだと思う。」
その純粋な瞳を見ていると、俺はもう何も言えなくなった。こいつは、何も知らない。何も悪くない。これ以上、問い詰めるのは俺の自己満足でしかない。
調査が行き詰まり、悶々とした日々が過ぎていった。
転機が訪れたのは、その週末の夕食の席だった。
「そういえば、朝霧さん、また入院されたんですって?」
母の何気ない一言に、俺は箸を止めた。
「うちの近所の葉山総合病院にいるらしいわよ。健介くんのお母さんから聞いたわ。お見舞い、行かなくていいの?」
葉山総合病院──。
その名を聞いた瞬間、耳の奥がキーンと鳴った。二年前に姉さんが事故で運び込まれ、そして、二度と帰ってこなかった場所。
居ても立ってもいられず、俺は翌日、その病院へ向かっていた。
花音の病室を訪ねる勇気もなく、ただ待合室の硬いソファに座っていると、見覚えのある女性に声をかけられた。花音の母親だった。
「あら、遠野くん。花音のお見舞いに? ありがとう。あの子、きっと喜ぶわ。」
当たり障りのない会話を交わす。容態は落ち着いていること。しばらくは検査入院であること。そして、花音の母親がふと、窓の外を見ながら呟いた。
「娘が大きな手術を受けたのも、ちょうど二年前の今頃だったかしら……十月の、肌寒い雨の日でした。本当に、奇跡が起きたんです。もう駄目かもしれないと、夫婦で泣いていたあの夜に……。お顔も存じ上げないどなたかが、この子の命を繋いでくださって……。」
病院からの帰り道、俺は夢遊病者のように街を歩いていた。
花音の母親の言葉が、頭の中で何度も反響する。
『二年前の、十月』
『肌寒い、雨の日』
それは、姉さんが死んだ日と、あまりにも符合しすぎていた。
錆びついた歩道橋の真ん中で、俺は立ち止まる。夕日が街を真っ赤に染め上げていた。
錆びた思考の歯車が、悲鳴を上げて噛み合っていく。
姉さんが持っていた、ドナーカード。
花音が手術を受けた、葉山総合病院。
姉の命日と、奇跡が起きたという、あの日付。
そして、花音が持つはずのない、姉の記憶。オルゴールのアリア。
「まさか……。」
声にならない声が、喉の奥で潰れる。
「花音の中に、姉さんの、心臓が……?」
感謝すべきなのか? 姉さんはまだ、この世界にいるのか? いや、これは冒涜じゃないのか?
喜びでも、悲しみでもない。自己嫌悪でも、安堵でもない。あらゆる感情が濁流のように渦を巻き、思考が真っ白に塗りつぶされていく。世界がぐらりと傾き、俺はその場にへたり込んだ。流れていく車のヘッドライトが、涙で滲んでいることにも、気づかないまま。
【4話 Aルート:はじまりのアリア】
歩道橋の上でどれくらいの時間、へたり込んでいただろうか。街が完全に夜の色に染まった頃、俺は幽霊のような足取りで自宅へ帰り、吸い寄せられるように姉さんの部屋のドアを開けた。
机の上に置かれた、姉さんの写真立て。楽しそうに笑うその顔は、残酷なほどに変わらない。
「……姉さん、どうしてだよ。」
なんで、あいつなんだ。なんで、俺の前に現れたんだ。運命なんて言葉で、片付けていいはずがない。
写真立ての横にあった日記帳に、自然と手が伸びる。最後のページに、震えるような文字で書かれた一文があった。
『もし私がいなくなっても、そーちゃんはちゃんと前を向いて、自分の幸せを見つけてね。私のことで、立ち止まっちゃダメだよ。』
それは、姉さんの最後の願いだった。姉さんは、自分の存在が、俺を縛り付けることなんて望んでいなかった。俺が、俺自身の人生を歩むこと。それを、一番に願っていた。
「……勝手だよ、姉さん。」
涙が、一筋だけ頬を伝った。過去と向き合う準備が、ようやくできた気がした。
翌日、俺は決意を固めて病院へ向かった。
花音の病室のドアを、ゆっくりと開ける。
ベッドの上で体を起こしていた彼女は、俺の姿を認めると、少し痩せてしまった顔に、それでも精一杯の花を咲かせた。
「あ、そーちゃん! 来てくれたんだ!」
はにかむように、嬉しそうに笑う、その顔。
それはもう、姉の面影なんかじゃなかった。紛れもない、「朝霧花音」自身の笑顔だった。
その瞬間、俺の中の全ての迷いが、音を立てて消えていく。
そうだ。俺が守りたいのは、姉さんの思い出じゃない。今、目の前で生きている、この笑顔だ。
俺は、花音に真実を話さないと決めた。ただ、今までより少しだけ素直になって、彼女と時間を過ごした。
「退院したら、どこか行きたいところあるか?」
「え? うーん、遊園地とか、行ってみたいな」
「……絶叫系は平気なのかよ」
「そーちゃんが一緒なら、平気かも!」
花音はそう言って笑うと、一瞬だけ、微かに胸元を押さえた。俺が「どうした?」と尋ねるより早く、彼女は誤魔化すように首を振る。
「ううん、なんでもない! それより、ポップコーンは絶対キャラメル味ね!」
そんな他愛ない未来の話が、ひどく尊いものに感じられた。
だが、その穏やかな時間は、けたたましい電子音によって引き裂かれた。
花音の心拍を告げるモニターの波形が、乱れている。花音は苦しそうに胸を押さえ、ぜ、ぜ、と浅い呼吸を繰り返す。
「花音!」
ナースコールを押すと同時に、医師や看護師が駆け込んできた。「遠野くんは外に!」という怒声に背中を押され、俺はなすすべもなく、病室の外へ弾き出された。
医師から告げられたのは、絶望的な言葉だった。深刻な拒絶反応。緊急手術が必要だが、成功率は決して高くない、と。
手術室のランプが、無慈悲に赤く灯る。花音の両親と共に、俺はただ祈ることしかできなかった。
(姉さん、頼む。あいつを連れて行かないでくれ)
心の中で、姉に語りかける。
(あいつは、あんたの代わりじゃない。俺にとって、かけがえのない……大切な、女の子なんだ。)
長い、長い時間が過ぎた。
手術室のランプが消え、出てきた医師は疲れ切った顔で、だが確かにこう言った。
「……峠は、越しました。」
数日後、俺は再び花音の病室のドアの前に立っていた。
深く、息を吸う。中に入ると、花音は静かに眠っていた。その顔色は、以前よりもずっといい。
医師から後遺症の可能性として、一時的な記憶障害もあり得るとは聞かされていた。だが、その事実がこれほど鋭く胸を刺すとは、思ってもみなかった。
俺がベッドの横の椅子に座ってしばらくすると、彼女はゆっくりと目を開けた。
「……花音。」
俺が呼びかけると、花音はぼんやりとした瞳で、俺の顔をじっと見つめた。そして、小さく首を傾げる。
その仕草に、俺は全てを察した。
「……あの、どちら様、ですか?」
心臓が、一度だけ大きく跳ねて、そして静かになった。
ああ、そうか。
姉さんが遺した最後のアリアは、その役目を終えて、天に還っていったんだ。
金木犀の木の下での出会いも、教室での昼休みも、オルゴールの曲も、俺のあだ名も。今の彼女は、もう何も覚えていない。
込み上げてくる切なさを、喉の奥でぐっと堪える。そして俺は、できる限りの優しい笑顔を作った。
「俺は、遠野想介。君と同じ高校の、ただの先輩だよ。」
そう言って、手を差し出す。
「初めまして、花音。」
ゼロから始まる、俺と彼女の、本当の物語。
それは、奇跡が起こした悲しい出会いの終わりであり、二人の未来を奏でる、温かいアリアの始まりだった。
窓の外の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
【4話 Bルート:君が遺したアリア】
歩道橋の上でどれくらいの時間、へたり込んでいただろうか。街が完全に夜の色に染まった頃、俺は幽霊のような足取りで自宅へ帰り、吸い寄せられるように姉さんの部屋のドアを開けた。
机の上に置かれた、姉さんの写真立て。楽しそうに笑うその顔は、残酷なほどに変わらない。
「……姉さん、どうしてだよ。」
なんで、あいつなんだ。なんで、俺の前に現れたんだ。運命なんて言葉で、片付けていいはずがない。
写真立ての横にあった日記帳に、自然と手が伸びる。最後のページに、震えるような文字で書かれた一文があった。
『もし私がいなくなっても、そーちゃんはちゃんと前を向いて、自分の幸せを見つけてね。私のことで、立ち止まっちゃダメだよ。』
それは、姉さんの最後の願いだった。姉さんは、自分の存在が、俺を縛り付けることなんて望んでいなかった。俺が、俺自身の人生を歩むこと。それを、一番に願っていた。
「……勝手だよ、姉さん。」
涙が、一筋だけ頬を伝った。過去と向き合う準備が、ようやくできた気がした。
翌日、俺は決意を固めて病院へ向かった。
花音の病室のドアを、ゆっくりと開ける。
ベッドの上で体を起こしていた彼女は、俺の姿を認めると、少し痩せてしまった顔に、それでも精一杯の花を咲かせた。
「あ、そーちゃん! 来てくれたんだ!」
はにかむように、嬉しそうに笑う、その顔。
それはもう、姉の面影なんかじゃなかった。紛れもない、「朝霧花音」自身の笑顔だった。
その瞬間、俺の中の全ての迷いが、音を立てて消えていく。
そうだ。俺が守りたいのは、姉さんの思い出じゃない。今、目の前で生きている、この笑顔だ。
俺は、花音に真実を話さないと決めた。ただ、今までより少しだけ素直になって、彼女と時間を過ごした。
「退院したら、どこか行きたいところあるか?」
「え? うーん、遊園地とか、行ってみたいな」
「……絶叫系は平気なのかよ」
「そーちゃんが一緒なら、平気かも!」
そんな他愛ない未来の話が、ひどく尊いものに感じられた。
だが、その穏やかな時間は、けたたましい電子音によって引き裂かれた。
花音の心拍を告げるモニターの波形が、乱れている。花音は苦しそうに胸を押さえ、ぜぇぜぇと浅い呼吸を繰り返す。
「花音!」
ナースコールを押すと同時に、医師や看護師が駆け込んできた。「遠野くんは外に!」という怒声に背中を押され、俺はなすすべもなく、病室の外へ弾き出された。
医師から告げられたのは、絶望的な言葉だった。深刻な拒絶反応。緊急手術が必要だが、成功率は決して高くない、と。
手術室のランプが、無慈悲に赤く灯る。花音の両親と共に、俺はただ祈ることしかできなかった。
(姉さん、頼む。あいつを連れて行かないでくれ)
心の中で、姉に語りかける。
(あいつは、あんたの代わりじゃない。俺にとって、かけがえのない……大切な、女の子なんだ。)
永遠のように感じられた時間の果てに、手術室のランプが消えた。
だが、出てきた医師の表情は、憔悴しきっていた。彼は俺たちの前で深く頭を下げ、絞り出すように言った。
「……申し訳、ありません。我々には、これが限界でした。」
その言葉の意味を、頭が理解することを拒んだ。隣で、花音のお母さんが崩れ落ちるのが、スローモーションのように見えた。
医師の特別な計らいで、俺は、意識が消えゆく花音と最後の言葉を交わすことを許された。
無数の管に繋がれた彼女は、驚くほど穏やかな顔をしていた。俺がベッドのそばに立つと、彼女はゆっくりと目を開け、か細い声で俺を呼んだ。
「……そーちゃん。」
その声が真実か幻かなんて、確かめる術も意味もなかった。
「ああ、俺だ。ここにいる。」
「来てくれたんだね……。もう、行かなくちゃ」
「行くな!」
叫びが、喉から漏れた。
「行くなよ、花音……! 遊園地、行くんじゃなかったのかよ……!」
俺の涙を見て、花音はふわりと、天使のように微笑んだ。それは、俺が今まで見たどんな笑顔よりも、優しくて、そして悲しい笑顔だった。
「ごめんね。……でも、想介くんに会えて、よかった」
彼女は、はっきりと俺の名前を呼んだ。
「……お姉さんに、よろしくね。」
その言葉を最後に、花音は静かに目を閉じた。
ピッ、という無機質な電子音が、彼女の命の終わりを告げていた。
花音が死んで、俺の世界からは再び、色が消えた。
結局、俺は何も守れなかった。授業で教師が話す声は意味のない音の羅列になり、昼に食べるパンは砂の味がした。無力感だけが、冬の冷たい空気のように肺を満たしていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
春の兆しが見え始めた三月。俺は自室で、姉の、そして花音の思い出の品になったオルゴールを、ぼんやりと眺めていた。
そっと蓋を開けると、あのアリアが流れ出す。
澄んだ、けれど物悲しい、優しいメロディ。
その音色を聴きながら、花音の最後の言葉を思い出す。
『お姉さんに、よろしくね。』
あの言葉は、呪いなんかじゃなかった。絶望でもなかった。
姉(過去)と花音(現在)を繋ぎ、遺される俺(未来)に、生きてほしいと願う祈りだったんじゃないか。二人の命の輝きを、忘れないでほしいという、最後のメッセージだったんじゃないか。
涙が、頬を伝った。でも、それは冬の間の涙とは違う、温かい涙だった。
俺は、立ち上がる。
姉さんが遺した想いも、花音が遺したアリアも、そのすべてをこの胸に刻んで、生きていく。
それが、俺が二人に応える、唯一の方法だから。
卒業式の日。俺は一人、中庭の金木犀の木の下に
立っていた。
固い枝の先には、春の訪れを告げる小さな緑の芽が、力強く芽吹いている。
空を見上げると、どこまでも青い空が広がっていた。
「……見てるか、二人とも。」
答えはない。だが、それでよかった。
空を見上げた彼の口元に、いつしか涙の跡によく似た、微かな笑みが浮かんでいた。
最後まで『Last Aria』を読んでいただき、誠にありがとうございました。
作者の理瑠です。
遠野想介と朝霧花音、二人が奏でたアリアは、あなたの胸にどのように響きましたでしょうか。
「もしも、亡くなった大切な人の一部が、世界のどこかで生き続けているとしたら──」
この物語は、そんな空想から始まりました。「セルラーメモリー」という不思議な現象を知った時、それは単なる奇譚ではなく、命の繋がりや人の想いを描くための、切なくも美しい舞台装置になるのではないかと感じたからです。
失われた光と、新しく灯る光。その間で揺れ動く少年の心を通して、喪失と再生の物語を描きたい、というのが本作を執筆した一番の動機でした。
本作では、最後に二つの結末を用意させていただきました。
Aルート『はじまりのアリア』は、過去の記憶から解放され、ゼロから本当の関係を築いていく二人の「希望」の物語です。
一方、Bルート『君が遺したアリア』は、逃れられない喪失を受け入れ、遺された者がその想いを胸にどう生きていくか、という「再生」の物語です。
どちらかが正史というわけではなく、どちらも私にとっては大切で、真実の結末です。
あなたが選んだ、あるいは心に残った結末が、あなたにとっての二人の物語であればと願っています。
この物語が、あなたの心に少しでも温かい何かを残すことができたなら、作者としてそれ以上に嬉しいことはありません。
二人の奏でたアリアが皆様の心にどう響いたのか、もしよろしければブックマークや評価、一言の感想などで教えていただけますと、作者としてこれからの活動の大きな励みになります。
想介と花音、そして花凪の物語に最後までお付き合いいただけたこと、心より感謝申し上げます。
またいつか、別の物語の世界であなたとお会いできることを楽しみにしております。
本当に、ありがとうございました。
人気でれば長編で書きます
理瑠