こちら、神絵師の腕でございます
短編のサイコホラーSF(?)作品になります。
暴力表現などが苦手な方はご注意ください。
「――この人がいい」
月明かりを恃む薄暗い一室。
言って青年が見せた作業机のモニターには、とあるSNSアカウントが映し出されていた。遠目からでも分かる、見慣れたそのレイアウト。
覗き込んだ女性の端整な顔つきが、青白い光に照らし出される。
「この方は?」
「ぼくが一番尊敬してる神絵師さん。ほら見て、フォロワーの数もすごいんだよ」
「……本当ですね、名実ともに素晴らしいイラストレーターだと見受けられます」
整然としたプロフィール欄。
ライトノベルの挿絵やソーシャルゲームのキャラクターイラストなどが実績として並ぶ、誰もが認める売れっ子絵描きだ。六桁のフォロワー数にも文句の付けようがない。
青年の視線がモニターから外れ、女性のほうへ椅子を回して真っ直ぐ見上げる。
「この人みたいな絵が描きたいんだ」
「左様でございますか」
純朴な双眸を輝かせる青年の様子に、女性の口角は幽かに吊り上がった。
「では、この方でよろしいのですね」
パソコンのファンの音さえ耳を触る静寂の中、青年の無邪気なまでの微笑みはいっそ不気味に映える。
「うん、……この人の腕がたべたい」
***
霧雨が音も立てずに降りこめる静かな昼前――の、はずだったのだが。
ドアを閉めていても廊下に漏れるような轟音が鳴り響いた。
ちょうど部屋の前まで赴いていた鋏楽櫻が、ゆっくりと扉を引く。
「……いかがなさいましたか、紙坂先生」
鋏楽が目にしたのは、椅子ごとひっくり返った状態の青年だった。さっきの轟音の正体が一目で分かる光景である。
先生などと大層な敬称で呼ばれたのは、年端もいかない青年の身で漫画を生業とする紙坂賢だ。ただでさえ若いうえに童顔気味のその面差しは、脱力したまま天を見上げている。いつもどおりのヨレヨレの服と乱れた髪からは、一切の覇気が感じられない。
「……おちた」
「…………」
鋏楽は小首を傾げて、うんざりとした様子の紙坂を無言のまま見下ろす。
彼女はというと、機能性を求めた家政婦のような服装だ。ボブに切り揃えられた黒髪だが前髪は長く、利き目である左目にかかった部分を払うのが癖になっている。
「また落ちちゃった、コンテスト。一次選考も通らなかったよ。小さいコンテストなのに」
ぼそぼそと力なく呟く紙坂を尻目に、鋏楽は数歩部屋に入ってモニターに目をやった。
あまり耳にしないレーベルのコンテスト――その一次選考通過者の一覧のようである。そもそも参加者が少ないのか、数名しか名前が載っていない。紙坂の言うとおり、その中に彼のペンネームである【薄学才A】の文字はなかった。
四字熟語の〝博学才穎〟をもじり、「勉強ができなくても漫画の才能ではAを取る」という思いを込めたペンネームらしいが、もうずっとA評価がもらえるような実績は出せていない。
「きっと私の実力不足です。お力になれず申し訳ございません」
セリフに反して相も変わらず感情の籠らない鋏楽の声音に、ようやく紙坂はむくりと起き上がった。写真映えする寝癖並みに髪が逆立っている。
「そんなことないよ。鋏楽さんはぼくよりずっと優秀なアシスタントさんだもん。ぼくが漫画家として生煮えなだけ」
「生煮えの漫画家は、中学一年生で史上最年少の新人賞受賞者にはなり得ないと思いますが」
よいしょ、と呟きながら椅子を立てて、紙坂が腰を下ろした。
中学一年生で史上最年少の新人賞受賞――それが、彼を漫画家たらしめる実績である。プロ顔負けとまでは行かずとも、若さゆえの奇想天外な発想と編集者の手腕が上手くマッチしたことで、最年少という付加価値を携えて一世を風靡した。
鋏楽が紙坂を知ったのも、当然ながらその最中のことだ。
一息ついた彼の前に、鋏楽が手にしていたファイルが差し出された。
「こちら、頼まれていた次回作のキャラクター案です」
「わ、ありがとう」
ブレインストーミングの要領で鋏楽がラフを描き並べた資料に目を通しながら、紙坂が続ける。
「新人賞を獲ったのは、もう六年も前のことでしょ。当時は話題になったけど、今はもうオワコン。とっくに終わったコンテンツだよ」
「私は、先生の才能を信じております」
「鋏楽さんだけだよ、そう言ってくれるのは。石嶺だって、ぼくのことなんて眼中にもないと思うよ」
突然出てきた名前に、鋏楽は表情を固定したまま記憶を辿っていく。初めて聞く名ではない。
「石嶺様――たしか、中学の頃のご学友でしたか」
「ごがくゆう……?」
「ご友人という意味です」
「あぁうん、そう。趣味が同じだったから仲良かったんだ。石嶺は、今は同人界隈でそこそこの有名人なんだよね」
企業を通さずに自費で作品を創作・販売するのが、いわゆる同人活動である。
「左様でございますか」
紙坂は中卒だ。漫画制作にばかり没頭して勉強に身が入らず、実際処女作がヒットしたことで稼ぎもあったため、諸々計上して高校には進学せず漫画を描き続ける道を選んだ。
その選択は自動的に交友関係の構築機会を擲つこととなり、同級生が大学に通う歳になった今でも友人と呼べるのは石嶺だけだ。
ふと、資料に目を落とす紙坂がうっすらと笑んだ。
「石嶺だけは、心の隅にぼくを置いてくれていたらいいな……」
「…………」
年頃の少年少女が友情に縋りつくゆえか、忘れられることを厭う表現者の性ゆえか。その表情にはどこか切実な願いが込められているようだった。
例によって心身の変化に乏しい鋏楽が無言のまま佇んでいると、あ、と紙坂が声をあげた。何かを思い出した様子で資料を机に置く。
「……そういえば、神絵師さんの腕のことはどうなったの?」
紙坂本人は声の調子すら変えずにけろっと問うたが、鋏楽の心中含め部屋の空気が数段張り詰めた。
言わずもがな、紙坂は理解しているはずなのだ。自分が口にした事象に、神絵師の腕をどうすることが含まれているのか。その神絵師を、どうすることを指しているのか。
分かったうえで、眉ひとつ動かさず純粋に言及している。
軽蔑に熱を奪われた瞳を悟られないよう、鋏楽はひとつ咳払いをした。
「元々、その準備が整った旨をお伝えに参るところでございました」
「え、……ってことは、」
「お昼時ですし、お食事になさいますか? 本日は特別なランチをご用意しております」
「やった……!」
気色の悪いお方ですね――と、思わず零しそうになった。
ゲーム機を買ってもらった子供のようにはしゃぐその姿を見ないよう目を伏せて、鋏楽は支度のために一度部屋を出る。彼女の言葉どおり、ドアを抜けたそこにはすでにサービスワゴンが用意されており、クロッシュを冠するプレートを手に取った。
鋏楽自身も、自分が何をしているのかは分かっている。己が意思で行っていることで、その行為に不快感を覚えない自分がネジの外れた人間であることも自覚している。
それでも、こんなことを嬉々として受け入れる青年に対して、侮蔑の念を抱くなというのは不可能に等しいものだ。
部屋に戻った途端にクロッシュを見て笑顔を咲かせた紙坂のことを、だから彼女は努めて目に入れないようにした。
「――こちら、神絵師の腕でございます」
言って、鋏楽が机にプレートを置いた瞬間、紙坂は卓上に広がっていた漫画道具一式を横へと払い除けた。もちろんそこには先ほどのキャラ案のファイルもあって、乱雑に退けられたことで床へと散乱する。
さしもの鋏楽も、僅かに双眸を眇めた。
別に払い除けられたくらいで気分を害するほどその資料に思い入れもないし、柔でもない。ただただ、漫画家の命であるはずの画材を粗末に扱えてしまうほどこれにご執心な紙坂のことが、気持ち悪くて仕方がなかった。
クロッシュを持ち上げて、部屋の空気が一気に冷えたような感覚。
ヴェールを剥ぎ取られたそこ。紙坂の輝く瞳が釘付けになったそこ。
黒褐色に焼け焦げた、右腕。
「わぁ……! これ、ほんとにあの人の腕なの!?」
前腕半ばで断ち切られた人の腕を前にして、彼はそんな第一声を放った。
――常識の破綻。感性の異常。倫理観の欠如。
言ったところで、仕方のないことだ。
「えぇ、間違いなく、先生が尊敬する絵師様のものでございます」
「おぉ……! うわ、臭っ!」
じぃ、と顔を近づけて観察していた紙坂が、鼻を摘まんで飛び上がった。涙目になって軽く咳き込んでいる。
「人肉には比較的強い臭みがありますので、苦手なようであればあまり嗅がないことをおすすめいたします」
「……こんなもの、ほんとに食べれるの?」
遅れ馳せて警戒心を抱いた紙坂に、鋏楽の音のない冷笑。
「今さらですか。召し上がらないのであれば廃棄いたしますが」
「いや、待って! ……これを食べれば、ほんとに絵が上手くなる?」
「えぇ、いわゆる同物同治に近いものです」
同物同治。肝臓が悪ければレバーを食べろ。
神絵師の腕を食べるというのは、だからイラストの腕を上げたいという絵描きの願いを表した言葉だ。あくまでただのジョーク――の、はずだったもの。
「……ただし、召し上がる前にこちらを注射する必要があります」
言いつつ、サービスワゴンから一緒に手に取っていた一本の注射器を掲げた。
実験用ではなく、医療用。針を備えた原物。
中には、若干緑がかった毒々しい液体が湛えられている。素人目にも分かる、冗談では済まない代物だ。
怪しい液体と注射針は見るからに物騒がしく、紙坂が若干肩を強張らせた。
「なにそれ?」
「RNA継承剤――通称リボヘリンと呼ばれる薬物です」
「リボヘリン……」
譫言のように復唱する紙坂は、高校を出ていないためおそらくRNAさえ初耳だろう。すでに彼の理解が追いついていないことは見て取れたが、鋏楽は気に留めることなく言葉を続ける。
「記憶痕跡RNA説。……プラナリアやアメフラシは、身体の一部を移植あるいは共食いすることによって、記憶が継承されることが確認されています。そのことから、記憶はRNAに保存されているのではないかとされる仮説です」
「…………」
「リボヘリンは、それを人間で再現することができる違法薬物です。表社会の人間は、たとえ専門の研究者でも存在を知りません。……これを人体に注射することによって、経口摂取を介してその者の記憶や能力の一部を継承することが可能となります」
淡々と説明を連ねる鋏楽に対し、紙坂は難しい顔をして首を傾げ続けていた。
そもそもこの分野は未だ研究段階であり、どの説も有無を言わせないほどの説得力を有しているとは言えない。リボヘリンの出回っていない表社会では、記憶痕跡RNA説自体はまだまだ広大な伸びしろが残されているものだ。
そんな、難解かつあやふやな議題を、素人が説明して素人が理解できるはずもないのである。
果たして、紙坂は諦めたらしく開き直って眉間の力を抜いた。
「……ぼく、そういうのはよく分かんないや。ただ、これって食べても大丈夫なの?」
「リボヘリンには、人体に含まれるプリオンを変性させる効果が含まれております。これによって、人肉を食した際に引き起こされるクールー病の発症リスクを極限まで抑えることが可能です。十中八九、死のリスクはないかと」
もはや横文字は紙坂の耳に残ってすらいない。致死性がないという結論だけ拾えていれば十分だ。
「そっか、じゃあ安心だね! ちょっと怖くなってたけど、ぼく食べるよ」
先ほどの警戒も完全に解いてしまって、紙坂は笑顔で居住まいを正した。
いまや、彼には目の前の腕が美味しそうに見えているのではないだろうか。希望に満ち溢れた目をしている。
「左様でございますか。……では、リボヘリンを注入いたします」
「うん、お願い!」
鋏楽は調理済みの腕に針を刺し、中の液体をゆっくりと流し込んだ。
見た目の変化は一切ないが、たったこれだけでこの腕にはとてつもない変化が起こっているのである。そして、これからとてつもない変化をもたらすのだ。
さて、お膳立てが整った。
「では、どうぞお召し上がりください。人生を変える片道切符でございます」
ごくりと大仰に唾を呑み干して、紙坂は薄気味悪いほど丁寧に手を合わせた。
「……いただきます」
*
――しばらく時を跨いだ、ある日。
懐かしい名前からの着信があった。
『――おい紙坂、お前最近すごい勢いだな!』
「いやぁありがとう。まさか石嶺のほうから電話してきてくれるなんて思ってなかったよ」
『そりゃするよ、お前今有名人なんだぞ』
「それほどでもないよ。石嶺みたいに、固定ファンがたくさんいるほうがすごいと思うな」
『謙遜するなよぉ。今の俺とお前じゃ、天と地の差があるんだからよ』
「いやまぁ、ありがとね」
『でも、お前一年くらい前から急に才能開花したよな。特に、絵の技術が別人ぐらい上達してんじゃねぇか。なんか特別な練習でもしたのかよ?』
親切心と優越感。どちらが強かったかは分からない。
「ん、あぁ、それはね――……」
*
早足で部屋へと向かう小さな足音。傘をさしていたのにずぶ濡れになってしまって、珍しく裸足だ。
「先生、買い出しから戻りました」
急いでいても息ひとつ上がらない鋏楽が、部屋に入ってレジ袋を突き出した。
「あ、その辺に置いといて」
「頂いていた原稿に背景を入れて先ほど送信しておきました」
「鋏楽さんが買い出し行ってる間に新しい原稿送ったからベタやっといて」
「かしこまりました」
平常時に比べて五割増しくらいの会話のスピード。
その言葉の応酬は、この頃の忙しさをありありと語っている。
「あ、そうだその前に、担当さんに電話折り返すことになってるから、お願いできるかな。この電話使っていいから」
言って、業務用の電話を指差す紙坂。レジ袋の中身を選別しながら鋏楽が答える。
「構いませんが、要件は」
「聞いてない。そこからお願い」
「かしこまりました。メモだけ扉に貼っておくので後で確認しておいてください」
「分かったから電話お願い」
単なる会話の速度だけでなく、言葉遣いに乱れが出るほど余裕がない。
そんなこんなで、一日が凄まじい速さで流れていく毎日。
慣れた今では嬉しい悲鳴だなんて言っていられるが、はじめの頃は睡眠不足と腱鞘炎でふたりとも死に物狂いだった。どんなことでも涼しい顔で卒なくこなす鋏楽でさえ、軽く隈を浮かべてデスクにしがみついていた。
――今日も今日とて目まぐるしい一日を終え、夜の紙坂の部屋。
「いやぁ、今日も疲れたね」
冷えた缶を受け取って、紙坂が嘆く。
「そうですね。私も忙殺されて休む間もありませんでした」
「疲れてるなら立ってなくていいよ。ベッド座っていいから」
「失礼します」
あまり綺麗とは言えないベッドだが、座るくらいならと腰を下ろした。
ふわっと尻が沈んだ感覚だけで、軽く眠気が襲ってくる。それまで気になっていなかった前髪に意識が留まり、いつものように左目にかかる部分だけ横に払った。
「買い出しも悪かったね。おかげで仕事終わりの一杯ができるよ」
「仕事のうちですので、お気になさらず」
開栓の快音。
「はぁ~沁みる」
紙坂が飲み進める傍らで、鋏楽も束の間の休息を嗜む――無表情に変わりはないが。彼女は酒を飲まないため、こうして腰を下ろしているだけで最上級のヒーリングだ。
それから数分、缶の大半が飲み干される頃まで、互いに無言が続いた。
窓の向こうには闇と嵐。
時計の短い針は、そろそろ九を指そうとしている。
「……ねぇ、鋏楽さん」
その、紙坂の声音は。
「はい」
鋏楽が警戒態勢を敷くのに十分なほど、冷え切っていた。
「溜まってるんだけど」
「…………」
鋏楽は、座ったまま目線を落として無言だ。
ここ数ヶ月、たまにこうなることがある。
彼が何を意図してその言葉を口にしているのか、このあと何を言われるのか、想像がついていた。
無視をされた紙坂は、当然不愉快そうに息を漏らす。
「ねぇ、聞いてんの? 溜まってるからすっきりさせてくれって言ってるんだけど」
「……何のことか、私には分かりかねます」
転瞬。
「性欲が溜まってるから処理しろっつってんだよ!」
普段の――かつての彼からは想像もつかない怒声が、部屋に響き渡った。
反響は気持ちの悪い沈黙を残して去り、次第に窓越しの雨音が部屋を満たし始める。
その気迫に怯むことも内容に顔を顰めることもせず、鋏楽は遠い目を俯かせながら冷然とした態度を崩さない。
「……随分、乱暴なことをおっしゃいますね。私がどう反応するとお思いで?」
「今、誰のおかげで食ってけてると思ってんの?」
「…………」
大きな変化はないが、彼女の目の奥には確かに呆れが生まれている。
「ぼくが描いた漫画のおかげであんたはアシスタントしてるだけでよくなったんでしょ。他の細々したバイトも全部辞めてぼくの実績にしがみついている分際で、それくらいのこともできないの」
鳴かず飛ばずだったこれまでのことを棚に上げた、傍若無人な物言い。
数秒、上手く溜息を吐き出すために使って。
鋏楽は、ゆっくりと口を開く。
「…………リボヘリンは、記憶などの情報の継承を可能にする薬物です」
「は?」
鋏楽の右手が動く。
「これは、先生の餌にした絵師様の性格まで調べていなかった私の落ち度ですね」
「なに言ってんの」
鋏楽の足が動く。
「もう、ここまでだということです」
そこからは、まさに目にも留まらぬ早業だった。
背後に隠し持っていた鉈を握りしめて立ち上がり、酒で弛緩しきっている紙坂のもとへ接近、机に預けていた彼の右腕に。
――ひと振り。
この一連の動作で、一秒かかったかどうか。
ひとつ瞬いた頃には、鉈の刃が天板を殴りつけた爆音が空気に溶け終わっている。
当人が事態を把握して反応を引き出してくるまでには、さらに少しかかった。
「うわあああぁぁぁぁああ――ッ!!」
耳を劈く大絶叫。
ちょうど右腕の前腕半ば――血が噴き出す断面を必死に握って喚く紙坂を、鋏楽は持ち前の冷え切った双眸で見下ろした。
「多少調子に乗ることは想定しておりましたが、まさか性格の継承によってここまで変貌してしまうとは思っておりませんでした」
「な、なにをして――ぁぁあッ!」
荒れた呼吸と絶叫でまともに話せていない。本人は一生懸命傷口を握りしめているようだが、その断面からは波打ちながら血液が流れ出している。机上に収まらなくなった血の海は、細い滝を何本も伸ばして床に降り注ぐ。
「見てのとおり、あなたの右腕を切断させていただいただけでございます。一年ほど前にもこなした仕事ですので、そう驚くことでもないかと」
「な、なんで……! 鋏楽さんはぼくのアシスタントで……っ!」
ふふ――と。
鋏楽櫻が、嗤った。それはそれは愉しそうに。ご機嫌に。
「私が、本当にただただ純粋な気持ちで、あなたの傍にいたとお思いですか?」
「え……?」
「私が、善意で、好意で、あなたに自宅を事務所として提供したとお思いですか? 過去の栄光しか持たない六つも下のガキを、アルバイトを掛け持ちしてまで養っていたとお思いですか? あなたにそれだけの価値があると、お思いになられていたというのですか?」
「なにを、言って……!」
紙坂賢の失脚も明白となった頃。鋏楽は、アシスタント志望の連絡を入れた。
自宅を事務所兼居候先として提供し、衣食住全てを養うという破格の条件。ほとんど路頭に迷っていたような状態だった紙坂は、お得意の警戒心ゼロの純情に身を任せ、その提案に乗った。
それから数年、一作も書籍化できない紙坂はただのヒモであり続けた。処女作の栄光が、ただのまぐれだったという現実から目を逸らしながら。
「アシスタントを志願したそのときから、あなたはずっと私の餌に過ぎません。私がしていたのはあなたの補佐ではなく、飼育でございます」
紙坂の目元から、刻々と生気が抜けてきている。喘ぐばかりで言葉を紡げない彼を捨て置き、話は続く。
「この世には、バームクーヘンを食べて育つ豚がいます。人間が美味しい肉を食べるために、バームクーヘンなどという上等な飼料を与えられているのです。他にも、ぶどうやオリーブ、ビール、りんごといった餌を与えられている牛も存在します。偏に、将来自分の餌になるものへの初期投資。妙味のための必要経費」
初期投資で、必要経費で、帰するところ自己投資。
「……私にとっては、あなたにリボヘリンなどという入手困難な餌を提供することが、まさにその初期投資――必要経費だったのです」
「そんな……最初から、」
「最初から、あなたの成長は私の餌の熟成にすぎません。純真無垢で人を疑わず、挙句人並みの嫌悪感さえ持たないその行き過ぎた無頓着のおかげで、餌やりは至って簡単でした」
遠のく意識と、そのなけなしの意識さえ曇らせる絶望。鋏楽の視線の先で、紙坂はみるみる弱っていく。
いつの間にか涙を流している彼が、細い声を絞り出す。
「だったら、わざわざぼくに腕を食べさせずに、鋏楽さんが食べていればよかったんじゃ……」
机に突き刺さったままの鉈を、鋏楽の細腕が力任せに引き抜いた。刃に付いていた血液が飛散し、壁に赤い飛沫を描く。
「リボヘリンの存在を知ったときは、もちろん、自分のために使う予定でした。一度諦めた夢が再燃したくらいでしたから。ただ――これは至極簡単な話で、あなたの伸びしろを買ったのです。一旦あなたを経由したほうが、結果的に私の成長の幅が大きくなると踏んだに過ぎません」
言い終わると同時に、赤く染まった鉈を紙坂の肋めがけて振り抜いた。
「あっ……うぐぅ……ッ!?」
人体に刃を通すとき特有の不快極まりない感触。女性の腕から出たとは思えない馬鹿力。
痛みに目を見開いた紙坂は、腕の止血をする気力も失ったようで、ぐったりと机に突っ伏してほとんど動かなくなった。涙の水溜まりを作って、か細い息を繋いでいる。
「弱肉強食は、自然界だけでなく社会の中にも存在します。そして、盛者必衰の理と競合する。強者がいつまでも強者でいられるとは限りません。……ただし、強者の器を持つ者は確かに存在する」
「う……」
深々と刺さった鉈を引き抜いて、溢れ出る血液。
「私がこうしてあなたを喰らい、強者に君臨することは世の理なのです」
「きょうらく、さん……」
最後の力を振り絞って、紙坂の喉が鳴る。
良くも悪くも、底抜けに純粋な彼は、たったひとりのアシスタントを心から慕っていたのだろう。人の悪意を知らず、疑うことを知らず、ただただ親切なお姉さんとして敬愛していた。
それを好都合としか捉えていなかった鋏楽は、だから最期まで、情けをかけることはない。
「神絵師の腕などではなく、天才学者の脳でも食べていれば結末は変わっていたかもしれませんね」
「がっ――」
振り上げた得物が首を両断するのに、数秒の猶予もなかった。
「せめて、美味しく頂いてあげましょう。……約束された成功を、至高の調味料にして」
***
「――続いてのニュースです。昨晩、県内の住宅で鋏楽櫻さんを殺害したとして、同人作家の石嶺遼容疑者が逮捕されました。遺体は右腕が切断されており、警察の調べに対し石嶺容疑者は『下剋上で世間に栄光を見せつけたかった』と供述しているとのことです。現場からは薬物の付着した注射器が発見されており――……」
最後までお読みいただきありがとうございました。
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