3–2 稲瀬さんと俺の過去
場所を移し、教室から一番近い階段の踊り場。
「それで、真剣に勝負っていうのは?俺は特進科の子と張り合えるほどの成績じゃないんだけど…」
実際に全教科の平均で言うと80点いくかいかないかぐらいだ。特進科の中の最上位、全教科で9割以上を取るような化け物と戦うには少し心もとない。
「いや、それは嘘よ」
「え?」
しかし、彼女は毅然と俺の発言を否定した。
「あなた、中学のときに成進塾に通っていたでしょう?」
言い当てられて、俺は少し動揺した。これでも中学のときは本気で医者を志していたため、ガリ勉だったのである。今点がそれなりに取れているのもその時のおかげ。
ちなみに自慢ではあるが、そこに通っていたとき模試等でずっと塾生内一位を取り続けていた。俺すごい。
「確かに3年の途中まで通ってたけど…なんで知ってるの?」
「私も通ってたからよ」
「そうなんだ」
何気なく俺は相槌を打った。なるほど。それならば知っていてもおかしくない。
だが、その相槌はまずかったらしい。
「…やっぱり、私のことは眼中になかったってこと?」
「え?」
「そうよね。ずっと一位を取りたくて、頑張って頑張ってそれでも届かなくて、挙句勝ち逃げされた私のことなんて、一位の当人からすれば取るに足らない存在よね」
「…」
さっきのは自慢でもなんでもない。そんなものにはなり得ない。彼女の目を見てそう思った。
「高校生になって、特進科にあなたの名前がなかったから、どこかもっとレベルの高い進学校に行ったのだと思い込んでた…でも違った。あなたは普通クラスにいた。なんで、なんであの塾を途中でやめたの?なんで特進科にいないの?なんで簡単に一位を譲ってるの!?」
「いや…それは…」
彼女のあまりの剣幕に少したじろいだが、俺は説明の必要性を感じて、その理由を語り始めた。
「…俺さ、元々医者目指してたんだ。人生を全部勉強に捧げてたし、親もその頑張りを見てくれてて、塾にも行かせてくれた」
「…」
俺は声のトーンを落としてそれを告げた。
「だけど、中3の途中で…両親が事故に遭って亡くなった」
「え…?」
彼女はそれを聞いて動揺した。
忘れもしない。中3の12月24日。塾から家に帰ったときに妹が泣き腫らしており、何があったと聞いたとき、
『お父さんと…お母さんが…』
買い物の帰り道で飲酒運転のトラックに轢かれ、二人は二度と帰って来なかった。その翌日に、枕元にプレゼントが置かれていなかったことをよく覚えている。
「そんなこんなでさ、経済的、精神的な理由で塾はやめたんだ。特進科にいないのは後者の理由から。勉強とその出来事が結びついちゃって、家でしようとしてもできないんだよね」
「…そんな背景があったのね」
俺の話を聞き終えた彼女は、少し気まずそうに視線を逸らした。
「入学当初とかは酷かったよ。誰とも話せなかったし。今は友達のおかげで、大分回復してるけどね」
実際龍一にイタズラを仕掛けるくらいには心に余裕ができている。そのせいで諸問題が発生しているのだが。
「…ごめんなさい、軽率に聞いてしまって」
「いや、いいよ」
「…」
やばい。気まずい。話すべきではなかったかもしれない。なんせまだ笹川さんや龍一にも話していないことなのだ。
しばしの沈黙。しかし彼女はやがて意を決したように口を開いた。
「…それでも私は、本気のあなたともう一度戦いたい。じゃなきゃ、いつまでもこの劣等感は消えることがないから」
確かに、結果的に彼女に対して勝ち逃げをしたのは事実だ。それに対するけじめをつける必要があるかもしれない。
「…できる限り、でいいなら頑張ってみるよ」
「ありがとう。次の中間テスト、首位で待ってるから」
彼女はそう言うと、階段を降りて、自分の教室がある一階へと降りていった。