デビュー
はじめは、好奇心だった。
サクラ:はじめまして、サクラといいます。初めて配信します。初心者なので、まだよくわかっていませんが、よろしくお願いします。
自分以外の、何かになってみたかった。
サクラ:やぁやぁ、見ない顔だね
サクラ:この辺に来るのは初めてかい?
サクラ:あれ、お前さんはしゃべれないのか
サクラ:まぁいい、この辺の猫はおしゃべりが多いから、ちょっと珍しかっただけだよ
サクラ:ともかく、慣れない土地は落ち着かないだろうから、案内をしてやろう
サクラ:あたしは茶トラのミイ。よろしくね
慣れない演技ではあるが、国語の音読の時間は何故か好きだった彼女にとって、自分の声でストーリーが進んで行く感覚は、素直に楽しかった。
サクラ:こっちへ来な。路地裏に藪への抜け道があるから。ここはよく使うし、覚えておくといい
サクラ:こっから、ひょいっと。ほら、このくらい跳べるだろう?
サクラ:よしよし、上等。この先もいくつか登るところがあるから、ついてきな
お世辞にも上手いとは言えなかったが、その初々しさが、二人の聴衆には受けたようだった。
サクラ:ひょいっと、ひょいっと。どう? もう少しだからね
サクラ:ここから降りるよ。よいしょっと。……はい、着いた
サクラ:ここの茂みが、だいたいあたし達が暮らしてるところ。お前さんもみんなに紹介しておくし、このへんにいるといい
彼女が演じているのは、野良猫の先輩。
サクラ:ところで、お前さんは飼い猫だったのかい?
サクラ:っと、そうか。しゃべれないのか
サクラ:首輪もしてないから……野良っぽいけど……まぁいいか
サクラ:食べ物のとり方はわかるかい?
一人用の台本だったため、彼女のひとり舞台である。大きな差し障りなく、物語は進んで行く。
サクラ:普段は虫とか、カエルとか、ネズミなんかを獲って食べてるけど
サクラ:ってどうした、その顔。……ははぁん。さては普段はいいもの食ってるな?
サクラ:じゃあそんなわがままなお前さんには、あそこがおすすめだな
サクラ:ついてきな
聴衆の一人が、コメントを飛ばす。彼女の声が、えらく気に入ったらしい。
サクラ:ほい、着いたよ
サクラ:ここのコンビニの駐車場にいれば、人間たちが珍しがって寄ってくる
サクラ:そしたら、「にゃあ」って鳴いてやるのさ
サクラ:何かくれるまで、「にゃあ」「にゃあ」って言い続けるんだよ。いいね?
現実の彼女は、わかりやすい可愛さを持っているタイプの人間ではなかった。そのことを自覚していたので、あえて熱心に可愛いを作ろうとはしてこなかった。
サクラ:にゃあ、にゃあ
サクラ:にゃあ、にゃーん
そんな彼女が、自身も驚くほどに、媚びた声を出していた。
サクラ:ほら、あの人間なんか、狙い目だよ。にゃああん
恥ずかしさはまだある。しかし、読まなければ、話が進まない。
サクラ:にゃあ、にゃあん。よし、店に入った。後は出てくるのをここで待つよ
自分がこんなに可愛く声を出すことを、現実の誰が知っているのだろう。
サクラ:コンビニの店員が出てきたら、逃げるんだよ。あいつらには嫌われてるからね
実際、彼女の持ち物で、何かの物語に貸し出せるようなものは、声くらいしかなかった。
サクラ:さっきの人間が出てきたら、足元にすり寄るんだ。いいね?
サクラ:来たよ、いくよ! にゃあん
何度も、何度も、媚びた声を出してみる。聴衆の一人が、「かわいい」とコメントを飛ばしてくる。気付けば、聴衆も四人に増えていた。
サクラ:にゃあん、っておい。どうした?
サクラ:なんだ、こいつ、知り合いか?
サクラ:あっ、もしかして……お前さん、この人間に……
かくして、彼女の初めての声劇が終わった。聴衆が、数字の8を連打する。
サクラ:はい、というわけで、ありがとうございました
サクラ:初めてだったので、すっごく緊張したんですけど、聞いてくださってありがとうございました
サクラ:エヌきちさん、たくさんコメントしてくださってありがとうございます
コメントを拾って読んでいく。
サクラ:「素敵な声ですね」だなんて、本当ですか? 初めて言われました
サクラ:普段あんまりこういうのやったこと無かったんですけど
サクラ:そうですね、思ったより楽しいですね
サクラ:「にゃあがかわいい」本当ですか?
サクラ:すごく恥ずかしかったんですけど、はい。ありがとうございます
すっかり気分が良くなって、コメントとの会話をしばらく続けていた。この時には、もう、「またやろう」だなんて、思っていたのだった。
サクラ:来てくださったみなさん、ありがとうございました
サクラ:それでは、さよならー
サクラ:あれ、これどうやって終わるんだろ
彼女のお話は、ここから始まった。