十九話 あなただけの女神
とうとうやって来た、待ちに待った日。
小さな部屋に置かれた姿見の前に立つわたしは、一生着ることなどないと思っていた真っ白な花嫁衣裳に身を包んでいる。
肩先を覆うゆったりとした袖と胸周りには、銀色にきらきら光る糸で複雑な刺繍が施され、スカート部分は幾重にもレースを重ねてふわりと広がっている。腰には大きなリボンが留められていて、女の子の憧れがすべて集められたような、まるで自分がおとぎ話の王女様になったみたいにも思えるドレスだ。
頭はもちろん、花嫁の象徴であるベールで覆っている。そしてもう一つ、ディオンたっての願いでつけているのは、初めてのデートで選んでもらった、蝶と花の飾りがついたカチューシャ。
特注で作られたドレスはかなりの値段が張るはずだが、ディオンはわたしに硬貨一枚たりとも出させなかった。あまり詳しくは教えてくれなかったが、彼の父親であるクロウディード伯爵は、ディオンがこれほど長く戻らないとは想像していなかったようだ。やっと帰ってきたディオンは、これからはわたしと一緒に生きると告げ……伯爵が今まで辛い思いをさせたお詫びにと、今までのディオンの働きに応じた分に少し上乗せした金額を用意してくれたらしい。
「縁を切った」と聞いたときには驚いたけれど、ある程度は和解したうえでの結果のようだから、わたしもそれ以上に深く追求することはやめておいた。
手に持っているピンク色の薔薇を集めて作られたブーケから、ほのかに甘い匂いがする。ディオンが従士にしてくれとわたしの家にやって来た時、一緒に渡されたのも同じ花束だった。あの時のわたしに、彼が未来の旦那さまなのよと言ったって絶対に信じはしないだろう。
部屋の扉がノックされた。彼が迎えに来た――緊張で、心臓が早鐘を打つ。
「どうぞ」
少し震える声で言うと扉が開き、ディオンが姿を現した。黒いタキシードでばっちり決めた彼は、お世辞抜きでこの世界の誰よりも素敵だった。わたしのお願いで彼も、初めてのデートで選んだラベンダー色の留め具がついたクラヴァットをつけている。
「セシーリャ……」
ディオンの要望がすべて取り入れられたドレスを、わたしは上手く着こなせているのだろうか。そっと彼に歩み寄ると、スカートに使われているレースがさらさらと音を立てた。
「どう、かしら……」
「……美しい」
ため息混じりにディオンは言い、額に手を当てた。
「すまない、上手い言葉が見つからない……想像通り、いや、それ以上だ」
「嬉しい。ディオンも素敵よ」
「ありがとう……今すぐキスしたいところだが、もう少しの辛抱だな」
「そうね。わたしたちを待ってる人がいるもの」
二人きりの世界に溺れるにはまだ早い。
差し出されたディオンの腕をとり、わたしたちは揃って部屋を出た。
***
大魔術師の婚礼となれば、魔術師長や他の大魔術師、懇意にしている貴族たちも参列するものだ。けれど、前例のない魔術師と従士の結婚ということもあり、わたしたちは小さな祭殿でひっそりと誓いを交わすこととした。
大勢から祝われなくても構わない。それに、今日ぐらいは氷晶の女神ではなく、ありのままのわたしでいたかった。多くの人が来たら、それが叶わなくなる。
盛大な式ではないものの、わたしとディオンの新たな一歩に立ち会ってくれる証人は二人もいる。わたしたちを温かい眼差しで見つめてくれるプリシラと、こんな時でもちょっと偉そうに椅子に腰を下ろすランドルフ。信頼できる二人がいるのだから十分だ。
神官さまの前で、夫婦であることを示す銀の指輪をお互いの左手の薬指にはめて、誓いの証としては長すぎるくらいのキスをして――わたしとディオンは、家族になった。
本来なら式を執り行った後は、参列者をおもてなしする宴を開くのが基本なのだが、事前にプリシラからもランドルフからもそのような場は不要と断られていた。
「本当に良かったの? 何もしなくて……」
「俺様は忙しいんだぜ。ちゃちな催しに付き合ってるヒマなんかねえっての」
「二人とも、早くお互いを独り占めしたくてたまらないって顔をしているわよ?」
「それは、そうだけれど……」「それは、そうだが……」
同時に言ったわたしとディオンを見て、ランドルフは露骨に顔をしかめ、プリシラはくすくすと笑った。
「げぇ。蜂蜜に漬けた砂糖の塊を口にねじ込まれた気分だぜ」
「ふふ。たくさん幸せを分けてもらったから満足よ。ご馳走様」
「後は二人で心ゆくまで楽しめよ。……ベッドは壊さねえ程度にな」
わたしが何か言う前に、ランドルフはにやりと笑って、プリシラを彼女の屋敷に送り届ける役目を引き受けてくれた。
***
プリシラとランドルフに感謝と別れを告げて、わたしはディオンと一緒に家に戻ってきた。
言葉もなく彼に手を引かれ、西日が差し込む寝室で、ベッドに腰かけて見つめ合う。
「ディオン……これから、よろしくね」
今更なような気もするけれど、改めて伝えておきたかった。
「わたし、お嫁さんらしいことは何もできないけれど……」
「お嫁さんらしいこと、というのは俺にもよく分からないからな。今まで通りのあなたでいい。俺が愛しているのはそのままのセシーリャだ」
彼の温かい手がわたしの頬を撫でる。
「だが……ひとつ望んでもいいなら、あなたとの間に子供が欲しい」
自分がお母さんになるなんて、昔のわたしはまったく考えたことがなかった。けれど今は違う。ディオンとなら――
「わたしも……」
言いかけて、はっとあることを思い出した。
「ずっと言おうと思って忘れていたわ。わたしね、長く眠っていた間に夢を見たの」
「夢?」
「そう。とっても幸せな夢。あなたがね……」
言葉はそこで切られた。わたしの唇に人差し指を当てて、ディオンがふっと笑う。
「良い夢を見た時には誰にも話さないでいると、それが現実になると言われている」
唇から指を離し、彼が言った。
「叶った時に聞かせてくれ。どんな夢だったのかを」
「……ええ、分かったわ」
きっと、そう遠くない未来に会えるはずだ。無邪気にわたしの手を引いてくれた、彼にそっくりの可愛い子供たち。
「ディオン、愛してるわ。あなたに出会えて本当に幸せ」
わたしに、この世で一番素敵な魔法をかけてくれた人――ディオンが目を細めた。
「セシーリャ、俺だけの愛しい女神……」
少し掠れた声が、熱い眼差しが、わたしの全身を甘く震わせ、心をとろとろに溶かしていく。
もう、わたしたちを隔てるものは何もない。
ぶつかるように唇が合わさり、わたしは彼に全てを委ねた。
それからのことは、よく覚えていない。
数えきれないくらいキスをして、声が枯れるまでお互いの名前を呼んで、体が砕けそうになるほどきつく抱きしめ合って――いつ眠りに落ちたのかも定かでない。
ただ一つ確かなのは、その時、世界のすべてがわたしたち二人だけのためにあって――それが泣きそうなほどに、壊れそうなほどに、幸せだったということ。