十八話 もう離れない
そして翌日、体調に問題なしと医師からお墨付きをもらったわたしは、ディオンと共に家に帰ってきた。久しぶりの我が家は、変わらず彼によって綺麗に片付けられていた。
本当はすぐにでも魔術師協会に出向き、魔術師長や他の大魔術師たちに挨拶をしたかったのだけれど、ディオンがそれを許してくれなかった。家でしばらく療養してからで良いと言われているらしく、彼がわたしの代わりに協会と家を行き来している。
とはいえ何もしないでいるのも落ち着かず、軽く魔法の修練を行うことにした。どれほど魔術に長けていても、大きな病気や怪我をすると、魔力が減ってしまったり、思うように扱えなくなったりすることがあると聞いていたけれど、幸運なことにわたしの力は以前とまったく変わっていなかった。ディオンがまとめてくれた書類もあるので、すぐにでも職務に復帰できる。とりあえず、まだまだ現役で魔術師は続けられそうだ。
ディオンが預かってくれていた、ロレーヤの町の人から届いた感謝の手紙に返事を書いたり、彼が協会の魔術師とやり取りした報告書を読んで過ごし、三日ほど経って――
「セシーリャ、体調が悪くなっていないようなら、明日に魔術師長があなたに会いたいと」
魔術師協会から帰ってきたディオンから切り出された。
「ええ、勿論よ。むしろ遅すぎたくらいだわ。失礼をしてしまったわね」
「いや、あなたの様子は俺が逐一報告している。その上で決まったことだから心配はいらない」
……あれ? そういえばわたし、何か大事なことを忘れているような。
絶対に何かあったはずなのに、夜の寝る寸前になってもどうしても思い出せず、結局そのまま眠りについてしまった。
***
魔術師協会の建物を見ると、背筋が自然にぴんと伸びる。久しぶりに氷晶の女神セシーリャとなり、わたしは協会の中に足を踏み入れた。
魔術師長の部屋に通されるのはてっきりわたしだけかと思っていたけれど、案内役がディオンも一緒に、と促し、わたしたちは二人揃って魔術師長の前に立った。わたしたちが来るまで机にかけていた魔術師長がわざわざ立ち上がってくれた。
「セシーリャ、体の方は問題ありませんか?」
「はい。すっかり回復しております。ご心配をおかけし申し訳ありませんでした」
「あなたの働きにより、ロレーヤの被害を最小限に抑えることができました。ありがとう、セシーリャ」
「勿体ないお言葉です」
ディオンと揃って頭を下げる。それで、と魔術師長は続けた。
「今日あなたに来てもらったのはもちろんあなたの様子を見たかったのと、お礼をするためですが、もう一つ。ひと月ほど前に話しました件についてです」
魔術師長に問われたその時、記憶がわっと一気に蘇ってきた。同時に、さっと体から血の気が引くのを感じる。
ディオンを従士として認めることはできない、ひと月の間に彼に従士の役目を退いてもらうこと――
「あ、あああ……」
――わたしの馬鹿!
何か忘れているような気がしていたのはそれだ。もうひと月経った?それともまだ? 眠っていた期間が長かったのではっきりしないが、まだ期限が来ていないとしてももうあと数日しか残っていないはず。
「た、大変申し訳ありません魔術師長! 緊急事態でしたからどうしてもディオンに色々任せてしまいまして、でも」
あわあわと弁明しようとすると、魔術師長は軽く片手を挙げてそれを制した。
「話は最後まで聞きなさい」
「は、はい」
魔術師長はわたしの隣に立つディオンに視線を移した。
「セシーリャが魔物と戦い、意識のない状態に陥った後、ディオンは従士としてできうる限り、あなたの代わりをしてくれました。わたしも、他の大魔術師たちも、その点を高く評価しています」
ディオンが軽く礼をした。
「セシーリャが今回の魔物の脅威に打ち勝ち復帰できたことも、それを補うディオンの職務に対する真摯さも、ひとえにあなた方の間にある信頼関係によるものでしょう。その点を踏まえ再度の協議を行った結果、我々が強制的にディオンの役目を解くことは不適切だと判断しました」
「それって……」
これからもずっと、ディオンがわたしの従士でいいということ?
ディオンも初めて聞かされた話のようで、驚いた様子を見せていた。
「セシーリャ、あなたの従士としてふさわしいのはディオンを置いて他にいないでしょう……これからも二人で力を合わせて、国のために尽くしてください」
「ありがとうございます、魔術師長! 本当にありがとうございますっ!」
飛び跳ねたりディオンに抱き着いたりはしなかったが、嬉しさと安堵で破顔するのを抑えられなかった。
「……セシーリャ、あなたそのような表情ができるのですね?」
「え、あ……」
魔術師長の言葉ではっと我に返った。彼女の前で子供のようにはしゃいだことなどあるはずもない。嬉しすぎてつい、氷晶の女神であることを忘れてしまっていた。
「あ、あの……」
まごつくわたしを見て、魔術師長はふっと微笑んだ。
「あなた方の個人的な感情について干渉することはしませんが、セシーリャが大魔術師であることに変わりはありません。他の魔術師そして従士たちにとって、常に模範的であること。それができると信じていますよ、セシーリャ、ディオン」
「はい、これからも王国のため、陛下のためにわたしの役目を全うします」
「寛大な処遇に心より感謝を申し上げます、魔術師長」
魔術師長に向かい、わたしたちは深々と頭を下げた。
***
家に戻り、玄関の扉を閉めると同時に、わたしはディオンに抱き着いた。
「良かったわ。本当に良かった……」
「そうだな。まさかこんな結果になるとは思っていなかった。ただあなたのことを考えていただけだったから」
わたしの抱擁に応えながらディオンは言った。
周りに評価されようとか媚びようなどということが一切頭になかったからこそ、魔術師長たちはそんな彼を認めてくれたのだろう。
「セシーリャ」
あらたまった様子で、ディオンはわたしの両肩にそっと手を置いた。
「急ですまないが明日一日、俺に時間をくれないか」
「え? ……あ、そうよね。ディオンはたくさん頑張ったもの。休まないとね」
そうではなく、と彼が言う。
「魔術師長は俺の出自を知りながら、あなたの従士でいることを許可してくださった。出来得る限り、それに報いたい。そのためには俺が元いた場所でのことを、色々と清算する必要がある」
ディオンが元いたところ――クロウディード伯爵家のことだ。
「大の大人が家出……というのもおかしな話なのだが、あなたの従士になるとだけ言い残して飛び出してきたままだ。これからのことをきちんと話してくる」
「だったら、わたしも一緒に行くわ」
彼の身を預かる立場として、当主様に挨拶するべきだ。けれどディオンは首を縦に振らなかった。
「いや、これは俺の問題だ。俺自身が解決しなければいけない。それにあなたには大魔術師としてすべきことがある。俺が代わりにやれることは限られた範囲だけだから」
彼ひとりで大丈夫なのだろうか。せっかくわたしが目覚めることができたのに、今度はディオンが戻ってこない、なんてことになったら――
しかし、わたしにもやるべきことがあるのも事実だ。
「……分かったわ。気をつけてね」
わたしの不安感に気づいたのだろうディオンが、頭を撫でて微笑んだ。
「明日の夜までに必ず戻る。約束だ」
***
翌日、ディオンは朝早くに家を出て行った。
わたしは外出する用は特になかったので、書類仕事の片付けを進めていた。
夕方には一段落ついたが、ディオンが帰ってくる気配はまだない。もしかしたら向こうで大きく揉めているのではないか、伯爵家の人たちが彼を帰すまいとしているのではないか……悪い考えが頭をよぎる。
いいえ、大丈夫。ディオンは絶対に帰ってくる。
日が落ちかけている。わたしは居間のソファの上で落ち着かない時間を過ごしていた。
その時、がちゃりと音がして玄関の扉が開いた。
「遅くなってすまない」
ディオンだ。朝に出かける時と同じ姿の彼がそこにいた。良かった、ちゃんと帰ってきてくれた。
「ディオン、お帰りなさい!」
わたしは彼のもとに駆け寄り、肩や胸、腰まわりに軽く触れ、最後に顔を両手で軽く挟んだ。怪我をしている様子はない。
「大丈夫? どこも悪くしてない? 酷いことを言われなかった?」
ディオンは笑って、自分の頬を包むわたしの手を握った。
「大丈夫だ、酷いことは何もされていない」
「良かった……」
わたしが原因でディオンが傷つくなんて耐えられない。ひとまずは安心だ。
聞きたいことはたくさんあるけれど、疲れているであろうディオンをこれ以上玄関に立ちっぱなしにさせるわけにはいかない。
「ごめんなさい、わたしったら……。さ、こっちに座って」
ディオンを促し、二人並んでソファに座る。彼が指先でわたしの髪を撫でた。
「心配をかけてしまったな」
「いいえ、わたしが一人で色々考えすぎてただけだから……それで、どうなったの?」
「縁を切ってきた」
微笑を浮かべながらさらりと言い放ったディオンに、わたしは目を丸くした。
「縁を……?」
「俺は今後一切、クロウディード伯爵家の門をくぐることは許されない。当主の血を継いでいることで受けられる権利は一切放棄し、俺の血筋については誰にも口外しない。他所で伯爵家の人間と会うことがあっても、互いに他人として接する。これを条件に、これからは俺の好きにして良いという話になった」
「ディオンは、それで良かったの?」
いい扱いを受けていなかったとはいえ、生まれた時からいた場所を捨てることに納得できているのだろうか。
「構わない。もうあの家に縋る必要などないからな」
「あなたがそれでいいなら、わたしから言うことはないけれど……」
他に案を出せ、と言われても思いつかない。これがディオンとクロウディード伯爵お互いにとって最善の方法なのだろう。ディオンはすっきりした表情をしているし、これ以上わたしがあれこれ言う必要はない。
「すまない、伯爵家の後ろ盾があれば、あなたにもっといい思いをさせてあげられたのだが……それだけが心残りだ」
「そんなの、わたしには必要ないわ」
今のままで十分に生活はできる。綺麗な宝石も豪華な服も魔術師には不要だ。
「ディオンが傍にいてくれれば、わたしはそれでいいの」
彼の肩に顎を乗せて言うと、ディオンは嬉しそうな顔をした。
「……不安がらせたお詫びというわけではないが、渡したいものがある」
そう言って着ているジャケットの内に手を伸ばし、彼は手のひらに乗るほどの小さな箱を取り出した。わたしの方に向けて、それが開かれる。
「え、これは……」
箱の中に入っていたのは、小さいけれど眩しい輝きを放つダイヤモンドが据えられた指輪だった。驚いてディオンの顔を見ると、彼は真剣な眼差しをわたしに向けていた。
「セシーリャ、今言った通り、俺には地位も名誉もない。だが、生涯をかけてあなたへの愛を貫くと約束できる」
「ディオン……」
「あなたの苦しみは俺が背負い、あなたの喜びのために生きる。……どうか俺と夫婦になって、これから先の俺の居場所をあなたの隣とさせてくれないか」
胸が熱くなったかと思うと、涙が次々溢れて止まらなくなる。
「あ、ああ……」
泣いているだけでは駄目。きちんと伝えなければ。わたしは指で涙をぬぐい、何度も頷いた。
「お願いします……わたしを……ディオンのお嫁さんにしてください……」
「指輪をはめてもいいか?」
彼に問われ、左手を差し出した。魔法みたいにわたしの薬指にぴったり合う指輪だった。
泣きじゃくるわたしを、ディオンが腕の中に収める。
「泣かせるつもりはなかったのだが」
「いいの……嬉しくて泣いてるから」
わたしの背中を擦りながら、顔中にあやすような優しいキスを降らせる。わたしが落ち着いてきたところで、彼が言った。
「花嫁衣裳を準備しなければいけないな。どんなドレスを着たい? あなたの希望は全て入れよう」
希望を聞かれても、いまいち浮かばない。花嫁衣裳に種類なんてあるのだろうか。白いドレスを着てベールをつけるということしか分からない。あまりにも知識がなさ過ぎて、仕立て屋だった両親に呆れられてしまいそうだ。
「どんなのって……普通のでいいわよ。既製品でも」
「一生に一度の日のことに妥協なんて駄目だ。俺が許さない」
そうは言われても……。困り果てた末に、出せた答えはひとつだけだった。
「じゃあ、ディオンがわたしに着てほしいって思うものを着るわ」
「それでいいのか?」
「ええ。あなたに綺麗だって思ってもらえるドレスがいい」
わたしの指の太さまで分かっているディオンならきっと、わたしに似合うドレスを考えてくれるはずだ。
「……なら、そうさせてもらおう。楽しみにしていてくれ」
ディオンはそう言って、わたしの首筋に顔を埋めて甘いため息をこぼした。