十六話 眠りの中で
「はっ……!」
声にならない叫びが口から漏れ、わたしはその場にくずおれた。周りに氷は残っていないのに、わたしの体だけが真冬の夜みたいに凍えている。
『霜の魔女』の死骸からこぼれた魔力が、執念でわたしに襲い掛かったようだ。最後の最後で詰めが甘かった――いや、気づけていたとしても、防ぐ力がもうわたしには残っていない。
手の指と足先のほうから、どんどん感覚が無くなっていく。手が震え、青白く変わっていく。体の中がじわじわと魔力に侵されていく。
魔法薬を持ってきていたことをはっと思い出し、懐を探った。魔力が凝縮された液体が入った瓶を取り出したが、手に力が入らず上手く開けられない。
「あっ……」
手から瓶が落ち、斜面を転がり落ちていった。追いかけようとしたが、もう足が動かない。
最後の望みまで絶たれてしまった。
わたしはその場に力なく横たわった。魔物が残した魔力はそう多くはない。しかしこのまま何もしなければやがて全身の血が凍り、心臓も止まるだろう。
勝てたと思ったのに、どうやらこの戦いは相打ちのようだ。
魔術師として生きる以上、ベッドの上で生涯を閉じることはできないかもしれないと、心の隅で覚悟はしていた。
きっとこれで、ロレーヤの町の人々が怯える必要はなくなるはずだ。わたしの後釜には、もっと才能のある魔術師が就くだろう。
独りは寂しいけれど、頭上に広がる空は青く澄み切っている。この下で死ねるなら恵まれているほうだ。
ああ、でも――
「ディオン……」
こんなことになるのなら、周りの目なんて気にせず彼に抱き着いてキスをして、愛してると言ってから別れれば良かった。
ごめんなさい。せっかく信じてくれたのに、わたしはそれに応えられない。あなたのところには帰れない。
わたしがいなくなったら、ディオンは悲しむかしら。
前を向いて新しい幸せを見つけてくれるかしら。あんなに素敵な人だもの。彼を愛してくれる誰かが、どこかに必ずいるはずだ。
でもこの先もずっと、彼の一番はわたしでありたかった――
どのくらい経っただろうか。全身の感覚がなくなりつつある。このまま寒さに震え続けるより、眠ってしまった方が楽になれるだろう。
――ディオン、ありがとう。ずっとずっと愛してるわ。
「セシーリャ!」
意識を手放しそうになったわたしは、聞こえてきた声に目を閉じることを止めた。
ディオンの声だ。わたしを呼んでいる。本物の彼だろうか? それとも死の淵で夢と現実の区別がつかなくなっているのだろうか。
「セシーリャ! そこにいるのか!」
土を踏む音が次第に近づいて来る。周りを見たかったが、頭を上げるどころか動かすこともままならない。
「ああ、セシーリャ!」
ディオンの声が一層大きくなり、足音がまっすぐこちらに向かってくる。
そしてわたしの目に飛び込んできたのは、もう会えないと思った愛する人の顔だった。わたしを迎えに来てくれたのだ。
名前を呼びたい。しかし喉も舌も凍りつつある。
「……は……ぁ……」
「セシーリャ、目を閉じるな。俺を見て」
わたしの横に膝をつき、ディオンが外套の内側を探る。彼に言われるがまま、わたしは目蓋になけなしの力を込めた。
「そう、いい子だ」
ディオンは取り出した瓶の蓋を手早く開け、中身を自分の口に含んだ。すぐに彼の口がわたしのそれに押し当てられる。
生ぬるく、少し酸味がある液体が口の中に流れ込んできた。顔が、喉が次第にほぐれてきた。魔法薬だ。わたしの中を侵食する魔物の力と、代わりに戦ってくれる。
ディオンが口を放し、わたしが受けた肩の傷に触れないよう、ゆっくりと上半身を抱き起こす。今度は唇に、魔法薬が入った瓶の口がそっと触れた。
「ゆっくりでいい」
彼に支えられ、瓶の中身をこくこくと喉に流し込む。最初に彼が口から直接薬を与えてくれたことで顔まわりに力が戻り、何とか自力で残りを飲めるようになった。
すべて飲み干す頃には、寒さはかなりましになっていた。体が重く一人では立ち上がれそうにないが、安心感がわたしを包む。
「ありがと……」
それだけ言うのが精いっぱいだった。ディオンが羽織っていた外套を、わたしの体に優しく巻き付けてくれた。
「もう大丈夫だ。家に帰ろう」
ディオンは一度わたしの体をそっと地面に横たえ、傍らに転がっていたわたしの魔法杖をてきぱきと自分の背中に括り付けた。それが終わると、わたしを横抱きにしてふわりと持ち上げ歩き出した。
「ディオン……」
掠れた声で、わたしは彼に呼びかけた。
「無理をして話さなくていい」
「わたし……勝った……わ……褒め……て……」
歩みは止めないまま、ディオンはわたしの耳元に顔を寄せた。
「……よく頑張った。セシーリャ、あなたは俺の誇りだ」
嬉しい。大勢の人から称えられるより、魔術師長や陛下から労いの言葉をかけられるより、あなたに褒められるのが一番嬉しい。
ディオンの声が、匂いが、温もりがわたしを満たしてくれる。力が抜けて、すごく眠い。もっと話していたいのに、下がってくる目蓋をどうしようもできない。
「ごめ……なさ……ねむ……い」
ディオンがわたしを呼ぶ声がどんどん遠くなっていく。間もなくわたしの意識は闇に沈んでいった。
***
何もない真っ暗な世界で、意識だけがふわふわとさまよっている。
どこに行けばいいのか、何をすればいいのか、まったく分からない。
今まで、何をしていたんだっけ。わたしは、誰?
「せ……………………か」
とても遠くで、誰かが話している。よく聞き取れない。
「ど…………! ………………て……」
「……そ…………ろ……」
誰かが言い争っている。不安と焦燥と苛立ちが混じったような声がする。
声の主が誰なのか、何を話しているのか――ああ、どうでもいい。わたしにはきっと関係のないこと。
また眠くなってきた。余計なことを考えるのはやめて、すべて忘れて眠ってしまおう。
このまま、目覚めなくても構わない――
***
気が付くと、わたしは家の中にいた。目の前には玄関の扉がある。
あれ、何をしようとしていたんだったかしら。とりあえず外に出よう。
扉の取っ手に手をかけて引く。見慣れた平原が広がっていて、空には太陽が燦々と輝いている。
目線の先、少し離れたところで、小さな子供が二人で遊んでいた。女の子と男の子。どちらも綺麗な金髪をしている。きょうだいのようだ。きゃっきゃと笑いながら、子兎のように跳ねまわっている。どこの子供だろう?
どこからか、一人の男性が現れた。その姿を見つけた子供たちが、わっとその人へ向かって駆け出す。男性は片腕ずつで二人の子供を抱え上げ、その場でくるくると回ってみせた。子供たちがはしゃいで、より一層大きな声で笑う。男性はあの子たちの父親なのだろう。子供たちの金髪は彼譲りのようだ。
ひとしきりじゃれ合った後、男性は膝をついて子供たちを地面に下ろし、何かを囁きかけた。
二人の子供の顔が、様子をぼんやり眺めていたわたしの方を向く。そして一斉にこちらへ目がけて走ってきた。男の子の方はまだ足元がおぼつかない。
わたしのところへ来た子供たちが、きらきらした瞳で見上げてくる。その瞬間、きゅう、と胸が締め付けられるような感覚に陥った。
なぜかしら。知らない子供のはずなのに、愛おしくてたまらない――
「こっちきて!」
「はやく!」
女の子がわたしの左手を、男の子が右手をきゅっと握り、そのまま走り出す。引っ張られるままわたしも走った。
男性の姿がどんどん近づいてくる。彼の目の前まで来たところで、子供たちがわたしの手を放した。
その人と目が合う。綺麗な緑色の瞳の中にわたしの姿が映っている。彼が優しい笑顔を浮かべた。
その瞬間、心臓がどきん、と大きく跳ねた。全身の毛穴が開くような感覚。彼の瞳から目が放せない。
――ああ、どうして今まで思い出せなかったのだろう。
忘れるはずのない人。わたしの帰る場所。わたしのすべて。
彼の胸に飛び込む。いつだってわたしを受け止めてくれる力強い腕。紅茶と果物とお日様の匂い。
口を開け、わたしはその人の名前を呼んだ。
「ディオン!」