#8 何も起きない日常で終わり!? の巻
#8 何も起きない日常で終わり!? の巻
汗にまみれた挑戦の日々が終わり、何も起こらない日常が続いていた。
住宅街の中に、瓦屋根の家がある。
至って普通の家屋だった。似たような家は、この周辺だけでも何軒もある。
その木造住宅の一階にトイレがあった。中から、「カランカラン」と、音がする。トイレットペーパーが回っているのだ。その後、便器に水が流れる。蛇口が開き、二秒程で、「キュッ」と、閉まる音がした。
トイレの戸が開き、白靴下に学生ズボンの足元が現れる。木製の廊下を歩く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関で白いスニーカーを履きながら、白靴下の山田は出かける挨拶をした。それに対し、母親の返事が返ってくる。声は聞こえたが、姿は見えない。居間から、テレビの音が聞こえている。母親はそこにいるのだろう。
山田は、靴箱の上の時計を一瞥する。それから、玄関の戸をスライドさせた。
相変わらず、テレビからは音が聞こえている。お天気お姉さんの、天気予報だった。
「――日中は、お天気が続きます。しかし、夜になると、次第に崩れてきます。どしゃ降りとなる地域も――」
住宅街の道には、山田以外に人の姿は無い。今日は、ゴミ出しの日のようだ。各家の前には、腹一杯にゴミを食べた半透明の袋が、置かれている。
どこか遠くの方を、ゴミ収集車が回っていた。低いエンジン音と、テープによるアナウンスが、聞こえてくる。
要するに、山田は遅刻していた。先程、玄関で見た時計の針は、九時三分を指していたのだ。
神様と別れたあの日から、三ヶ月が過ぎていた。今や、女子に話しかける事も無ければ、一人で喋る事も無い。何の特徴も持たないただの学生――その他大勢の中の一人に過ぎなかった。そんな山田に唯一残った特徴が、この遅刻である。神様と出会う前からの、治らない癖だった。
カーブのかかった坂道にさしかかる。
季節は冬へと移行していた。山田の服装も、それに合わせて変化している。長袖のカッターシャツの上に、学ランを着ていた。更に、学校指定の黒いウインドブレイカーを、重ね着している。
そんな山田の吐く息は、空気を少し白くして、すぐ消えた。
もう、走って汗をかく季節は終わったのだ。十二月中頃の寒さに時おり震えながら、歩く。
「次回『パンティー争奪戦』ヒミコのパンティーは俺のものだー!」
「いやーん!」
「この番組は、ご覧のスポンサーの――」
TVアニメの次回予告が終わり、テレビ画面には提供が流れ始めた。
ここは地上の遥か上空、雲の上。今は夜で、星がきらめいていた。
どうやら、神様はテレビを観ているようだ。画面の前には、分かりにくい陽炎があるはずである。
山田が別れを告げたあの日から、神様は一度も現れなかった。
三カ月の間、どんな思いだったのかは、誰にも分からない。ただ、十日程経った頃、テレビの電源が入った。それから、ドラマやアニメを流し続けている。
短い提供の告知が終わった。その後、「来週も絶対見ろよな!」という文字が書かれた、アニメの静止画が映し出される。それもすぐに消え、テレビにはコマーシャルが流れた。
不意に、ブルーレイディスクレコーダーの電源が入る。録画された番組の一覧が出た。アニメやドラマや映画のタイトルが、いくつも出ている。録画の日付は十一月と出ていた。カーソルが上に動いていき、十月、九月と、日付が若くなっていく。急に二カ月跳んだ。七月に録られた番組を示した所で、カーソルは止まる。タイトルは、「不思議区域ヒナノ最終話」と出ていた。画面が切り替わり、一瞬暗くなる。
再生が始まった。
学校の授業を受ける山田は、落ち着いていた。黒板を見て、ノートにペンを走らせる。その行為を、ただただ繰り返すのみ。
前の自分との違いを感じていた。今は感情が鈍化している。心を揺さぶられる事が、少ない。喜怒哀楽に乏しくなり、その代わりに、冷静さの様なものが手に入っていた。
その証拠となりうる行動を、最近取っている。廊下で東雲と出くわしても、避けていないのだ。
あの日以来、顔を見ない様にしていた。しばらくの間は確実に。それが今では、表情一つ変える事無く、横を素通り出来る。
意識的に無視している訳では無い。どうでも良いという気持ちに、なってきたのだ。山田からすれば、相手が誰であれ、ただ人とすれ違っただけである。東雲の事を、特別視していなかった。
関係の変化は、東雲に対してだけでは無い。三角達とも喋らなくなっていた。菊地原やみことが山田に向けて、あからさまに嫌そうな態度をとっても、何の反応も返さずにやり過ごす事も出来る。
神様と出会う前の自分を、山田は取り戻した訳では無かった。戻ろうとしたはずなのに、戻れてもいない。前とも違う虚無を感じていた。
どういう作用で、こういう心理になったのか、自分でも分からない。
女子はおろか、山田は男子とも喋る事が無くなっていた。結果として、急速に過去の人になっていく。存在感が無くなり、嫌われる事も無くなっていった。
学校に行って、授業を受けて、家に帰って、勉強をして、寝る。
学校に行って、授業を受けて、家に帰って、勉強をして、寝る。
学校に行って、授業を受けて、家に帰って、勉強をして、寝る。
学校に行って、授業を受けて、家に帰って、勉強をして、寝る。
学校に行って、授業を受けて、家に帰って、勉強をして、寝る。
起きて、勉強をして、ご飯を食べて、勉強をして、寝る。
起きて、勉強をして、ご飯を食べて、勉強をして、明日月曜日だと思いながら、寝る。
ただ、学校生活と週末の二日をこなすだけの日々。静かに、一四才の十二月が過ぎていく。
「なぁ、お前、河川敷の話知ってるか?」
不意に会話を要求された。淡々とした無のリズムを崩される。学校からの帰り道、十字路を右に折れ、丘に続く坂道を上る所だった。白いベースボールキャップに黒いランドセルの小学生が、山田に話しかけてくる。
騒がしく、悪い少年。橋山だ。
山田は無視して、家へと向かう。
前にもこの場所で会った事があったが、地縛霊でも無いだろうに、どこかに散って欲しかった。
「なぁ、河川敷の話知ってるか?」
それでも相手は話を止めない。
ため息を一つ吐いて、仕方なく、山田は口を開く。
「何の事?」
「あの河川敷にかかる橋さ、飛び降り自殺する人が結構いるらしいんだぜ」
橋山の話は坂道から見て、十字路をそのまま真っ直ぐ行った先にある河川敷についての様だ。そこには曰くが付いている。
都市伝説と心霊話の合挽きの様なその噂を聞いた事はあった。話し始めてすぐ『自殺』というワードが出たので、どうやらそれに絡めた内容の様だ。山田はめんどくさくて、話しを早く終わらせたかった。悪意のあるガキの相手はしていられない。
「あっそう」
目も向けずに、歩きながら答える。
「それと、開けた場所なのに、川沿いに一本だけおっきい木が生えてるの知ってるか?」
「それが?」
「あの木で首をくくった人が、いるんだってさ。だから、たたりを恐れて、切らないんだぜ」
「あっそう」
「どう思う?」
「何も思わない」
「今日の夜、行ってみたら?」
「何で?」
「最近上手くいってないんだろ?」
「バカかよお前。人に対してそんな物騒な事言うなよ」
「別に死ねとは言ってないんだぜ」
「あっそう」
「なぁ、行ってみ――」
山田は疲れるのは嫌だったが、走った。やはり、話しをしたのは間違いだと思う。
大声で叫ぶ様に話す橋山の声が聞こえたが、無視して遠ざけていった。
どれだけ声をかけられても、今後応答する事はないだろう。
「ただいま」
「おかえり」
山田の言葉に、母の声が返ってくる。今朝と同じく、居間にいるのだろう。
つま先を戸に向けて、靴を脱ぐ。後ろ向きで玄関から上がりかまちに上がった後、左右の靴をきっちりと揃えた。
廊下を歩いて、階段にさしかかる。二階の自室へ行く為、一段目に右足を置いた。
「あんた、最近は毎日、帰って来るのが早いねー」
山田は上げようとした左足を止め、
「息子が勉強に励むんが、嫌なんかい」
それだけ言うと、階段を上がった。
「そりゃあ、勉強してくれるのは良いんだけどね。夏の頃は、遅くまで帰って来ない日があったなーと思ってね」
母の声は、一段一段上る度に遠退いていく。それでも、最後まで聞き取る事が出来た。
自室で落ち着いた山田は、スウェット姿である。下は紺色、上は黄色だった。
その格好で、学習机に向かっている。六畳の部屋には、畳が敷いてあり、本棚とCDラジカセがあった。部屋の中央には、布団が敷いてある。万年床で、たまに天日干しする以外は、動かす事が無い。
学習机が接した壁の真ん中から上部分は、窓になっている。ガラスは透明で、今は夜空と街灯と家々の明かりが見えた。
そんな環境で英語の勉強をしている。シャーペンがノートにアルファベットを並べる音以外、何も聞こえない。部屋は静かな空間だった。
ふと手を止める。
窓の外を見て、一つ息を吐いた。
部屋を見渡し、
「狭くなったなぁ」
ポツリと呟く。
また手を動かし始めた。いつもと変わらない、何でもない日常が、思い出になりようも無い時間が、静かに過ぎていく。
机の上のデジタル時計は、午後七時三十分を指していた。
不意に、
思いを巡らせた自覚も無しに、
山田の心が動く。
震動が脳へと伝わる。
(こんなのいやだ)
そう、思ってしまう。
窓に、何か小さなものが当たる音がした。
顔を上げて見る。
雨だった。勢いは無く、小雨である。
ノートへと、視線を戻す。
シャーペンを動かす山田の手に、不思議と力がこもった。
自分はどうしたいのかが、分からない。
なぜ、『狭くなったなぁ』と言葉が出たのか。
確かに六畳間には、十字路や、海水浴場の様な広さは無い。
しかし、それで問題無い。ここが自分の居場所であるはずなのだ。それで良かった。
そう思っていたのに、違っていたのかもしれない。自分に、外に出るなと、言い聞かせていただけかもしれなかった。
もう、傷付くのが嫌だったから。
シャーペンを、握った指でしめつけた。突き動かす力がある。
雨が勢いを増してきた。ガラスが立てる音の頻度から、それが分かる。
英語の問題文を目は追うが、ほとんど頭に入って来ない。
脳裏には、母親の言葉が思い出されていた。
『そりゃあ、勉強してくれるのは良いんだけどね。夏の頃は、遅くまで帰って来ない日があったなーと思ってね』
(今年の夏は、忙しかったからな)
その様に考えさせた言葉が、繰り返される。
『――勉強してくれるのは良いんだけどね。夏の頃は、遅くまで帰って来ない日があったなーと思ってね』
『――夏の頃は、遅くまで帰って来ない日があったなーと思ってね』
『――があったなーと思ってね』
『――と思ってね』
『――と思ってね』
『――と思ってね』
「『と思ってね』中心にリフレインしてどうする! 僕!」
山田は反射的に言ってから、あの時と同じだと思った。ファミリーレストランの前にいた、あの時と。
雨は本降りになった。窓を激しく叩き、そのつど、ガラスは細かく震える。早く雨戸を閉めた方が良かった。
しかし、手は窓に向かない。ひたすらノートにシャーペンを走らせていた。
(あの時も、こうやってひたすらに願っていた!)
もう右手は、勉強に意味のある動きをしていない。力一杯ノートに書き殴っている。記されているのは、アルファベットでは無い。
神様だった。
読めない字で、「神様神様――」と書き続けている。
左手で強く握った為、ノートは、何ページか破れた。
「ご飯だよ」
ドア越しに聞こえるのは、一階からの母の声。
「もう少ししたら行く!」
シャーペンでノートに穴を開け、ずたぼろにしながら、ほとんど叫んでいた。
母が不信感を抱かないか、少し気になる。だが、「あんた、何してるの!?」等とは聞こえてこなかった。親をうとましく思う中学生に有りがちな、叫び。そういう事だろうと、母は思ったのかもしれない。
とにかく、山田にはその反応に気を取られている暇は無い。とり憑かれた様に、手を動かす。
気持ちが沸点に達した。
(もう、限界だ!)
勢い良く立ち上がると、ノートを真っ二つに破り捨て、シャーペンをぶん投げる。そこからすぐに、両手で髪を引っ張りながら咆哮した。無表情の呪縛が解かれる。
乱暴にドアを開け、階段を走り下りた。玄関まで一気に行くと、素足にサンダルを突っかける。玄関の戸を勢い良くスライドさせ、外に出た。後ろを振り返らずに、力一杯戸を閉める。戸は一旦閉まったが、反動で半分位開いた状態になった。
「ご飯はごめん。僕、外に行かなきゃ」
母の「ちょっと、どうしたの!?」という声が聞こえる。
が、駆けだした山田にはすぐに、激しく降りしきる雨の音しか聞こえなくなった。
門扉を抜けて、道路に出る。その時には既に、体の全体が濡れていた。
走る。行かなければいけない場所へと。
丘を下る坂道の中程。そこに山田はいた。坂道を下った先は、いつか女子とぶつかった十字路だ。
「神様! 出てきてよ!」
山田は声を張り上げた。
「僕やっぱりダメなんだ! 楽しくないんだよ! 最初は戻ってこれたんだって、気持ちが楽になった。でも、もう良い。何も無いのには――」
息を吸う。
「――飽きた!」
言葉を続ける。
「知ったんだよ、知っちゃったんだよ! 何かを起こす楽しみを。もう六畳の世界は窮屈なんだ。挑戦したいんだよ僕は!」
何度か、荒い息を吐く。
「でも、無理なんだ。情けない話だけど、一人じゃ無理なんだ! 神様がいてくれないと、まだ無理なんだよ僕は! 弱い人間なんだ!」
口の中に、雨粒がいくつも入ってくる。
「でも、神様には僕をこんな風に変えた責任があるはずだ! 保健室の時、神様も言ってたじゃないか! だから出てこい! 誰かと付き合うまでは見届けろ! 僕に出会いを提案しろ! 命令しろ! 僕の背中を押せ!」
また息を吸った。肺一杯に。
「僕を、挑戦させろ!」
土砂降りの雨の中、山田は気持ちを大声に乗せた。
雨音に、その思いはかき消される。道路に面した家にさえ、聞こえていなさそうだった。
それでも、神様には届いたはずだ。そう、感じた。
山田は空を見上げる。辺り一面、雲で覆われているのだろう。普段、一つや二つは確認出来る星の輝きが、一つも見えない。月さえも隠れていた。
坂の上に、光が現れる。どうやら、車のヘッドライトのようだ。エンジン音は、雨のせいで少しも聞こえない。
光は少しずつ大きくなっていく。照らされそうになった山田は、とっさに近くの電柱の陰に隠れた。
車とすれ違うのに合わせて、屈みながら電柱と民家の壁との狭い間を通って、反対側に移る。それから、道路に背を向けしゃがみこんだ。
その動きを、車の中の人に見られていないか、少し不安になった。
しゃがんだままの山田の頭に、言葉が浮かぶ。
(何してんだろ?)
雨の中、車から逃げる自分のみっともなさを感じていた。神様は現れないのかもしれない。
もしそうなれば、何の意味も無い行動をしている事になる。
それでも、不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。久しぶりに自分から動けた事が、楽しかった。
口の両端が自然と上がる。
「何を隠れているんだ」
聞き覚えのある声に、山田は立ち上がりながら振り返った。嬉しさで、歯が見えて、目が細くなる。完全な笑顔になった。
「神様、久し振り」
「情けないな。逃げまどって」
山田は短く、鼻で笑う。
「僕らしいだろ」
「そうだな」
夜、しかも大雨の中では、神様の姿が分からない。それでも構わなかった。近くに神様を感じながら、話しをする。
「良い気分なんだよ、今。気持を素直に出せてさ、やっぱりこれなんだよ。僕は、机に向かうよりもこれなんだよ」
「もう一度、やれるのか?」
「当たり前だろ。僕はやりたいんだから」
相変わらず、雨は勢い良く降り続ける。
「ワンクール前のアニメで、『不思議区域ヒナノ』、というのをやっていたんだが、見たか?」
山田は首を横に振った。
「主人公とヒロインを中心にした、学園ラブコメでな。まぁ、ありがちな作品なんだが、俺は最終話を観ていなかったんだ。お前とドラマを起こしている間、作られた物を観る気にならなかったからな」
雨の中でも、神様の声はハッキリと聞こえてくる。人が喋るのとは、意味が違うらしい。
「昨日、録画してたやつを観たんだ。一話前で、急に主人公とヒロインが戦いに行くんだがな、最後どうなったと思う?」
「……」
「二人は死んだ。まさかの展開というやつだ。今まで散々、学園で騒いでいたのに、そんなラストあるか?」
神様は語気を強めて、
「俺は、そんな話を求めてはいなかった! 二人が無事に帰ってきて、何のひねりもないハッピーエンドで良かったんだ!」
更に、
「お前は、平凡でもハッピーエンドに持って行く気があるか!?」
問いかけてくる。
山田はゆっくりと口を開く。
「ある」
はっきりと答えた。
「彼女を作って、毎日を楽しく過ごすんだ。……とは言っても、正直な所、現実味が無いけどね。今の僕には、恋愛が何なのか、少しも解っていないから」
思いを続ける。
「それも、進んでさえいればきっと、いつか解ると思うんだ」
「……」
「挑戦し続けていれば」
目に力を込めて、前を見据えた。
「前みたいには、ならないんだな」
「うん。僕は、妬みや恨みを持っていた。そんな自分に向き合う事が出来なかった。でも、これからは自分に負けない」
更に話す。
「とにかく、つき合えれば誰でも良いと思っていた。そうすれば、気が納まるとはずだと、考えた。僕が弱かったから、そう思ったんだよ」
(今なら、素直に言える)
「僕は、東雲君が――」
自分の弱さを、認める事が出来る。
「――うらやましかったんだ」
涙が溢れた。止めどなく流れる。すぐに、雨と混ざった。
山田は右頬にライトの光を感じる。坂の下から、先程の車が戻って来たのだ。
今度は隠れなかった。今からは歩いて帰るだけなのだ。何の後ろめたさも無い。
雨に紛れていたが、一応、涙だけ拭いた。
車が横に停まる。運転席から、人が降りてきた。女の人だ。傘を差しておらず、すぐに雨で濡れる。
目の前に来たその女性の顔が、薄らと見えた。その人は、ミディアムヘアーのおばさんである。三十代に思われた。目鼻立ちが整っており、キレイな女性だ。
「あなた何してるの?」
目を細め、おばさんは疑った様な話し方をする。
「すいません。もう帰るんで」
「ここら辺の家なの?」
「はい。もうちょっと行った所の、山田です」
女性の表情が変わった。目が大きくなって、瞬きをする。
「ごめんなさい。家の子がいつもお世話になってるみたいで」
「何の事です?」
雨に、風が加わり、声が聞こえにくくなってきた。
「橋山で――」
途中から、分からなくなる。橋山と言った事だけは、理解した。
「家の――が、いな――」
「えっ? 何ですか?」
「いないんで――」
橋山のおばさんの口が、何度も『いない』と動いていた。
「あのガ……お子さんがいないんですか!?」
「――ないんです! どこにいる――りませんか!?」
橋山がいないのは、確実だと思えた。
(あいつ、僕の事を家で話していたのか……世話なんかしてないけど)
行くとすれば、どこかを考える。すぐに思い当たった。まさかとは、思うが。
「神様行こう」
「どこに」
「河川敷だよ」
しかし、確実では無い。車に入っていた懐中電灯を貸してもらい、おばさんには、このまま周辺を探してもらうよう伝えた。
坂道から河川敷までは、十字路を真っ直ぐ走って十五分程である。雨が降っている事と、山田がサンダルをはいている事を入れれば、二十分はかかるかもしれない。
暗闇に包まれた河川に、僅かな中州がある。そこで、橋山は震えていた。
キャップは被っていない。いつかと同じ、水色のTシャツにオレンジのハーフパンツ姿である。しかし、ほとんど光りの無い中では、色は全く違いを見せない。黒いだけだ。
「本当に、死んじゃうんだ……」
唇がガクガク震えた。
十字路を真っ直ぐ駆け抜け、コンクリートの階段を駆け上がり、土手を右に進み、すぐ左手にある橋の歩道へとスピードを落とさずに曲がる。土手の土がぬかるんで、踏ん張った右足が滑ったが耐えた。土手の土から橋のアスファルトへと変わった地面を踏みしめ、今までと変わらず駆ける。疲れると言う感情が沸いてこなかった。疲労で崩れる暇があったら、口の悪いガキを少しでも早く見つけたかった。幅三十メートルはある河川にかかる橋を渡りながら、下方を見た。川面を雨粒が叩いているはずだが、暗くて何も見えない。橋を渡りきった。左に折れ、また土へと変わった地面を蹴って、坂道を下る。ようやく目的の河川敷に着いた。橋を渡らなければならなかったのは、向こう岸とは違い、こちらには橋山との会話に出てきたあの巨木があるからだ。話の内容から察するにそこにいるのではと思った。最悪の結果にはならないで欲しかった。
河川敷には、足首程の長さの雑草が一面生えている。そこにスピードを落とす事無く駆け入った。そびえる針葉樹まであと約十メートル。
そうして口の中に無数の雨粒を溜め呼吸を荒らして着いた巨木、正式には檜の木には、幸か不幸か橋山の姿は無かった。紐と首とを使った悲しいブランコは見なくて済んだが、ホッと一息とはいかない。
山田は簡易の救急箱が内蔵された大き目の懐中電灯で、辺りを照らした。光量は少なくはないが、周りが暗過ぎて、光りの届く範囲は狭い。
「おい、橋山! いるか!」
返事は無い。
川の縁を探っていると、足を滑らせた。コンクリートで補強された斜面を落ちて行く。川に全身漬かってしまった。流れが速くて、下流に少し流される。
「さ、寒い」
慌てて、這い出た。川の水は、雨よりも冷たく感じる。
そこに、神様が話しかけてきた。
「おい、山田。橋山がいたぞ。中州だ。ブルブル震えている」
「神様は別で探してたの?」
「俺はお前と違って、浮いているしな。それに人の心の色を見る事が出来る。サーモグラフィの様なものだ。ちなみに、お前を最初に見つけたのも、その能力を使ったんだぞ」
「そんな簡単に見つけれるんなら、僕がこんな寒い思いしなくても良かったんじゃないか! 先に言えよ」
「それは、俺には河川敷にいる事は分からなかったしな。そんな事より、問題があるぞ」
「問題? 連れて帰れば良いだけだろ」
「中州にいるんだぞ。どうやってあそこまで行く」
山田には、神様の言う「あそこ」がどこなのか分からない。だが、川を渡るのが不可能な事は分かっていた。流されて、もしかしたら死んでしまう。
どうしようもない。おばさんに伝えて、レスキュー隊を呼んでもらうべきかもしれない。そう、考えた。とにかく、ボーッとしている暇はない。
河川敷を、土手に向かって歩き出した。
頭の中は、ムカつく小学生の事で一杯だ。
(あいつは何で、河川敷に来たんだろう。自殺がどうとか言って、僕をからかっていたけど。そうじゃなかったのか? さっきの僕の予想通り、やっぱりあいつが……)
もし想像が当たっていたなら、おばさんの所に行っている暇は無いかもしれない。
しかも、橋山が本当にその気なら、既に手遅れになっていてもおかしくなかった。
山田は首を横に振る。あれこれ考えている時間は無いのだ。行動しなければならない。
橋山が、あいつの話に出てた橋や木を使っていないだけ、良かった。
と、思う。
(……えっ?)
その時、助ける道筋が見えた気がした。
懐中電灯を揺らし、再度、河川敷を駆ける。
巨大な檜の木に近寄った。地元で有名な巨木だった。一本だけ生えているのは祟りを恐れてと言うのはただのデマで、立派に育ったから切らなかったのだと、山田は思う。むしろ神木の様でもある。
中州まで距離がどれ位あるのか、正確にはつかめなかった。が、昔昼に来た時の記憶で十五メートルと予想した。木の上方に光りを当てる。長さは足りそうだった。川の中程まで届くだろう。
「神様!」
山田は、救出に必要な能力の持ち主を呼んだ。
「横にいるぞ」
「この木を使おう。断面を道にするんだ」
「…………俺も今そう思った所だ」
「その割には、間が空いている事を指摘しつつ、中州に向かって裂いてくれ」
「普段は方向を決めないんだが、何とかやってみよう」
「お願い」
「距離が足りるか、わからんぞ」
「何とかなるだろ。無理なら無理だ」
「時間は三十秒だからな」
「わかってる。十五秒で行って、十五秒で帰る」
「……それで、大丈夫か」
「何で、大丈夫だろ」
「まぁ良い、裂くぞ!」
神様がうなり出す。方向を指定する為だろう、いつもより、声に力が入っている。時間も十秒程かかった。
樹木が強制的に、裂けていく。間近の山田には、「ギギギギ――」と、悲鳴の様な音が聞こえた。しかし、十メートルも離れれば、依然続く降雨が地面を叩く音に負け、何も聞こえないだろう。
山田はサンダルで来た事を悔やんだ。裸足になる。その方が確実に速いはずだ。そして、確実にケガをしやすくなったと思う。左足首の痛みが引いて間もないが、また足がおかしくなる気配がする。
幹の一番下まで裂け、木は倒れた。
半分は河川敷の草原に倒れ、もう半分が、川に着水する。水面を叩く音がした。
「山田、行け」
「いつものをやってくれ。主人公なら、成功させるだろ」
「分かった」
神様が、「スタート」と合図を出す。
ドラマを始めよう。
神様の声を背中で聞きながら、山田は巨木の断面に飛び乗り、走り始めた。
中州へ続く木面は、少し窪んだり、盛り上がったりしている箇所がある。だが、ほとんどは平らだった。神様が、丁寧な仕事をしてくれた様だ。
雨で滑る可能性はあったが、気にせず、走る。スウェットパンツは水浸しで、腰のゴムが少し緩くなっていた。が、それも気にしない。
(十五秒で行くんだ!)
と、自分に言い聞かせた時、間違いに気付いた。
帰りは二人になるのだ。行きよりも時間がかかるはずだった。
神様の微妙な反応はこの為だと分かる。
(十秒、いや、八秒で行く!)
目標を修正した。
右手に持った懐中電灯は、腕を振る為、あちこちを照らす。あまり役に立っていないが、幹が終わり、枝と針葉のゾーンに突入した事は、知らせてくれた。
山田の足が、川に浸かる。
枝があるお陰で、足腰は水流から支えられた。
「橋山! おい、ガキ! 生きてるか!」
呼びかけながら、顔や肩付近の枝をかき分ける。
中洲へ踏み入った。石や砂利ばかりで、座り込みたくなる位足の裏が痛い。足つぼマッサージのシートを見れば、内蔵のどの部分が悪いのか分かったはずだ。
山田は、今何秒経ったのか気にはなったが、意識的に考えなかった。
ライトを照らす。中州は畳二畳分程の広さしかなかった。雨で水量が増えた為、普段より、狭くなっているはずだ。
「おい、橋山!」
山田はすぐに見つけた。橋山に駆け寄る。足の痛みは、忘れた。
小学生は小刻みに震えるのみだ。歩けそうにない。
山田はとっさに判断した。
「おぶされ、背負うから」
しゃがんで、橋山に背を向ける。
しかし、少年の動きは鈍い。山田はすぐに震える手を掴んで、自分の胸の前で組ませた。
立ち上がり、軽くジャンプする。橋山の両膝の下に、外側から腕を入れた。
ガッチリとロックする。足裏に石の丸みを帯びた角が食い込む。
懐中電灯は持つ余裕が無いので、置いて行く事にした。
無我夢中で枝のガードへと突っ込む。顔を、頑丈で長い木製の指と緑の針が突いてくる。橋山も痛かったはずだ。
何とか中に入り込み、幹の道へと右足を乗せる。滑った。無理やり左足を踏みしめる。
(痛い!)
バレーの時と同様、足首をひねったらしい。気にしている暇はもちろん無い。
両足を幹に乗せた。
走る。走る。走る。
真っ暗な中を、ブレーキもかけずに。
不意に、体が軽くなった。
山田は最初そう感じたが、違う。
体が浮き上がっていた。
時間切れである。
知る限り、今はまことしやかな噂話の域を出ないこの巨木での自殺説だが、挟まれれば、本当に人が死ぬ事になってしまう。
山田は四十五度程の角度がついた時、両足でジャンプした。
横に跳び退けられれば、それで良い。
浮遊感を感じた。闇黒の中では、どの方向に落ちていくのか、分からない。
遠くに、家々の光りが見えた。それから判断するに、山田は、視界の右側に落ちるのだと理解する。
右半身に重い衝撃が走った。頬の感触から、草っぱらに着いた事が分かる。良かったと、思う。と同時に、橋山の事が心配だった。
「――大丈夫か! 山田、大丈夫か」
神様の声に起こされ、山田は目を覚ます。
首を振りながら、膝立ちをした。地面と接地した部分の冷たさが、強まる。見える世界は、暗闇と、雨の世界のままだった。
「神様、僕が戻ってから、どれ位の時間が経ってる?」
「今だ。時間は経っていない」
「そうなの。じゃあ、一瞬だけ、気を失ってた」
自分の右を見た。人が寝ている。
「橋山、大丈夫か」
肩を揺すり、顔を寄せた。息が聞こえる。
「大丈夫か、橋山」
「……な、何とか」
「立てるか」
「……うん」
と言った橋山だったが、起き上がると、中腰になったっきり、震えていた。
Tシャツとハーフパンツなのだから、仕方が無い事だろう。凍え死ぬつもりだったのかと、山田は思った。
「背負ってやるよ」
背を向けて、しゃがんだ。
橋山が乗っかった。
近くに転がっていたサンダルをはいて、歩いて帰る。左足首をひねった以外にも、足には傷がありそうだった。寒さのせいか、今は余り痛まない。
少しして、山田は口を開く。
「しんどい事もあるけどさ、とりあえず、死ぬなよな」
「…………死ぬ気なんか無かった」
「死ぬフリも止めとけよ」
山田は、頷いた気配を背中に感じる。
それ以上、この件について突っ込んだ話はしなかった。
「あと、万引きも止めとけ」
また頷いた気配。
河川敷から坂道を上り、土手を歩いた。来た時とは逆に、右に曲がり橋を渡る。雨に打たれながら、誰もいない橋の中程にさしかかった。見下ろすと、河川は相変わらず暗黒で、人を寄せ付ける場所では無いと感じる。
「訊いて良い?」
橋山が話し出す。
「さっきの木は、お前の力なの?」
水滴だらけの空に、山田は少し目を泳がせてから、
「そうだよ」
と、話し始めたが、そこで良い答えを思いつく。
「と言いたい所だけど、違う。あの木で死んだ人がいたって言ってただろ、その人が助けてくれたんだよ」
「……」
「そういう事にしとけよ」
再度、橋山は頷いた様子だった。
歩を進めた山田は、十字路にさしかかる。真っ直ぐ進み、この世に生まれてから何度も上ったいつもの坂を上りきれば、無事家に到着だ。
そこに至って、ようやく感じた事があった。
「お前って、結構軽いよな。小六なんだろ? 背も低い方だよな」
橋山は何も言わない。
山田はもう一つ思う事があった。
「お前、中州でパン食べるつもりだったの? Tシャツの中に何か入れてるよな?」
山田の胸の前で組んでいた手を、橋山が解く。
背中を殴られた。
「痛った! 何だよ」
「おい、山田」
神様が話しかけてくる。
「橋山は、女だぞ」
「えっ? うん」
(うん? ん? 女? 女? このガキが女?)
「……お前って、女なの!」
雨の勢いが衰えてきていた。
「う、うるさい。今までわからなかったのかよ!」
「わかるかよ。髪短いし、ランドセル黒色だし、言葉は乱暴だし」
「別に良いだろ。人の勝手じゃないか」
「そうだな。勝手だな。そういう事で良いから、名前はなんていうの?」
背中に女子が乗っているかと思うと、山田のテンションは急激に上がった。
「……アヤカ」
「アヤカ。女じゃないか。女の名前じゃないか」
「やっぱり気付いてなかったんだな」
「うん。わからなかった」
「誰と話してるの?」
「気にしなくて良い。独り言みたいなものだから。それより、手を前に回しなよ。バランスが悪いだろ」
小雨は、もうすぐ降りやみそうである。
少しして、橋山の手がまた山田の前で組まれた。
山田は背中に、微かな、しかし、確かなクッションを感じる。彼女の手に、目を向けた。女子のしなやかさを見てとれる。
これは山田にとって、女子と間近で触れあった、初めての瞬間だ。思わず、頭の中の言葉を、声に出してしまう。
「これが――」
唾を呑む。
「――やわらかい人間!」
楽しくなった。
坂道を駆けあがる。足の痛みはどこかへ飛んでいった。
「女子だ! 女子だ!」
後は笑うのみだ。すっかり雨の上がった空に、変態の声が響いた。
「……」
橋山は、何の反応も示さない。
山田の声と動きが止まる。やってしまったと思う。喜びすぎで、完全に引かれてしまったはずだった。
手を離し、彼女の足を自由にする。
「逃げて良いよ」
橋山は逃げない。
「何で?」
「だって引いただろ」
「うん」
「じゃあ行けや。お前も僕を避けたら良いやん!」
「急に何なの? 関西弁だし、不安定なの?」
「うるさい! 女子は皆逃げていくんや!」
「別に逃げないからさ、負ぶって行ってよ」
「……逃げないのか!?」
「うん。まだあんまり歩けそうにないし」
「そうか」
山田は、橋山の足をしっかり抱える。
自分が隠れていた電柱を通り過ぎた。
「助けに来てくれたの、嬉しかった」
「えっ、うん」
「ありがとう」
感謝されたのが、凄く嬉しかった。
やっぱり、何事も挑戦してみるものなのだ。
胸が高鳴っていた。が、これが好きという気持ちなのかは、結局の所分からない。
「カット!」
神様の声がする。
「山田――」
山田は顔を傾けて、反応を示した。
「百点だ」
嬉しかった。初めて、神様が満足したのだ。それも、自己演出無しで。
どこに出会いが転がっているのかは、本当に分からない。橋山とのエピソードが生まれる等とは、山田には思いもよらなかったのだから。
落ちぶれた自分に、神様が天使を連れてきた気がした。
朝の陽ざしの中、山田は校門を駆け抜けた。
「セーフ! 遅刻してないだろ」
「これからは、遅れる事は許さないからな」
「何で?」
横に浮かぶ神様と話す。
「そういう所から直すんだ。真面目な方が、女子の好感度も上がるかもしれないだろ」
「はいはい。まぁ、出来る限りね」
昇降口に向かって歩いて行く。
山田は、神様と出会ってからの事を考える。中学校の女子とは、今の所誰とも仲良くなれなかった。
複数の女子と仲良くなるなど、夢のまた夢だ。
それどころか、嫌われており、誰からも好かれてはいない。
橋山とは近付いた気がするが、相手はまだ小学生である。付き合うという事は、やはり想像出来なかった。
総合すると、状況はマイナスになっただけだ。
それでも、進んだ気がする。
「そういえば、三角達には謝りを入れろよ」
「うん。ちゃんと頭を下げるよ」
昇降口の手前に、見覚えのある人物がいた。
恨んでいた男子生徒である。
山田は迷う事無く、駆け寄った。
まず一番に、彼の元へ行かなければならない。
白い息を吐きながら、自分がこれからどうなるのかを考える。
女子と付き合えるのか、付き合えないのか。
付き合えたとして、相手は誰なのか。みことや菊地原なのか。もしかして橋山なのか。それとも、まだ出会ってさえいない女子なのか。
何一つ、分かっていなかった。
恋愛とは何なのか、好きとはどういう状態なのか。
女子はまとめて女子であり、今は誰の事も掘り下げて考える事も見る事も出来ていない。
分かっている事はただ一つ。前向きな挑戦を続けるという事だけ。
未来が、無限の広がりで自分を試している気がした。
憎かった彼も白い息を吐いている。同じ様に歩いている。
山田直道は近づきながら、今の状況を整理した。
クラスの中心人物でなくても、スポーツに打ち込んでいなくても、人々が笑顔を向けてくる存在でなくても、それでも、案外自分は、
(青春ど真ん中を生きている)
この日は珍しく一人でいる男子生徒の肩に、そっと触れる。
女子に大人気の彼が、振り向く。
山田は目を見て、口を開いた。
「この前は、ごめん」




