scene04
ランタンで照らさせる視界だけを頼りに、歩き慣れてきた森の道中を進む。
存在を確認するかのように、エリィは気が散る度に何度もポケットに手を当てる。
そこには、ぐしゃぐしゃの紙が数個と、地下牢から持ち出した一冊の本があった。
地下牢を後にする際、エリィは本を握り締め苦渋の選択を強いていた。
この本をゼイザルに見せ、赤色の文字と捕らわれていた人物についてを尋ねたいという心のはずみと、持ち出していい品物なのかという判断だ。
長年この場に放置された本だ。持ち出したとして誰かに迷惑がかかることがあるだろうかと思う反面、もし略奪の扱いをされゼイザルに迷惑がかかってしまったらと考えてもしまう。
おろおろと悩んだ末、好奇心が勝り本を持ち出した。
人の所持物か判断が付かないが、泥棒染みたことをしている最中で歩く城下町は、いままで一番ハラハラし気がきでなかった。
手に握るランタンが小刻みに震えている。
本を持ち出したことに負い目を感じてる度、すぐに元の在処へ戻すと言い聞かせ何度も気持ちを落ちつかせた。
小屋までの道すじがいつも以上に長く感じ、咄嗟に早足となってしまう。
こんな時に限り、誰かと鉢合わせしたらなどと考えてしまい、呼吸が荒くなる。
ゼイザルの言っていた「この世界じゃお前は生きていけない」という言葉が頭をよぎった。
何かを盗ることや奪うことなど、この世界ではたいしたお遊戯にすぎない。
つくづく自分の情けなさに、エリィは大きなため息をこぼす。
たかが本一冊持ち出しただけなのに、頭の中はごちゃごちゃだった。
周囲に気を遣う余裕がないほどに、意識が本に削がれていた。
「お前、ナニモノだ?」
不意に、背後から聞こえた呼びかけにエリィの血の気が引いた。
足を止め、ゆっくりとランタンを向ける。
「臭いがスル。お前から、臭ウ」
明かりに照らされ現れたのは、二本足で歩を進める獣と化した人だった。
エリィは知っている。この世界では人はああいう姿になれるということを。
小さく悲鳴を上げ後ずさる。
が、本能的に、血が騒ぐ。
右手が燃えるように熱くなり、血管が唸りを上げる。
無意識の内に皮膚がどんどん変色し、黒くなってゆく。
爪も黒光りするほどに変わり果て、本来の長さが見違えるほどに鋭利なものと変化する。
だが右手首を境に、変色することはなく熱も引いていった。
咄嗟の出来事に、思わずランタンを握り締める手に力が加わり、取って部分が砕けてしまう。
地に落ちたランタンが照らす獣が、エリィの右手を凝視し、小さく首を傾げる姿が見てとれた。
「オカシイ、臭いハ、お前からスル」
後ずさりするエリィの周囲を探るように、鼻を嗅いでいる。
そこしれない恐怖で、言葉を発することすらままならない。
両手を胸の前に添え、全身の怯えを抑えようとする。
弱弱しく震える右手が、目前にいる獣に対して力の無さを物語っていた。
「何を、探して……?」
振り絞った声で、やっと思いで言葉を口にする。
「においって、いったい」
「お前、ココの世界の奴、ダガ、臭いハ、忌々しい、臭いダ」
獣の息が荒くなる。
元々人の姿を保っていた箇所までも、徐々に変わり果てていく。
やがて全身が黒い毛に覆われ、剥き出しになった歯は鋭利な牙となり、毛に覆われた禍々しい瞳が突出し現れエリィを捕らえる。
「モウ、面倒ダ、お前の血ハ、何色ダ」
その声が獣から発せられたと気づいた時には、エリィの体は数十メートル離れた位置に倒れこんでいた。
体からじわじわと流れてくる痛覚に、エリィは呻きをあげる。
痛みが走った脇腹に両手を被せ、もがき苦しむ。
獣はエリィを抉った鉤爪を、ランタンの光に照らし眺める。
「オカシイ」
そして、また首を小さく傾げた。
「お前の血、黒色ダ」
瞬時にエリィの体に覆いかぶさり、臭いを嗅ぐ。
エリィはその姿を、霞む視界で捉えるのがやっとだった。
フードが捲れたエリィの顔を睨みつけ、獣は荒い息に言葉を交える。
「小娘、ドウイウことダ、コノ臭いハ、ドウイウことダ」
目前の絶望に、エリィはただただ怯えることしかできなかった。
この世界では、力が全てだということは理解していたつもりだった。
けれど、いま起こっている現状に、考えが甘かったと後悔する。
ゼイザルは常に言ってくれていた、こういう理不尽が起こる世界なのだと。
「知らないよ、そんなの」
諦めたように、エリィは泣きじゃくってしまう。
だが獣はそんなことお構いなしに、荒い息を吹きかける。
「コノ、忌々しい臭いハ、ドウイウことダ、お前ハ、ドッチダ、ドッチなんダ」
エリィには何一つ理解できなかった。
この獣に襲われる理不尽も、問いかけの意味も。
ただただ、いつも通りを生きていただけなのにと。
そう思った時、一つだけイレギュラーが頭によみがえる。
「この本……」
変わり果てた右手で、ポケットの本を取り出す。
その瞬間、獣は狂ったかのように毛を奮い立たせ、雄たけびを上げた。
本をエリィの手から吹き飛ばし、地面に転げる本目掛けて飛びつく。
そしてこれでもかという程に、跡形も無く切り刻む。
その姿を横目に、エリィは朦朧とする意識の中、何とか地面を這おうとする。
「小娘、これハ、どこデ、手に入れた」
だが、これまでに無いほどの静かな声で発せられた獣の言葉により、静止する。
まるで操り人形かのように、エリィは言葉をつらつらと並べる。
「お、お城の地下牢、そこに、その本が……! 私、地下牢の清掃を、請け負って」
「あの場ニ、まだ、あんなモノが」
近づく足音に、指先一つ動かすことすらままならない。
「ナゼ、すぐニ、始末シナカッタ」
「えっ……」
「アノ忌々しい、奴らニ、味方するノカ」
獣の影が、エリィを覆いかぶさった。
エリィはわからなかった。
本を処分する意味も、奴らという存在も。
「言っていることが、わ、わわ、わからないです、どういう」
「アア、お前カラ、まだ臭うゾ、奴らノ、血の臭いガ」
視界に、獣が腕を振り上げている影の姿が映る。
後に続く言葉もなく、エリィは望みすら失う。
もう終わってしまうのだと、両目を閉じた。
結局、会話すらなりたたない。
この世界は本当に狂っていると、右手を強く握り締め嘆いた。
「どうじて、この世界に……」
握り締める右手の感覚がまだ残っていることに気づくのに、少し間があった。
ゆっくりと目を開けると、覆っていた影が消えている。
右手を見つめ小さく動かし、まだ自分は生きているのだと実感する。
傷口を押さえながら、体を起こす。
「無事デ、何よりダ」
先ほどまでエリィに立ち塞がっていた獣は、体の上部と下部に引き裂かれた状態で地に転がり落ちていた。
その傍に、全身が鱗のような表面をし、禍々しい数本の角を生やしたそれは、徐々に人の形状へと姿を変貌させながら、たたずんでいた。
よく見覚えのある大きな背中に、エリィは心底安堵する。
傷の痛みが思い出したかのように、ゆっくりと神経へ伝わってくる感覚が蘇る。
脇腹から溢れ出る黒色の血を眺めながら、遠のく意識の中でエリィは小さく微笑んだ。
「ありがとう、ゼイザル」