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05

 オレはまんじりともせず夜を明かした。


 様々な想いが浮かんでは消え、とてもじゃないけど眠れるような状態じゃなかった。


 朝を迎え、動き始める人々の気配を感じながら、しばらくして(とこ)から起き上がったオレはそのまま村長のところへと行き、今日この村を出る旨を伝えた。


「それはまた……急なお話で」


 そう驚く村長にオレは儀礼的な挨拶を述べながらこう説明した。


「はい。蒼影牙に呼ばれた役目が終わったんで……」


 村人達にアオは蒼影牙の化身だと思われていて、オレはそのアオに外界から呼ばれた客人という設定になっていたから、そういうふうに説明した。


「そうですか……」


 村長はそう呟きながら、何かを聞きたそうな様子でチラリとオレを見た。


「何ですか?」

「えっ……あ、あぁ、いえ……。……氷上様、少し立ち入ったことをお聞きしてもよろしいでしょうか」


 動揺してせわしなく辺りに視線を彷徨わせた末、彼は意を決したようにそう尋ねてきた。


「? はい……」


 何だ?


「蒼影牙様は……何故この時期に、あのような形でお姿を現されたのでしょうか? 何百年もの間、そのようなことは一度もなかったものですから……少々、気にかかりまして」


 オレは少し沈黙して、どう答えるべきか考えた。どういう意図で彼がそれを尋ねてきたのか、計りかねたからだ。


 オレの目の前で正座をした村長は緊張した面持ちで、ひどくかしこまって見える。膝の上で握られた彼の拳は、色が白くなってしまうほどきつく握りしめられていた。


 理由は分からなかったけど、彼がひどく真剣にそれを尋ねてきているということだけは伝わってきた。


 オレは考えあぐねた末、アオが蒼影牙の化身だと自分の中で仮定した上で、率直な理由を語ることにした。


 ここで下手な作り話はしない方がいいだろうと思ったんだ。


「どうして今、蒼影牙が目覚めたのかは、外の世界の人間であるオレには分かりません。ただ……アイツは、自分を抜く者が現れることを望んでいるんです。外界にいたオレに何か惹かれるものを感じたらしくて、この地へ呼び寄せたみたいなんですけど、オレ、期待に添えなかったみたいで」


 現代人が聞いたらツッコミどころ満載のコメントだったけど、蒼影牙を神と崇めているこの村の人達にはこれで通るだろう。


「そう……ですか―――」


 村長はそう言って、苦悩に満ちた表情を浮かべた。


「やはり……蒼影牙様も、感じているのかもしれませんな。この村の限界を……」

「え?」


 村の……限界?


「外から来た貴方様には、この村の様子がどう映ったのか分かりませんが……終わりの見えないこの生活に、私共は既に疲弊しきってしまっているのです」


 しまい続けていた感情を吐露するかのように村長は話し始めた。


「水龍の(かいな)に囚われたこの村からは、自然の摂理が失われてしまいました。赤ん坊は生まれますが、ある一定の年齢で成長が止まり、そこからは老化しません。元からの老人は、いつまで経っても死にません。しかし村の人口は、減ることはあっても増えることはありません。毎年、何人もの者が水龍の贄として犠牲になるからです。老衰という選択肢を奪われてしまった私共は、自ら命を絶つか、水龍の贄となるか……あるいは獣に襲われて、命を落とすか。そのような形でしか、生涯を終えることが出来ないのです」


 小六に聞いて知っているつもりの話だった。けれど改めて聞くにつれて、村人達の絶望的な状況とどうしようもないやるせなさが胸に迫ってくる。


「意気地がないと言われればそれまでですが、自ら命を絶つというのは、やはり恐ろしいことです。自ら命を立つ勇気もない、そんな我々に残されたのは、いつ訪れるか分からない、死と隣り合わせの生活……先の見えない、永遠の地獄です」


 それは、例えるなら料亭の生簀の中にいる魚のような生活だ。オレの想像を絶する世界だ。


「いっそのこと狂ってしまえたら、どれほど楽でしょう……。村の者達も今は表向き落ち着いて見えますが、いつ、精神が破綻してもおかしくないような状態にあるのです」


 そう語る村長の顔には疲労の色が濃い。


「この生き地獄から抜け出す方法は……水龍を、倒すしかありません。水の護り神たる水龍を傷付けることが出来るのは、神刀である蒼影牙様だけでしょう。しかしそれは、諸刃の剣。最後の選択と言えるものです」


 村長は苦渋の表情で震える声を絞り出した。


「村長という立場にいる私はこの村の限界を感じながらも、村の者達にそれを切り出すことが出来ませんでした。御神体を抜けば、村からは護りの結界が失われてしまう。武人でもない私共が、あのような立派な刀を扱えるわけもない。強大な力を持つ水龍を相手に、脆弱な人間などが敵うわけがない―――」


 絶望的な呻きを漏らして村長は額を押さえた。


「……社で蒼影牙様が貴方様に自身を抜くよう促したのを見た時から―――うすうす、そうではないかと思っていました。蒼影牙様はこの現況に限界を感じ、全てを終わらせようとしているのに違いない、と。だからあのような形でお姿を現し、そして、貴方様をお呼びになったのだと―――」


 本当のところ、オレには何も分からない。


 アオがどうして蒼影牙を抜く者を待ち続けているのか。その存在が蒼影牙を抜いた時、この閉ざされた地に何をもたらすのか。


 ―――それに、オレには蒼影牙を抜くことが出来なかった。


 全くの部外者であるオレは、何の力も持たないオレは、この件について何も口を出す権利がない。こんなに苦しい胸の内を聞かされても、どうしてやることも出来ない。


「……すいません。力に、なれなくて―――」


 うつむいてそう呟くのが精一杯だった。


 充血した瞳に涙を滲ませていた村長は我に返ったように目尻を拭い、慌ててオレに頭を下げた。


「も、申し訳ありません。つらつらと、いらぬことを申しました。恥ずかしながら、どうも心が弱くなっているようで……どうかお忘れ下さい。氷上様には、何の責もないことなのですから……」


 村長という立場にあるこの人は―――多分これまで、誰にも弱音を吐くことが出来ずにいたに違いない。だからこの村から立ち去る余所者のオレにだけ、こうして話をしたんだろう。そして、抑え続けていた感情が一気に溢れ出してしまったんだ。


 蒼影牙を抜くということは、村人全員に命を懸けろと言うに等しい。


 ……言えないよな。そんなコト……。


 総出で見送ってくれるという村長の言葉を丁重に辞退して、オレは滞在中世話をしてくれた小六に村の外れまで送ってもらうことにした。


 朝から次第にその濃さを増してきた曇り空は太陽の光を包み隠し、どんよりとしたその陰影をオレの心さながらに映し出している。


「あっ! 彪ー!」


 その途中、道端で草花を摘んでいたサチが偶然オレの姿を見つけて駆け寄ってきた。


「小六さんとお出掛け? どこに行くの?」


 無邪気にそう問いかける彼女にオレはちょっと笑いながらこう答えた。


「オレ、自分の家に帰るんだ」

「えっ? 村を出て行っちゃうの?」


 どんぐり(まなこ)をいっぱいに見開くサチ。


「うん。これから村の外れまで、小六に見送ってもらうんだ」

「えぇー……まだ一回も遊んでもらってないのに。寂しいな……」


 サチは唇を尖らせてオレの足にきゅっとしがみついた。


「どうしても帰らなくちゃいけないの?」

「うん……」

「分かった。じゃ、サチも小六さんと一緒にお見送りしてあげる!」

「そっか。ありがとう」


 オレは微笑んで彼女の小さな手を握った。


 今年六歳になる、サチ。


 この村の中で生まれたこの子は、このまま外の世界を知らずに一生をこの閉ざされた地で過ごしていくことになる。


 その運命を、彼女はまだ自覚していない。


 何も知らない幼気(いたいけ)なその姿を見ていると、胸が痛んだ。


「彪の村はどこにあるの? ここの近く?」

「ちょっと遠め……かな」

「また、この村に遊びに来てくれる?」

「うーん……ちょっと分からないな。ずいぶん遠くだから……」

「えぇー? そんなのヤだよぉ!」

「コラ、サチ。氷上様を困らせるんじゃない。大人には色々な事情があるんだ」


 頬を膨らませるサチを小六がそう言ってたしなめた。


「だってぇ」

「ワガママ言うんじゃない。氷上様が辛くなるだろう」

「ぶぅー」


 ゴメンな、サチ。何もしてやれなくて……。


 村の外れまでやってきたオレ達は、最後の別れの挨拶を交わした。


「元気でな、サチ。お母さんを困らせるんじゃないぞ」


 そう言ってサチのおかっぱ頭をなでると、彼女は頷いて、とびっきりの笑顔を見せてくれた。


「うん! サチね、あれからいい子になったの。おっかあを困らせないよ!」


 その傍らで小六が心配そうな顔をしてオレを見つめている。


「氷上様、本当に大丈夫なんですか。お一人で……」


 まさか那由良と村の外で待ち合わせているとも言えず、オレは小六を心配させないよう鷹揚に頷いて笑顔を作った。


「あぁ。蒼影牙の加護をもらったから、大丈夫。無事に帰れるよ」


 実際にまだ、アオとは繋がっている状態だ。


 オレは一度社の方角を見やり、それから小六とサチに視線を戻して二人に手を振った。


「―――じゃ! 送ってくれて二人ともありがとう。みんなにヨロシク。元気で!」

「氷上様、お気を付けて!」

「彪、元気でねぇ~!」


 小六達と笑顔で別れて、オレは村の外へと一歩を踏み出した。


 ―――今度こそ、元の世界に戻る為に。








 約束の場所に着いたのは昨日より少し早めの時刻だったと思うけど、那由良はもうそこでオレを待っていた。


「彪……」


 オレに歩み寄ってきた彼女はアオの支配が解けていない状態に気が付いたらしく、その美しい眉をひそめた。


「支配を解いてもらえなかったの?」

「いや、違う。外界に出る手前まで護ってくれるって話になったんだ」


 そう答えながら、オレは彼女に昨日のことをどう謝るべきかを考えていた。けれど、うまい言葉が出てこない。実は昨夜(ゆうべ)から考えていたものの、適当な言葉がまるで思いつかずにオレは頭を悩ませていたのだった。


「―――そう。なら、いいんだけど……」


 那由良はそう呟いて、オレを促した。


「じゃあ行こうか。こっちだよ」


 長い黒髪が、翻る。オレは反射的にその手首を掴んでいた。


「彪?」


 怪訝そうな表情で那由良が振り返る。


「那由良―――……」


 オレが口を開きかけた、まさにその刹那!


 ゴオォォォーン!


 大気を震撼させ、身をすくませるような轟音が辺りいっぱいに響き渡ったのだ!


 木々が揺れ、驚いた鳥達が羽ばたく。対照的に獣達は息を潜め、緑に囲まれた山は不気味な静けさに包み込まれた。


 これ……ケイタの車の中で聞いた……!


 全身が総毛立った。


 あの時より遠くに聞こえるけど……間違いない!


「何なんだ、この音……!?」


 せわしなく辺りを見回すオレの前で、那由良は青ざめ、全身を強張らせた。


「彪、村に戻って」


 突然の彼女のその言葉にオレは耳を疑った。


「え!? 何で……この音、いったい何なんだ?」


 問い返すオレに那由良は切羽詰まった表情で訴えた。


「説明している暇はないの。明日また、ここで会おう。待っているから……」

「ちょ……何だよ、それ。意味が分かん―――」

「いいから、早く村に戻って。ここは危ない。説明なら、明日するから!」


 何故かあせる彼女の腕を引き寄せてオレは問い重ねた。


「危ないって―――お前は、どうするんだよ」

「あたしのことは、いいから!」

「良くねぇ!」


 反射的にオレは叫んでいた。


 掴んでいる彼女の手首は驚くほど細く、白い着物を身に纏った姿は、儚げで―――このまま彼女がどこかに消えてしまいそうな、そんな予感をオレの胸にかき立てた。


「―――ひっ、氷上様ぁーッ!」


 その時、村の方角からあせりを含んだ小六の声が聞こえてきた。


「小六……!?」


 驚いて振り返ったオレの目に、転がるようにして駆けてくる彼の姿が映る。


「あぁ、良かった、間に合った! ここは危ないですから、早く村の中に……!」


 全速力で駆け寄ってきた彼は、オレの傍らにいる那由良の姿を見つけた瞬間、足をもつれさせ、派手に尻餅をついてしまった。


「―――ひっ、ひぃっ……!」


 血の気の失せた顔を引きつらせ、後退(あとずさ)りながら、声にならない声を上げる。


「みっ……水の、巫女……!」


 水の巫女?


 ただならぬ小六の様子に驚きながら、オレは聞き覚えのあるそのキーワードを反芻した。


 それって……蒼影牙を村にもたらしたっていう、あの、水の巫女のことか?


 彼女は確か、死んだって―――……。


『村の者達が恐れる、「水龍の使い」と呼ばれる存在がいる』


 昨夜のアオの声が脳裏に甦った。


『白装束を身に纏った、長い黒髪の、美しい女の亡霊―――そう、形容される者だ』


 オレは息を飲んで那由良を振り返った。


 そこには、別人のような表情になった彼女がいた。


 怯える小六に氷のような眼差しを向け、湧き起こる激情を包み隠す整った顔立ちはまるで能面のように冷たく、(あで)やかな唇からこぼれる声には凍れる楔を穿つ凄惨な響きが滲んでいた。


「あたしを水の巫女と呼ぶのは、お前の心の中にある、醜悪で厭わしい記憶ゆえか」


 暗い輝きを放つ、黒の双眸―――那由良の全身から溢れ出る強い怒りの波動を、オレは感じた。


 那由良が小六の方へ、一歩を踏み出す。オレはとっさにその腕を引き、背後から彼女を抱きしめていた。


 見たく、なかった。


 オレの知っている、那由良のままであってほしかった。


 そんな身勝手な―――子供じみた願望に彩られた、利己欲。そこから出た行動だった。


 本当の彼女を知ってしまうのが、怖かった。


 それを見たくないがゆえに、ただそれだけの為に、オレは彼女を抱きしめていた。


 彼女の為ではなく、小六の為でもなく、ただ、そう願うオレ自身の為に。


 本当の那由良を、知りたくないが為に。


「……彪」


 それが伝わってしまったのだろう。


 しばらくしてポツリと漏らされた彼女の声には、傷付いた色が滲んでいた。


「村へ……戻るんだ」


 ゆっくりとオレの腕を解き―――顔をこちらに向けないまま、那由良はそう言い置いて、静かにオレとの距離を取った。


そのまま緑の中へ消えていこうとする彼女に、オレは思わず声を上げて駆け寄ろうとした。


「……那由良!」

「来ないで!」


 鋭い声が飛び、瞬間、それまで穏やかだった小川の流れが突然逆巻いて、ドオンッ、と水柱が立ち上がった。


 ハッ、と小さく那由良の肩が揺れる。


 その現象に目を見開いて硬直するオレの前で、キラキラと輝く水の破片が、時の止まったオレ達の間をまるでスローモーションのようにして落ちていった。


 ―――水を、操る……!?


 呼吸を止め立ち尽くすオレに背を向けたままの那由良から、小さな声が聞こえてきた。


「―――あたしは水を操る妖……水妖(すいよう)だよ。体液の流れを調整して傷を治すのなんて、たやすいこと……」


 オレは息を飲んで自分の身体に触れた。


 狼に襲われて大ケガを負ったあの後、目覚めた時、何故かオレの身体にはひとつの傷も見当たらなかった。あれは……そういうコトだったのか……。


「人は……やはり、あたしには関わらない方がいい……」


 ゴオォォォーン!


 再び、あの音が響き渡った。


 消え入りそうな那由良の声が、風に乗ってオレの耳に届く。


「水龍が……呼んでいる。行かなきゃ……」


 立ち去る彼女の表情は、見えなかった。見えなかったけど、その細い肩は微かに震え、小さな背中はひどく傷付いているように見えて―――オレは激しい後悔の念に苛まれながら、同時に深い戸惑いと安堵、そんなものがない交ぜになったどうしようもない感情の渦に飲み込まれ、そんな自分に強い苛立ちと、たまらない嫌悪感を抱いた。


 ―――最低だ、オレ……。


 腰を抜かしていた小六がようやく立ち上がり、その彼に声をかけられるまで、オレはずっとうつむいたまま、奥歯を軋むほど噛みしめていた。


 悲しげな那由良の後ろ姿がいつまでも瞼の裏に焼きついていて、離れなかった。








「小六、教えてくれ。どうして彼女を『水の巫女』って呼んだんだ? 水の巫女は、とっくの昔に死んだんじゃなかったのか。それに蒼影牙をもたらしたはずの水の巫女を、どうしてお前が恐れるんだ……?」


 村の外れに戻ったオレは小六を質問攻めにした。小六は矢継ぎ早の質問を受けながら、その素朴な顔を相変わらず青ざめさせたまま、恐る恐るオレに尋ねてきた。


「氷上様は……あの方と、どういったご関係なんですか……?」


 彼からすれば、当然の質問だ。オレは正直に答えた。


「命の恩人だよ。この村に来る前に狼に襲われたところを助けてもらったんだ」

「そう……でしたか……」


 小六は地面に視線を落として、しばらくの間沈黙した。やがて顔を上げた彼は、ためらいがちにこう切り出した。


「オラには……何て説明したらいいのか、分かりません。村長に、直接聞いてもらってもいいですか」

「……分かった」


 オレ達は村長の家に向かって歩き始めた。


 さっきまでの光景が嘘のように、村は閑散とした空気に包まれていた。家々の入口は固く閉ざされ、誰一人表に出ていない。


 まるでゴーストタウンのように静まり返ったその通りを歩きながら、小六は語った。


「先程の大きな音は……水龍の咆哮です。あれが聞こえた後は、ろくなことが起こりません。近いうちに……おそらくはまた、贄の要求があることでしょう」


 あれが水龍の声……オレをこっちの世界に呼び込むキッカケになったのは、あの爆風のような衝撃は、水龍の咆哮だったのか……。


 身震いを覚えながら、オレは確認する口調で小六に聞いた。


「……『水の巫女』を介して、か?」

「はい……水龍とは違い、彼女には何故か、蒼影牙様のお力が効かないようなのです。水龍の命を受けると、彼女はこの村に現れ、そして、最初に遭遇した者に告げるのです。水龍からの要求を……」


 小六はそう言って自分の身体をきつく抱きしめた。


「だからあの声を聞いた後は、ご覧の通り、誰も表に出たがりません」


 当然だろうな。そんな役目、誰だって担いたくないに決まっている。


「もし、水龍の要求を飲まなかったら……?」

「水龍は怒り、村の外に出た瞬間、殺されることになるでしょう。少なくとも水龍に従っている限りは、年に数人の犠牲で済みます……」


 それはこのままいけば毎年数人が水龍に殺され続けるということだ。村人が一人残らずいなくなるその時まで、永遠に。


 そして那由良はその片棒を担がされ続けることになる。


 ―――そんなの、ダメだ!


 オレはきつく拳を握りしめた。


 全てを知って、那由良に会わなければ。


 どうにかして、説得するんだ!








 オレと小六から話を聞いた村長は瞳を伏せ、重々しい口調で呟いた。


「そうですか……那由良、と―――」


 障子戸をきっちりと閉め人払いをした部屋の中にいるのはオレ達三人だけだ。


 オレと小六の正面に対峙して正座した村長の顔には深い苦悩の色が滲んでいた。心なしか朝よりも憔悴しているように見える。


「那由良、と名乗ったのですね。その水の巫女は……」


 確認するようにもう一度そう呟いた彼はしわがれた手で顔を覆い、何かを(こら)えるようにして押し黙った。


「教えて下さい。彼女と、この村の関係を」


 真っ直ぐなオレの視線を受け、観念したように吐息を漏らした村長は、部屋に横たわる重い沈黙を破り、ゆっくりと話し始めた。


「……小六からお聞きになった通り、蒼影牙様をこの村にもたらしたのは、その昔この村にいた水の巫女です。名を、水那(みな)といいました」

「え……?」


 てっきり那由良の名前が出てくるものだと思っていたオレは、正直、拍子抜けした。


 那由良じゃないのか……!?


「水那は……長い黒髪の、美しい娘でした。毎日龍神の谷へ通い、敬虔に祈りを捧げる彼女が雨を乞えば雨が降り、荒れ狂う水を鎮める言霊を放てば、奔流もたちどころに穏やかな清流へと戻る―――稀代の能力を持った、素晴らしい巫女でした。この村はもとより、近隣の村もどれほど水那の力に助けられたか分かりません」


 遠い目をして、村長は言葉を綴る。


「ところがある日、水那は私の元を訪れ、自身が身篭ったことを告白してきました。純潔は、巫女の条件。身篭った彼女は、その資格を失います。しかも、相手の男と夫婦(めおと)になるわけではないと言う……突然のことに私は狼狽し、水那を問い詰めましたが、彼女は頑として相手の男の素性を語りませんでした。そして、代わりに―――水神様から授かったという、一振りの刀を私に差し出したのです」

「それが―――」

「はい。蒼影牙様でした。私のような素人目にも、身震いするような霊威が伝わってくる、紛れもない神刀でした。水神様がお許しになったのなら、と―――私は、水那の申し出を受け入れることにしたのです」


 蒼影牙をこの村にもたらした水の巫女の名前は、水那。


 じゃあ、那由良は……?


「水那は村の中心に社を建立し、蒼影牙様を祀るように提案しました。さすれば村全体に水神様の加護が行き渡り、安泰をもたらすだろう、と―――。私達はその提案に則って神事を執り行い、そして水那自らが、清められた岩に蒼影牙様を奉祀しました」

「え……!? あれ、その水那って人が……!?」


 オレは岩に突き刺さっていた蒼影牙の姿を思い浮かべて驚いた。


 ウソだろ!? あんな岩に、蒼影牙を突き立てたのが女だなんて!


「我々も驚きましたが、こう、すぃーっと……音もなく、まるで切っ先が岩に沈んでいくかのように……なぁ?」

「はい、私も確かにこの目で見ました」


 生き証人の二人が顔を見合わせて頷き合う。


 マ、マジかよ……。オレ、めいっぱい抜こうとしたけど、ビクともしなかったぞ……。


「巫女の座から退(しりぞ)いた水那は、村の外れにある家で、一人の人間として……母としての生活を始めました。他に身寄りのない彼女を心配して村の女達が時々様子を見に行っていたのですが、そこから奇妙な噂が立ちまして……」

「奇妙な噂?」

「はい。腹の子の成長速度が、尋常ではないと言うのです」

「え……?」


 眉をひそめるオレの前で、うつむきながら村長は先を続けた。


「気味悪がる者もいましたが、元々超常的な能力を持つ水那のこと、例えそうだとしても、水神様の祝福を得ている懐妊なのだからと、多くの者は善意的に捉え、私も村の女達のいつものくだらない噂話だと、さして気に留めていませんでした。しかし……それから間もなく、例の龍神達の争いが起こったのです」


 オレの地域で今も語り継がれることになる、彼方から飛来した地龍と、この地に古くから住まう水龍との戦い……。


「その争い以後、水龍は豹変してしまいました。以前、この村の近くにはもうひとつ村があったのですが、先の争いの煽りを受けて壊滅し、わずかに生き残った人々は惨い最期を遂げることとなったのです。彼らが、水龍の最初の犠牲者でした。その残骸が空から降り注いだ光景は、今も忘れられません」


 息を飲むオレの隣で、当時の記憶を思い出したのか、小六が膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。


「それはさながら、地獄絵図のようでした。初めて間近で目にした水龍の恐ろしい姿もさることながら、千切れた腕が、臓物が、人だったものの破片が、突如、空から降ってきたのです。血の雨を浴びた子供達は泣き喚き、大人達は錯乱状態に陥りました。ある者は逃げようと村の外に飛び出して八つ裂きにされ、ある者は恐怖のあまり気が触れ、突然の事態に、我々は人としての理性を失いました。本当に、ひどい有様だったのです」


 その時の情景を想像して、オレは口元を押さえた。


 ひでぇ……。


「水龍が立ち去った後、我々はしばらくの間呆けたようになっていました。何が起こったのか、すぐには理解出来なかった―――現実を、直視することが出来なかったのです。何故、あの水龍が我々を……。これまで水の護り神として崇め、祈りを捧げてきた我々を、何故、このような目に合わせるのか……。その原因は……。今後また、これと同じようなことが起こりうるのか……だとすれば、これから、この村はどうなってしまうのか……」


 眉根を寄せ瞳を閉じた村長は、呻くような声を絞り出した。


「そんな時……誰かの声が、上がったのです。『水那のせいだ』、と―――」


 冷たく降り始めた雨の音を、聞いたような気がした。


「水龍は水那の不貞に怒り、このような暴挙に出たに違いない―――あの刀もいただいたものではなく、我々を納得させる為、どこからか盗み出したものなのではないか―――……。誰が言い出したのかは、分かりません。その声に突き動かされるようにして……我々は、動いたのです」


 隣の小六がしゃくりを上げた。冷静に語ろうと努力しながら、けれど高ぶる感情を抑えきれずに、村長は声を震わせた。


「あの時は、皆が狂っていました。誰もが、冷静な判断力を、正気を失っていた。今なら、水龍が豹変した原因は他にあったのだと分かる。けれど、あの時は他に何も考えられなかった! 恐怖に支配された我々は―――水那を人柱に捧げれば、水龍の怒りは治まるのだという安易な妄執に、取り憑かれてしまっていたのです……!」


 全身をわななかせながら村長は激白した。


「当時の水那は懐妊して五ヶ月程度だったと思います。しかし、狂気に駆られて押し寄せた我々が見た彼女の体型は、まるで臨月の妊婦のそれでした。そして、その状況が事態の悪化に一層の拍車をかけたのです。『化け物の子を宿した女』、と―――わ、我々は……この恐怖から逃れたい一心で、罪のない娘に……全てを……全ての罪を、か、被せて……!」


 滂沱の涙を流しながら、村長はこの村の負う大罪を告白した。


「水那は……水那は、血にまみれながら叫んでいました。人柱になるのは構わない、と、それは水の巫女であった自分の責務であるとさえ、言っていました。ただ―――後生だから、お腹の子を産むまで、それまでどうか待ってほしい、と―――」


 血の気の失せた村長のひび割れた唇から、子を想う母親の末期の声がこぼれ落ちる。


「『どうか、那由良を産むまで、待ってほしい』―――と……!」


 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、全身を突き抜けた。


 ―――水那は、那由良の……!


「む、村長……そうなんですか……!? オラは、てっきり……」


 この事実は、小六も知らなかったことらしい。小さな目を見開いてそう問う彼に、村長は沈痛な面持ちで頷いた。


「ここまで知っている者は、今はもう、私しかいない。その私も……氷上様から今回の話を聞くまで、あの巫女は水那の亡霊だと思い込んでいた……。まさか、あの時の水子の霊が、成長した姿を纏って現れていたとは……」

「―――亡霊なんかじゃない。那由良は、生きている。あんた達とおんなじだ」


 そう断言したオレに村長はためらいながら意見した。


「し、しかし……瀕死の水那の胎内にいる彼女ごと、我々は、龍神の谷に……投じたのです。あの状況で、とてもあの赤子が助かったとは……」


 水の巫女が迎えた残酷な結末に、オレはやりきれなさでいっぱいになった。


「そこからどういう経緯(いきさつ)があったのかは分からない。けれど、彼女は確かに生きている!」


 水龍の腕に、囚われて。


 強い口調で言い切り、唇を結んだオレを見て、村長はとめどなく溢れる涙を拭った。


「何故……こんなことに、なってしまったのでしょう。水那と彼女に対して、我々はただ詫びることしか出来ません……。あるいはこの現状が、我々の犯した罪に対する罰なのでしょうか……」


 その言葉に再び涙を浮かべながら、小六がぽつりと呟いた。


「もしも、時を戻すことが出来たなら……」


 二人の声には取り返しのつかない、深い悔恨の念がこもっていた。

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