【3】
学校にチャイムが鳴り響いた。昼休みに入り、いつものように生徒達が複数のグループを作って、席をつけたり、離したりしながら、弁当を開けはじめている。机が床を引きずる音、ローファーによるアンサンブル。
ワタルは二時間前の数学の授業中にはお腹が空いていたが、それを忘れるほどの勢いをもって言った。
「色々と本を読み進めているけどさ、こんなにも僕が知らない世界が広がっていたなんて、思いもしなかったよ!」
ヒロキは母の作った、愛情たっぷりのだし巻き玉子を、箸で摘まみながら、ワタルに応えた。
「こっちも驚いてるよ!一つの夢で、こんなにも人間変わるものかってね!」
少女は、自身のあらゆる力を、教室の窓越しに浮かぶ大きな空に放下して、ゆっくりと顔を上げた。
「なんていうのかな…、ワタルの変わりぶりや三人の変化には驚くことばかりだけれども、謎は深まるいっぽうだわ…。突然の夢告から3ヶ月が経った今、なんで広大な草原や赤いフェアリーはワタルの夢に現れなくなっちゃったんだろうって…。ワタルから初めて聞いたときは、再びワタルの夢の中に現れるだろうと、当然のように思っていたけれど…」
ヒロキはいつものように神妙な顔つきをして、ユカを見つめた。
「だからこそ、面白いんじゃない!一度っきりだからこそ!」
「それは、そうなんだけど…、このままじゃ夢の真相を解明する前に、終わっちゃいそうじゃない」
ワタルはユカから切なるものを感じた。それに対して、なんて答えればいいのか、分からなくなったが、同時に、根拠の無い、微かな希望を感じているのも事実だった。
「まぁ、その時はその時だよユカ…。それよりもさ、三人でこれだけ世界を広げてきたことが、何よりも大事なんじゃないかな…。これからも続けていけばヒントになる人物や本にも出会えるかも知れないし」
「そうだよユカ…!これからも続けて行こうよ!」
ユカは、不安を漏らしたら、少しばかりか、楽になった。
「モチベーションを維持するのって、辛いわね…、う~ん…、へんに期待することを辞めてしまえばいいのかな…。まあ…、続けていきましょう!今回のテーマは善因楽果、悪因苦果、自因自果よ」
「聞き馴染みは無いけど、なんか面白そうなテーマだね!」
「仏教からのお話なんだけれど、面白いことに、あのイエス・キリストも説いていることなの。繋がりを発見すると、興味深いわね」
ヒロキは相変わらず、ロマンを感じざるおえなかった。
「へぇ…、そうなんだ!ユカ、それでどんな話しなの?」
「例えば、今、恵まれていると感じるなら、それはどこかで善い種を蒔いたから。今、苦しいと感じるならば、それはどこかで悪い種を蒔いたからなの。また、それは他の誰のせいでもなくて、自分自身が生み出している、っていう意味よ。しかもそれは、過去世や未来からも起因してくると、仏教では説いているの」
「う~ん、じゃあ…その法則によると、不都合に感じることや、不合理に思ってしまうことも、どこかで自分自身がやってきたことなのかぁ…」
ヒロキは先程までの高揚感が嘘のように鎮まっていった。箸が止まる。少年は説明のつかない、命の重みをじわじわと感じだした。
「逆にいえば、なんでこんなにも待遇がいいんだろうって、感じるときも、自分自身から生じたことだよね!ってことはさっ、やったらやっただけの成果が上がるってことだよね!」
「いいなぁ~…、ワタルは、そんなに楽観的で…。俺なんかさあ…、いま…、得体の知れない重圧で押し潰されそうだよ…」
「ヒロキはさっ、それだけ真摯に受け止めているってことだから、本当に凄いよ!」
少女は閃いた。
「私が思うのはね、善い心がけが大事だと思うのよ!」
ヒロキは得体の知れない重圧を感じたまま、言った。
「じゃあさ…、何を善いとして、何を悪いとすればいいの…?」
「う~ん…、私もそこなのよね。本題はそこよ!」
今回のテーマとブレインストーミングにワタルは深く感じるものがあった。赤い妖精が言ったこと(地上にいながら、天上の安らぎをえること)について、繋がりがあるように思えたからである。
「なんだと、思う、善いことって?」
しばしの沈黙が続いたあと、ヒロキは潰れそうになりながら、口を動かした。
「こんなにもさ…岩のように重たくて、かげろうのように儚く、硝子のように繊細で、海のように広くて奥深い命を…、傷つけたり…、損ねたり…、しないことじゃないかなぁ…。命を感じること、大切にすること…、育むこと…」
ヒロキがため息をつくかのように言った不器用な言葉が、二人の心の宇宙に響き渡たり、その星や星座の一つ一つの輪郭や鼓動をはっきりと感じとれた。少年と少女は、何か、尊いものを発見したように思えた。
「そうね…。命を…、大切にしましょう」
校舎の遥か上空を流れゆく雲の行き先は、大いなる空のふところに消えていった。少年少女の心情は、頼りなくも偽りもない、彩色のプリズムで時を照らした。