森の中
二人は一息ついたのち、苔がうっすらと生えた柔らかな地面を歩きだした。
森の中は、二人の歩く、しゃりしゃりという音以外、何も聞こえない。延々と続く木々、少しだけ覗く月光、そして紫色の霧。その中をうごめくものは、千弦とコウの二人きりであった。
千弦は、隣を歩くコウの横顔を見上げた。コウは進行方向をじっと見据えていた。彼の瞳に映っているものは、生い茂る木々ではなく、その先の何かに見えた。
「コウは、奈々子と話したことがあるって、言ってたよね」
「うん」
「夢の旅人は、夢の主に話し掛けないんじゃなかったっけ」
「あー」
コウは、ばれたか、と言うように帽子越しに頭を掻いた。
「確かに、君の言うとおりだよ。だけど、僕はこんな世界を創ることのできるプリンセスとどうしても話がしたかった。だから、ちょっと策を考えたのさ」
「策?」
「手紙を城に送ったんだよ。プリンセスと直接話さないで、手紙でやり取りしたんだ」
「それって、有りなの?」
「んー、文通しても僕の身にもプリンセスにも何も起こらなかったから、大丈夫だったんじゃないかな」
「ちょっと待って、奈々子、今城に閉じこもっているじゃん!もしかしてコウの行動が原因だったんじゃ……」
千弦は疑いの眼差しをコウへ向けた。
「わわわ、違うよ、千弦さんっ!」
コウが慌てて手と首を振った。
「そんなに頻繁にやり取りをしていたわけじゃないし、そもそもプリンセスから返事が来なくなってからしばらくして、プリンセスは閉じこもってしまったんだ」
「へーえ。まあ、いいか」
千弦がそれ以上追及する素振りを見せなかったので、コウはふうっと、胸を撫で下ろした。
「それにしても……」
千弦がまた口を開くと、コウはびくっと、体を強張らせた。まさか、まだ疑われているのか……。
「奈々子が夢の世界を創る力を持っていたり、夢の世界であなたと文通したりしているなんて、全然知らなかったな」
本当に、何も知らなかった。千弦は虚しさを覚えた。奈々子とは出会って以来、千弦にとって一番の友人であった。奈々子は千弦が考えもしないような話をたくさんしてくれ、それを聞くことがとても楽しく感じられた。
よく考えれば、奈々子が話してくれた空想に感じた話は、実は夢の世界に関連した話だったのかもしれない。しかし、奈々子が夢の世界を創る力を持っているということは一切聞いていなかった。
「教えて欲しかったな。自分は夢を自在に操れるんだよって」
「もし、真実を聞いたとして、千弦はプリンセスの話を信じられた?」
「多分、また空想だと思って、信じなかったと思う。でも、一言でもそんな話を聞いていたら、奈々子が目覚めなくなったときに、何かピンと来るものがあったかもしれない。そうしたらもっと早寝して、夢を見ようと努力できたかもしれないのに」
千弦は悔しさを噛みしめた。自分が奈々子の話をもっとしっかり聞いていたら。睡眠や夢に対して、もっと関心を抱けていたら。今から思うと、もっと奈々子のことを知るチャンスはあったかもしれない。
「自分を責めるのはやめて、千弦」
コウはなだめた。
「プリンセスの夢の世界を創る力は、人並み外れている。幼い頃からその力を持っていたとすると、周りの子達とはなかなか馴染めなかったかもしれない。自分が特殊な人間だと気付くまでは、皆が同じように夢を自在に操れると思っていただろうからね。自分が周りとは違うと知ったとき……彼女は怖くなったのかもしれない。友達や家族から、『変な子』とレッテルを貼られるのを」
「だから、私にも夢を操る力のことを隠していたってこと?」
「そう。君はプリンセスの親友なんだろう。誰だって、親友に嫌われたいとは思わないんじゃないか」
「奈々子が何を言ったって、私は絶対に奈々子の友達をやめないのに……」
千弦には、奈々子との友情を自分から壊さない、絶対の自信があった。
「奈々子は私のこと、信じてなかったのかな」
「他人の本心なんて、自分にはわからないものだ。自分を本当に知っているのは、自分だけ。他人を本当に知っているのは、他人だけ、だ」
コウの黒い目は一瞬、冷気を放った。何かを恨むような、悲しむような、そして怯えるような、複雑な瞳だった。
しゃりしゃり。二人の間に沈黙が流れ、また足音だけが森に響く。
「プリンセスは、周りから苛めを受けていたりはしなかったかい」
沈んだ声で、コウは問いかけた。千弦はすぐに思い出した。千弦が奈々子に出会ったときには既に、奈々子は『不思議の国の沼田』と影で呼ばれていたことを。
「学校で、変なあだ名で呼ばれてる。中学校のときからずっと」
「なぜそんなあだ名で呼ばれていると思う、千弦」
「えっ……」
千弦は隣を歩くコウの顔を見上げた。コウは悲しげな微笑を浮かべて言った。
「何か、そのあだ名の心当たりがあるんじゃないかい」
コウの声は穏やかだった。が、その声には先程の瞳のような冷たいものを含んでいるように、千弦は思えた。