逃走
千弦とコウは、紫色の市場を疾走していた。
千弦のスカートは激しく揺れ、コウのマントはばたばたと踊った。
後ろからは、狼のような姿をした真っ黒な獣達が、赤い目を光らせて二人を追ってきている。獣が『グルオオオオオ』と吠えるたび、ギザギザで鋭い歯がむき出しになる。
「やつらは噛み殺す気で襲ってきている。狙いは僕だろうから、君は殺されないだろうが……気をつけて。万が一にも死ぬな」
走りながら、コウが千弦に叫んだ。
「ここで死んでしまうと、どうなるの」
はあはあと息を切らしながら、千弦が叫んだ。
「現実世界に肉体を持つ者は、他人の夢の中で死ぬと、その時点で脳死となる」
「脳死……」 千弦はその重い言葉を繰り返した。脳死。死に限りなく近く、しかし体はまるで生きているかのように……。
「夢の旅人の場合は、存在が消滅する」
淡々と、コウは続けた。
「僕が消滅すれば、夢の世界で君を案内する者がいなくなるだろう。千弦一人なら、現実へ追い出すことだって簡単だ。プリンセスは君の親友ということも考えると、狙いは僕に絞られる」
「奈々子が、誰かを殺そうとするなんて考えられない……」
「だが実際、こうして僕達は追われている」
確かに、逃げても、逃げても、獣達はしつこく追ってきている。なんとか城の方へ行こうとするが、すぐに行く手を阻まれてしまうのだった。
「わっ……!」
コウの一歩後ろを走っていた千弦は、瓦礫に足を取られ、バタッと音を立てて倒れた。コウが振り向いた先では、獣が千弦を目がけて飛びつこうとする直前だった。
「千弦!」
咄嗟に、コウが崩れたテントから、一メートル程の折れた鉄パイプをはぎ取り、千弦の後ろから飛び出した。
「やあっ!」
まるで野球選手がホームランを打つべくバットを振るうかのように、コウは鉄パイプを獣に命中させた。
ぼこんっ。鈍い音を立て、獣が吹っ飛んだ。しかし、どこから湧いて出たのか、獣達は次から次へと飛びかかってきた。
千弦はさっと起き上がると、崩れたテントから、コウと同じような武器を探した。
ぼこんっ、ぼこんっ。コウは次々に襲いかかる獣達を、バッティングのように跳ね返していた。
「しまった……!」
獣の一匹が、コウの振るった鉄パイプを避け、コウの真上から飛びかかった。
「キシャァァァァァァ!」
獣はぎざぎざの鋭い牙をむき出しにし、コウの頭目がけて空中から襲いかかる。
コウが、おしまいだ、と目をつぶったそのとき、「きゅわぁぁん……」と獣が情けない鳴き声を発した。
何が起こったのかと、コウが目を開けると、そこには先程までコウの真上にいた獣がぐったりと倒れていた。獣の腹には、五百ミリリットルのペットボトルくらいの大きさの木片が突き刺さり、そこからだらだらと、黒い血液のような液体が漏れだしていた。
「さ、刺してみた……」
少し震えた声で、千弦が言った。コウは目を丸くした。
「君、なかなかやるね」
「まあ、手頃な物がたまたま見つかったから……」
そして千弦は、目の前で倒れている獣から、木片を抜き取った。すると、どろどろと黒い液体が流れ出した。
コウはさらに目を丸くした。この子は思っていたよりも度胸がある。少々城までの道のりが長くなってしまっても、この子なら耐えられるかもしれない。
「この獣達、頭いいね。仲間が一匹血を流したら、皆向かってこないで、威嚇だけしてる」
確かに、つい数分前までは次々に襲いかかってきた獣達が、今は皆、千弦とコウから距離を取り、「グルルルル……」と喉を鳴らしていた。
「そうだね。だけど、すぐにまた向かってくるだろうね。特に、奴等に背を向けて走り出したら」
「でも一匹ずつ倒しながらあの中を突破するのは難しいよね」
千弦は威嚇してくる獣の軍団を見て、途方に暮れた。
「一匹ずつ、か」
コウがそう呟いたそのとき、足元がぐらぐらと揺れ出した。
「何?!地震?!」
千弦が叫んだ。
「すごい揺れだ!千弦、僕から離れるなよ!」
がたがたと、廃墟となった市場が音を立てる。
千弦は、地下から何かが噴出してくるような感覚に囚われた。獣達はおどおどと、互いに顔を見合わせていた。揺れはどんどん酷くなっていく。
「コウ、もしかして、世界の崩壊っていうわけじゃないよね?」
希望を込めて、千弦は聞いた。
「わからない。一体これは……」
どーん。どーん、どーん、どーん。
揺れが最高潮に達したそのとき、地面を押し上げ、たくさんの木々が天を目がけて突き出した。木々は、どーん、というすさまじい音を上げながら、次々に現れた。
逃げ惑っていた獣達は地面から突き出した木に身を貫かれたり、突き出てくる木々によって弾き飛ばされたりしていた。
あまりの揺れに千弦とコウはよろめき、その場にしゃがみ込んだ。コウは千弦を守るようにして、肩を抱き寄せた。
地震が治まると、市場は木々が生い茂る森林へと変貌していた。
辺りには相変わらず紫色の霧が立ち込め、背の高い木々の間から、ほんの少しだけ満月の光が射していた。
「どうなっているの……」
立ち上がりながら、千弦が茫然として言った。
「多分、これもプリンセスの仕業だろう。獣では千弦のことまで傷つけてしまうと悟った彼女が、作戦を変えてきたんだ」
千弦と同じように立ちあがったコウは、周りをぐるっと見渡した。
「きっとプリンセスは、僕等を迷わせるつもりだね。そして城にたどり着けなくなって、諦めるのを期待しているんだ」
「そんなに、現実に戻りたくないんだね……」
悲しげに呟いた千弦を励ますかのように、コウは千弦の頭に片手を置いた。
「大丈夫。城の方角は分かっている。夢の旅人は、だてに『旅人』と呼ばれているわけじゃない。旅には慣れているんだ。予定より少し時間がかかるかもしれないが、絶対にプリンセスのもとまで君を送り届けてみせるよ」
「うん……」
「そういえば」
コウが何かを思い出した、と言うように、話を変え、手を下ろした。
「千弦は寝ている最中、あまり夢を見ないでしょ」
「夢はほとんど見ないけど、いきなりどうして?」
「僕は君にプリンセスのことを伝えるため、ずっと君が夢を見るのを待っていたんだ。何せ僕は夢の旅人だから、君の夢の中でしか接触できないからね」
「そっか。それじゃあ、一週間くらい待っていたの?」
コウは大きく頷いた。
「そうだよ。いつになったら夢を見るのかと、そわそわしていたよ。話に聞いた通りだ」
「私の話を誰に聞いたの?」
「プリンセスだよ」
苦笑いを浮かべながらコウは答えた。
「僕は何度か、プリンセスと話をしたことがあるんだ。その度に、千弦の話になってね。『また千弦が夢を見なかった』『千弦にまた眠るのは退屈と言われた』って、愚痴っていたよ」
そう言われて千弦は顔を赤くし、斜め下を向いてしまった。
「ははは」
そんな千弦を見て、コウは穏やかに笑った。
「千弦」
笑顔のまま、コウはまた、千弦の頭に片手を載せた。
「今、君が見ているものは夢。この夢は悪夢ではなく、君にとって『見て良かった』と思える最初の夢にできるよう、一緒に進んで行こう」
コウは優しく、千弦の頭を撫でた。
「ありがとう」
千弦はほっとしたように、笑顔を零した。
「出発早々、いろいろあって疲れたね。あそこで一休みしよう」
コウは千弦から手を離すと、前方に横たわっている折れた樹木を指差した。
「そうだね。正直言って……」
「ん?」
「正直言って、本当にいろいろありすぎ」
千弦は何かを言いかけてやめた。そんな千弦を、コウはただ黙って見つめていた。