夢の世界
扉の先は、千弦にとって初めて見る光景だった。
空は雲ひとつなく、紫色を放っている。異国のようにテントが並んだ市場は、紫色の霧に包まれ、その霧の向こうには、おとぎ話に出てきそうな城のシルエットがぼんやりと見える。
千弦がこの紫色の世界で知っているものはただひとつ、空に光り輝く満月だけであった。
「この世界を、奈々子が創ったの……?」
「そう。ここは彼女が創った世界。そしてこの世界の創造主であるプリンセスは、あそこにいる」
コウは城の影をじっと見据えて言った。
「あの城に行けば、奈々子に会えるんだね」
千弦は目指す先を確認し、少しほっとした。未知の世界ではあるが、夢の世界について詳しい案内人がいて、行くべき場所も把握できた。意外に早く奈々子を連れ出せるかもしれない。一筋の希望が見えた気がした。
それにしても。
なぜ奈々子は、こんな紫色の世界を創り出したのか。市場には人っ子一人おらず、商品の陳列棚は倒れて果実がそこら中に転がっていたり、魚や肉がでろでろに腐っていたりしている。異臭も酷い。
どうせ引きこもるなら、もっと綺麗な街を準備すれば良かったのではないかと、千弦は疑問に思った。
「夢の世界は、自分の思い通りに創れるわけではないの?」
「うーん、難しいところだね」
コウは腕組みをして目を細める。
「そもそも、夢の世界を創ること自体、常人にはできない技だ。君も、自分で好きな夢を創って、自由に世界を動かしたことはないだろう」
確かにそうだ。特に千弦は、夢自体あまり見ない。見たとしても、それは悪夢の場合が多く、夢はできるだけ見たくないと思っていた。
「だが、稀に、潜在的に夢の世界を自在に創ることのできる能力を持った人間が、生まれてくる。その中の一人がプリンセスだ。しかも彼女は、夢の世界を生み出し、維持する力が人一倍強い。だからこそ、こんなになっても、この世界を崩壊させずに済んでいるんだよ」
「こんなにってことは、以前この世界は……」
「もっともっと、美しかった」
コウは荒廃した市場を悲しそうに見渡した。
「ここは言わば、夢の旅人の休憩所だった。中にはこの世界に長く身を置く者もいて、その者達が市場で商売をしていたんだ。この市場は満月と街の明かりに照らされ、たくさんの人が行き交っていた。毎日がにぎやかで、皆笑顔だった……」
過去の記憶に思いをはせて語るコウの話を、千弦は真剣に聞いていた。
「しかし、ある日突然、この世界は変わり始めた。異変に気付いた僕は、世界の創造主であるプリンセスに会いに行ったが、夢の旅人である僕の力で城の扉を開くことはできなかった。だから旅人ではなく、かつ彼女を説得できそうな人間を探して、君を訪ねたんだ」
コウは千弦の方を向いて、深刻そうに眉を曇らせた。千弦は目で頷く。
「夢の旅人は、基本的に夢の世界の仕組みに干渉することはできない。『城の扉を閉ざす』という、プリンセスが創り出した『世界の仕組み』に、僕では成す術がなかったのさ」
どこか自嘲気味に、コウは吐き捨てた。
「ちょっと待って。そもそも、夢の旅人って、現実にいる人間ではないの?」
「そうだね……」
コウは少々困ったように横を向き、千弦から視線を逸らした。
「簡単に言うと、誰かの夢の中でしか存在できず、現実の世界では肉体を持たない者のこと……それが夢の旅人かな」
深緑色の麦わら帽子のつばを、ちょんっ、と人差指で上げながらコウが答えた。
コウは横を向いたまま、視線だけ千弦に送った。千弦は明らかに『説明不足』といった顔で、コウをじっと見つめていた。
コウはまた視線を逸らして言った。
「例えば、君が暮らす現実の世界では人間の他にも、鳥だとか虫だとか、いろいろな生物がいるだろう。夢の世界も同じ。夢の世界には、現実に肉体を持つもの、持たないものがいる。この『現実に肉体を持たないもの』が夢の旅人だ。さらに現実に肉体を持つものの中でも、夢を自在に操るものと操ることのできないものに分けられる。まあ、どんな世界でも存在の多様性がある、とでも言おうか」
なるほど。ここまで聞いて、千弦は少し納得した。自分は自分が生きている世界がなぜ存在するのか、今まで考えたことが無かった。だが、こうして改めて考えてみると、自分が暮らす世界のことすら、知らないことばかりだ。地球には夢の世界があって、そこに自分が知らない存在がいてもおかしくは無いのかもしれない。
と、千弦は自らを半ば強引に頷かせた。このまま夢の世界や旅人について考え込んでいたら、奈々子救出が遅くなってしまうと考えたからだ。
「わかったよ。そういうことで納得しておく」
「そう言ってもらえると、ありがたい」
コウは千弦に向き直すと、にこっと笑った。
「さて、それじゃあまずはこの市場を抜けて、住宅街を目指そう。目的地の城までは意外に距離があるから、休憩ポイントを設けないとね」
そのときだった。
コウの表情が、突然、きりっと引き締まった。
何事かと、千弦がコウに問いかけようとしたとき、コウは「しっ」と、自分の唇に人差指を当てた。
百八十度の空間を見渡し、ぴりぴりとした視線をあちこちに飛ばすコウは、まるで毛を逆立てた猫のように、紫色の霧に向かって威嚇の意を示していた。
「プリンセス……、何かこちらによこしたな」
すると、紫色の煙の中から『グルルル……』と、獣のようなうなり声が聞こえてきた。
千弦も気がついた。何か危険な存在が多数、自分たちの前方から近づいてくることに。