出会い
眠い。
昼食後、五時間目の英語の授業を受けながら、千弦は眠気と戦っていた。
弁当を食べてお腹がいっぱいになっただけでも眠気が襲ってくるというのに、今日はほぼ徹夜明けときている。さらに、千弦の苦手な英語の授業だ。
次々と語られ、次々と黒板に書かれる異国の言語に、千弦は瞼を引っ張られていた。
瞼が下がる。
こくんっ、と頭が下がっては、「いけない」と頭を上げ、また、こくんっと頭が下がるとすぐに上げる作業が続いていた。
「まずい、起きろ自分」
心の中で千弦は自分を鼓舞する。居眠りなんて、いけない。
それからしばらくして、頭の上げ下げをすることがなくなった。
眠気に勝ったのではない。
この日の千弦は眠気に負けて、机に突っ伏し、心地よさそうな寝息をたてていた。
はっと千弦が気付くと、教室の廊下の先に、未だに意識がないはずの奈々子が、千弦に背を向け立っていた。
「奈々子?!」
千弦は駆け寄ろうとした。しかし、なぜか奈々子との距離は縮まらない。
「奈々子、奈々子!」
親友の名前を叫び、追いかける。が、千弦がどれだけ走っても奈々子に追いつくことができない。奈々子は最初にいた場所から動いていないと言うのに、伸ばした手は一向に届かない。
「なんで?!なんで?!」
千弦は悲鳴に近い声で叫んだ。
「待って、奈々子……」
千弦が泣き出しそうになったその時、千弦の背後から別の誰かの声がした。
「久々に見た夢が悪夢とは、ついていないね」
突然現れた知らない声に、千弦はびっくりして振り返る。
「でも、ほとんど見ない夢に出てくるくらいだから、あの子はよっぽど、君の大切な人なんだね」
千弦に話し掛けてきたその男は、哀愁を帯びた瞳で、その場に佇んでいた。
深緑色の麦わら帽子。体には真っ黒なマントをはおっている。履いているズボンも皮靴も黒いせいか、黒くて背の高い帽子掛けに、麦わら帽子をひっかけているようにも見えた。
「あの……、どちらさまですか」
恐る恐る、黒い帽子掛けに問い掛けると、彼は答えた。
「僕は、夢の旅人」
「……?」
千弦はきょとんとした。
「夢の旅人は、その名のとおり、人々の夢から夢へと旅をする。今回は君の夢にやってきた。つまりここは、君が今現在見ている夢の中だ。現実の世界では、君は眠っている」
「こんなに意識がはっきりとしているのに、ここが夢の中……?」
「僕が話し掛けたからね。意識がはっきりしているのはそのせいだ。通常、夢の旅人は、夢の主に話し掛けることはしない。それが、旅人の暗黙のルールなんだ」
ではなぜ、私には話し掛けたのだろうか。千弦が疑問に思っていると、それを察したのか、旅人は説明した。
「僕が君に話し掛けたのは、君のお友達を救いたいと思ったからだ」
「お友達……、まさか、奈々子?!」
「そのとおりだ」
旅人は、うんうんと頷いた。
「君のお友達は今、自分の夢の世界に閉じこもっている状態だ。だから、彼女を現実世界に連れ戻してほしい」
「夢から連れ戻す……。そうすれば、奈々子は目覚めるの?」
「そうだ」
「私にできる……?」
「それは君の想い次第だ。彼女には、夢の世界に閉じこもる、何かしらのきっかけがあったに違いない。そもそも、夢の世界を構成して保つこと自体が簡単ではない。そんな難しいことをしてまで閉じこもっているんだ。彼女を説得して目覚めさせるのには、力がいるだろう」
千弦は不安になった。どうやら奈々子は、半端な気持ちで眠りについているのではないらしい。そんな奈々子を、自分は説得できるだろうか。
困っている様子の千弦を見て、旅人は少し声のトーンを落として言った。
「お友達は、このままだと死んでしまうよ」
千弦は顔を上げた。顔面が引きつっている。とどめを刺すかのごとく、旅人は言う。
「このまま夢の世界から出てこなければ、肉体が少しずつ朽ちていく。そしていずれは死に至る。これは避けることのできない現実だ」
「……助けなきゃ」
旅人の真っ黒な革靴を見つめ、千弦は口を開く。
「奈々子は死なせない。私が絶対に連れ戻す」
そして今度は旅人の目をじっと捉えて、重ねて言った。
「奈々子が嫌がっても、私が夢から引きずり出すから」
旅人は初めて笑みを浮かべた。
「決心がついたみたいだね」
千弦は強く頷く。
「それじゃあ、早速行こうか。彼女の夢の世界へ」
旅人は千弦の背後、さっき奈々子がいた廊下の先を右手で指差した。するとそこに、黒い扉が現れた。
千弦が扉の出現に息を呑む。旅人は千弦の隣まで歩いてきて、さらに千弦の一歩先で立ち止まった。
「大丈夫。僕は最後まで見届けるよ」
千弦はぎゅっと口を引き締め言った。
「よろしくお願いします、旅人さん」
旅人はそんな千弦に、また笑顔で返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。千弦さん」
千弦は珍しく、違和感に気づかなかった。旅人が、自分の名前を知っていることに。
「僕の名前はコウ。『さん』は付けなくていいからね。僕も君のことは、『千弦』って呼ばせてもらうよ」
「はい」
素直に頷いた千弦と夢の旅人のコウは、二人揃って扉の前に立った。
千弦は扉のドアノブを握り、一呼吸おいた。
「行くよ、奈々子」
心の中で呟くと、千弦は未知なる夢の世界へと続く扉を、ゆっくりと開けた。