変わらぬ日常、その中の変化
千弦と美優が奈々子の家へ行った翌日も、奈々子は学校を欠席した。朝のホームルームで、野田は「沼田さんは風邪をこじらせ、高熱が治まらないそうです。皆も風邪には注意するように」と一つだけ奈々子に関する情報を提供した。
「高熱が治まらない……」
千弦は違和感を持った。高熱が続いているのなら、昨日家のチャイムを鳴らした際に母親が応答しなかったことが、なおさらおかしく感じられる。高熱を出している奈々子を、母親が放っておくはずがない。病院に行っていたのか。しかし風邪をひいて高熱が出たなら、あんな夕方ではなく、もっと早い時間に行くのではないだろうか。いろいろな考えが次々と浮かんできた。
「心配だね」
美優がいつもの笑顔なく、話し掛けた。
「昨日は病院に行ってたんだね、きっと」
美優は千弦のような違和感は抱いていないらしい。美優の発言に同意できないでいる千弦は、黙ったままだった。私は考え過ぎなのだろうか。
「三人でお茶に行くのは、まだ先になりそうだね」
これが、今の千弦にできるただひとつの返答だった。
結局、この週は水曜日から金曜日までの三日間、奈々子が学校に来ることはなかった。
「野田先生、奈々子は大丈夫なんでしょうか」
翌週の火曜日、たまりかねた千弦は、放課後、職員室で担任の野田と向かい合っていた。
「先週からずっと高熱が出ていると先生は言っていましたが、何か良くない病気なんですか」
週が変わっても、「高熱のため」ということで、奈々子が学校に来る様子はなかった。メールの返事も返ってこない。千弦の心配は募るばかりだった。
野田は、細身の黒ぶち眼鏡をくいっと上げると、息を吐いた。
「成瀬は、沼田の中学からの友人だったか」
「はい。奈々子のことはよく知っています。彼女は今まで、風邪でこんなに学校を休んだことはありません。本当は風邪なんかではなく、別の病気なんじゃないですか」
野田は視線を千弦から逸らした。何かを言おうとして、しかし躊躇っているようだった。
これは何かある。千弦は直感した。
少々熱血の数学教師、野田。二十代後半で、この高校の教員の中では若い部類に入る。『何事もまずはチャレンジ』がモットーであり、口癖でもある。いわゆる『ため口』と敬語が混ざった話し方をすることが特徴だ。黒板をいっぱいに使う授業スタイルは生徒たちに定評があるが、筆圧が強すぎるためか書かれた文字がなかなか消えず、黒板消し当番は数学の授業の度に苦労させられている。とにかく野田は、勢いだけは誰にも負けないような男だった。
そんな野田が、何かを伝えるか否かを迷っている。また、職員室中の教師たちが、ちらちらとこちらに視線をやっていることにも、千弦は気づいた。
「お願いします、野田先生。奈々子の状況を、教えてください。誰にも言いませんから」
そう言って、千弦は頭を下げた。
「わかりました。成瀬の今までの授業態度や普段の振る舞いを信じよう」
野田は真っ直ぐに千弦の目を見つめた。
「だが、これから話すことは必ず秘密にしてください。病院からもきつく指示されているからな」
はい、と千弦は野田から視線を逸らさずに返事をした。野田は目を閉じ、いいだろう、と言うかのように黙って頷いた。
「落ち着いて聞きなさい。沼田は風邪ではない。重体ではないが、意識が無い状態だ」
野田は千弦の様子を窺った。千弦は少し顔を強張らせたが、取り乱す気配はない。野田は話を続けた。
「先週の火曜日の夜に寝てから、ずっと眠り続けているのだそうだ。声を掛けても、体を揺らしても微動だにせず、全く目覚める気配が無い。脳波の測定等、様々な検査を行ったが、原因は未だに不明とのことです」
「ウイルスや菌の仕業ではないんですか」
「医師によると、ウイルスや病原菌によるものではなさそうで、逆に体は健康そのものだそうだ。しかし沼田は眠ったまま目覚めない。原因が分からない以上、処置のしようもなく、ただ入院をして、必要なものを点滴するしかない状態が続いているそうです」
そこまで話すと、野田はまた、千弦の様子を窺った。
千弦は愕然としていた。原因不明で目覚めない……。一体奈々子に何が起こっているのだろうか。確かに奈々子は寝ることは楽しいと言っていた。しかし、ずっと寝続けていたい、といった話は聞いたことがない。
黙ったままの千弦に向かって、野田が言った。
「現在は保護者の方が、病院で付きっきりになって沼田を見守っている。残念ながら、身内以外の面会はできないそうです。私達は、沼田の回復を願って待つしかない」
千弦はうつむいた。一時は奈々子をこの手でゆり起してやりたいと思ったが、面会すらできないなんて。無力な自分がショックだった。
「貴重なお話、ありがとうございました。絶対に、誰にも言いません。失礼します」
かろうじて声を絞り出すと、千弦はうつむいたまま職員室の扉に向かって歩き出した。
「安易に『沼田は大丈夫だ』とは言わない。でも、信じて待ちましょう」
うつむいた背中に野田が声を掛けると、千弦は振り返り、少しだけ口角を上げて、ぺこっと頭を下げた。
職員室から千弦が出ていくまで、野田はずっと千弦の背中を見守った。
千弦が校舎を出ると、上から千弦を呼ぶ声がした。見上げると、四階の音楽室の窓から美優が身を乗り出し、千弦に向かって手を振っていた。
「明日は水曜日だし、また一緒に奈々子のところに行ってみようねー!」
美優は明るく叫んだ。
千弦は力なく手を振り返すと、すたすたと校門に向かっていった。奈々子の本当の現状を知らない人達が大勢いる場所から、早く逃げ出したかった。
校門の前で校舎を振り返ると、既に美優は音楽室に引っ込んでいた。
「何も知らないくせに」
我慢していた一言が、千弦の口から、ぼそっと零れ落ちた。
千弦が帰宅すると、「お姉ちゃん、お帰り!」と小学三年生の弟が駆け寄ってきた。
「ただいま、賢斗」
そうして千弦は、歳の離れた弟の頭を撫でてやる。
千弦と賢斗の両親は共稼ぎで、母親は土日と火曜日にパートに出ている。土日は兄弟二人で過ごすことが多いが、火曜日だけは、賢斗が姉の帰りを一人で待つことがほとんどだった。
「一緒にお菓子食べよー!」
無邪気に誘う賢斗に、千弦は「はいはい」と答える。
「今うがいしてくるから、待っててね」
千弦は一旦自分の部屋に行き、鞄を置いた。そしてセーラー服から部屋着へ着替えると、そのまま洗面所へ向かった。
洗面所では、賢斗が待ち構えていた。
「はい、コップ!」
千弦にうがい用のコップを押しつけると、ふんふーん、と鼻歌を歌い出した。姉の帰りを心待ちにしていたらしい。
そんな弟に心配かけてはならないと、千弦はいつも通りに振る舞えるよう、努力した。
しかし、残念ながら努力は実らなかった。はしゃいだ弟が、千弦の洋服にジュースをぶちまけてしまったのである。
「あっ……」
賢斗の動きがぴたっと止まった。
「ごめん、お姉ちゃん……」
「いいかげんにして!」
弟が謝りきる前に、千弦は怒鳴った。
「帰ってきたときからお姉ちゃん、お姉ちゃんって……、私も一人で好きなことしたいの!余計なことしないでよ!」
目覚めない奈々子、何も知らずにのん気な美優。様々な想いが千弦のなかで渦巻いた。
「私だって疲れてるんだから、ホントに、余計なことしないでくれる?!」
わーん、と賢斗が泣きだした。ごめんなさい、お姉ちゃん、ごめんなさい……。
そのとき、玄関がバンッと開いた。
「あなたたち、何をやっているの!」
母親だった。
片手にバッグ、片手に夕飯のおかずが入ったスーパーのビニール袋を提げて、半分呆れ、半分怒りの表情を浮かべていた。
千弦は経緯を簡単に説明した。すると母親は、先ほど千弦がしたように、賢斗の頭を優しく撫でて、慰めた。
「よしよし、ちゃんとお姉ちゃんに謝れて、偉かったね」
そして千弦に向かってこう言った。
「千弦、これくらいのことでそんなに怒らないの。お母さんは今日みたいに仕事で遅くなることもあるし、お父さんは出張が多いでしょ。そういうときは、あなたが賢斗を守らないといけないのよ」
またか、と千弦は思った。弟を守れ宣言。母親はよく、弱虫で泣き虫の弟のことを守りなさいと言う。それなのに、弟が泣くと悪者にされるのは自分だ。弟の為に、私は自分の感情を犠牲にしなければならないのか。そもそも、母親が土日だけでなく、平日もパートに出ているのは、『賢斗を守る』ことを休みたいからなんじゃないか。じゃあ私のことは、私の感情は、一体誰が守ってくれるのか。
「面倒」
きっとこの一言は、千弦にしか聞こえなかっただろう。
「言い過ぎたわ。ごめんね、賢斗。一緒にご飯の準備しよう」
そうして賢斗の手を握ると、二人で台所へ向かった。その後ろ姿を、ほっとした様子で母親が見つめていた。
その夜、千弦は日が変わる前に布団に入った。一日でいろいろなことを考えすぎて疲れたせいもあったが、何より、何かを考えることが面倒だった。早く眠って、何も考えないようにしたかった。
だが、結局、奈々子のことが気になって、一晩ほとんど眠ることができなかった。奈々子は眠っている際、夢を見ているのだろうか。起きているときよりも、寝ているときの方が楽しいのだろうか。だから目が覚めないのだろうか……。次から次へと、奈々子への問いが浮かんでは消えていく。そんなことをしているうちに、朝がやってきたのだった。
目覚まし時計が鳴る前に起きて食卓に着いた千弦をみて、母親は目を丸くした。この子が早起きなんて珍しい。昨夜も早く寝たみたいだし、昨日の一件で、少しお姉さん意識が強くなったのかしら。
母親は千弦にばれないように、ふふっ、と笑うと、千弦の前にサラダとヨーグルト、そしてオレンジジュースを置いた。
「今日はゆっくり朝ご飯を食べられるわね」
「……うん」
千弦は母親から焼き立てのトーストを受け取ると、マーガリンをまんべんなく塗った。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
母親は満足げであった。いつもと違う、ゆったりとした朝の風景に、嬉しさを感じた。しかし同時に、『いつもと違うこと』に少々不安も覚えた。
「そういえば、この辺でも交通事故が多いみたいだから、注意してね。この間も、確か隣町の……、あなたと同じくらいの歳の子が、ひき逃げに遭って亡くなったみたいだし」
「あ……、そんなニュース、やってたね」
どちらかというと、見知らぬ高校生の安否より、奈々子の方が気になってしまう。
そっけなく答えると、千弦は席を立った。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけてね」
母親は念を押した。
「大丈夫だよ」
そして今度はいつも通り、玄関の扉を開ける。
千弦は振り返らずに言う。
「行ってきます」
母親も、今度はいつも通り見送った。
「行ってらっしゃい」