不安
「だから、あんな時間まで起きていたから、朝起きられないのよ」
翌朝、千弦は案の定、目覚まし時計の音だけでは目覚めることができなかった。
母親に五、六回声を掛けられ、最終的に強制的にゆり起されたのだった。
「遅刻するよ!」
母親に促され、千弦はしぶしぶ布団を出る。目覚めが苦しいことも、千弦が眠ることが嫌いな理由の一つだ。
「また夢見なかったし、また朝辛いし、また寝ること楽しいと思えなかったし……」
千弦は半分眠気眼で、ぼそぼそと呟いた。学校に行ったら絶対に奈々子に文句を言ってやる。
しかし、千弦のその願いは果たされなかった。この日、奈々子は学校を休んだのだ。担任の男性教師である野田は、朝のホームルームで、出席確認中に奈々子の欠席をクラスへ伝えた。どうやら、奈々子は風邪をひいてしまったらしい。
「奈々子、大丈夫かな?」
一時間目の授業が始まる前、クラスメイトの片瀬美優が、心配そうに千弦に話し掛けた。
「あの子、あんまり風邪とかひいたことないよね」
「確かに、中学時代から学校を休むことって、なかったな。中三のときなんか、皆勤賞もらってたし」
「帰りに一緒に家寄ってみる?うち、今日部活休みだから、一緒に行けるよ」
美優は吹奏学部で、トランペットを吹いている。三年が引退した後は、トランペットのパートリーダーに任命されるほど、先輩・後輩問わず、部活のメンバー全員からの人望があり、技術もある。彼女にとって、千弦は高校入学時に同級生になって以来の友人だ。二年生になってからは、千弦の親友である奈々子とも同じクラスになり、よく三人で行動するようになった。帰宅部である千弦や奈々子と一緒に帰ることができるのは、吹奏学部が休みの水曜日だけだ。
「コンビニで何かお菓子でも買って、奈々子に会いに行こう」
美優はやけにうきうきしていた。
「奈々子の家ってどんな家?行ったことないからわくわくするよ」
「いやいや美優、遠足じゃなくてお見舞いだからね」
千弦は少々呆れながら美優をなだめた。美優はいつでもにこにこ笑っている。美優の怒った姿は見たことないが、笑みを浮かべながら怒るタイプの人間だと、千弦は踏んでいる。
いつも笑顔なのはかまわないが、TPOはわきまえてほしいものだ。が、美優が悪意を持って発言しているわけではないことを、千弦は理解していた。また、高校でも『不思議の国の沼田』と影で噂されている奈々子と分け隔てなく接してくれる美優に、心の中では感謝さえしていた。奈々子のことを偏見の目で見ないでくれる友人に出会えたことを、とても嬉しく思っていた。
「じゃあ、放課後、奈々子の様子を見に行こう」
その言葉を聞いた美優は、笑顔のまま頷いた。
放課後、千弦と美優は奈々子の家のそばのコンビニエンスストアで、見舞いに行くためのお菓子とジュースを選んだ。茸の形をしたチョコレートや、漫画のキャラクターの顔が描かれた棒付きチョコレート、チョコレートがたっぷりかかったビスケット……。どんどん籠に入れていく千弦に、美優は言った。
「チョコばっかりだね……」
ご明察。奈々子はチョコレートが大好物だ。そして特に、可愛い形をしたものが好きなのである。高校生にしては子どもっぽさが残っているのだ。目がぱっちりしている童顔で、化粧は一切しない。長い髪の毛は真っ黒で、両耳の後ろできゅっと結んでいる。167センチメートルと背が高くなければ、中学校に上がる前の小学生に見られてもおかしくないのではないかと、千弦は密かに思っていた。
「飲み物は、やっぱりスポーツドリンクだよね。熱があるときはこれが一番!」
美優が両手に二リットル入りのスポーツドリンクを一本ずつ持ってきて、「よっこらせ」と千弦が持つ籠に入れた。
「おもっ……!」
籠の重さが突然変わり、千弦の腕が、がくんと下がった。
「全部私に持たせないでよ……」
そう言いつつ、店員がいるレジに向かって歩いていく。なんやかんや言って、千弦はちゃんとやってくれるんだよね。美優は心の中で呟いた。
奈々子の家は、似たような一件屋が軒を連ねる新興住宅街の片隅に、ひっそりと佇んでいた。『welcome』と書かれたボードが、千弦と美優を玄関で迎えた。
表札の下にあるインターホンを、千弦が押す。ピンポーン、という、聞きなれた音が響き渡った。二人は応答を待つ。しかし、家の中はうんともすんともしなかった。
「誰もいないのかな」
美優の笑顔が少し陰った。
「もしかして奈々子、寝てるのかな」
確かに、風邪をひいたということなので、奈々子が寝ている可能性は十分にある。しかし、奈々子の母親は専業主婦だ。仕事で外へ出ているということは考えられない。ということは、買い物にでも行っているのだろうか。いや、奈々子の母親は、一人っ子の娘を、過保護とまでは言わないが、いつもそばで見守っているような人だ。「ななちゃんは、我が家のお姫様なのよ」とよく言っては、奈々子を恥ずかしがらせていた。そんな母親が、病気で寝込んでいる奈々子を置いたまま、どこかへ行くことなんてあるのだろうか。
千弦はもう一度、インターホンを押した。ピンポーン。
やはり、何も応答がない。具体的ではないが、何か嫌な空気を、千弦は感じた。
「メールで連絡してから来ればよかったね。ひとまず今日は帰る?」
「そうだね」
千弦は表情を変えずに頷いた。
それから、『よかったら食べてください 二年E組 成瀬・片瀬』と置手紙を書き、コンビニの袋に入れると、それを玄関の隅に置いた。
「千弦、これからどうする?まだ時間も早いし、どこかでお茶でもしない?」
そんな美優の提案に、千弦は首を振った。一度感じた嫌な空気をそのまま取り除けないでいる千弦は、お茶をする気分にはどうしてもなれなかった。
「今度、奈々子が元気になったら、皆で一緒にお茶しに行こう」
「オッケー。それじゃあ、奈々子には早く元気になってもらわないとね」
そう言うなり、美優は足取り軽く歩き出した。
一足遅れて、千弦も帰路につく。
今まではにぎやかな印象しかなかったこの住宅街が、今日、このときだけは、まるで誰も住んでいないかのように、無言で千弦を見送った。