【怪談】子どもがいない集落〜地方怪談〜
夏休みに入って3日目、拓海の両親が交通事故に遭った。
交差点で横から来た車に衝突されたらしい。幸い2人とも命に別状はなかったが、父は腕から肩にかけてひどく傷め、手術が必要になった。母も両足を骨折しており、医師からは、経過がよければ1~2週間ほどで退院できる見込みだと説明された。
困ったのは、その間の拓海だった。小学6年生とはいえ、夏休みだからと1人で何日も生活させるわけにはいかない。ただ、両親が退院するまでのすべてを誰かに頼む必要はなかった。
普段から家族ぐるみで付き合っている近所の佐々木夫妻が海外旅行中だったが、6日後には帰国する予定で、その後なら何日か拓海を預かってもいいと言ってくれていた。そのころには父の手術後の経過も、母の退院時期も、もう少しはっきりしているはずだった。
どうしても埋めなければならないのは、最初の1週間ほどだった。
父は病室から何人かの親戚へ連絡したものの、伯母の家には受験生がいて、父方の祖父母は介護施設に入っている。数日ならという知人もいたが、ちょうど仕事が忙しい時期で難しかった。
「じゃあ、お義父さんのところなら、1週間くらい何とかならないかな。そのあとなら佐々木さんたちも帰ってくるだろ」
候補が尽きたところで父がそう言うと、母だけがすぐには頷かなかった。
母方の祖父母が暮らす榧ノ沢には、拓海も何度か泊まりに行ったことがある。山の中にある小さな集落で、最後に訪れたのは4年ほど前だった。たった1週間なら何とかなるだろう、と父は考えているようだったが、母はスマートフォンを手にしたまま、しばらく画面を見ていた。
「……6日。長くても1週間だからね」
「分かってるよ。その先までお願いするつもりはないって」
それでも母の表情は晴れなかった。
「そういうことじゃないんだけどね」
父が聞き返すより先に、母は祖父へ電話をかけた。
事故のこと、けがのこと、6日後には別の預け先へ移せることまで説明し、拓海をそれまで置いてもらえないかと頼む。電話の向こうで祖父が何か言い始めると、母は長い間、黙って聞いていた。
「うん。だから1週間だけ。それ以上には絶対しない。……分かってる」
そこまで約束して、ようやく祖父は了承した。
電話を切った母は、拓海にも同じことを言った。
「途中でおじいちゃんが帰るって言ったら、まだいたくても帰ること。勝手に延ばしたりしないでね」
「分かったって」
拓海は面倒そうに答えたが、母は笑わなかった。
*
榧ノ沢は、市街地から車で1時間以上山へ入ったところにあった。
駅まで迎えに来た祖父の車に乗り、国道から細い県道へ入ると、店は少しずつ減っていった。最後のコンビニを過ぎてからは、窓の外を流れるのは杉林と畑ばかりで、ときどき道路脇に古い民家が見える程度だった。
「前に来たときより遠く感じる」
「お前が小さかったからだ」
祖父はそれだけ答え、前を向いたまま運転を続けた。
集落へ入ると、記憶にあるより家が少なくなったように見えた。実際になくなったわけではなく、窓に板を打ちつけた家や、庭が腰の高さまで草に埋もれた家が増えているのだ。人が住んでいる家にも年寄りの姿ばかりで、道を歩く子どもは1人も見なかった。
祖父母の家へ着くと、祖母が玄関まで出てきて「大きくなったねえ」と拓海の肩を何度も叩いた。荷物を下ろしていた祖父は、久しぶりに会った孫へ学校のことを尋ねるでもなく、母から言われた滞在日数を覚えているかと確認した。
「1週間でしょ」
「ああ。それ以上はなしだ」
妙だとは思ったものの、祖母が麦茶を出してくれ、祖父もそれ以上は何も言わなかったので、そのときは深く考えなかった。
夕食まで時間があり、拓海は近所を歩いてみた。以前は犬を飼っていた家まで雨戸を閉めたままで、道端の畑にも耕していない場所が増えている。記憶にある榧ノ沢より、ずっと静かだった。
集落の入口近くまで来たところで、畑から上がってきた老人とすれ違った。麦わら帽子の下から拓海の顔をじっと見たあと、老人は懐かしそうに目を細めた。
「お前、あそこの家の孫だな。前にも夏に来てたろ」
拓海にも、どこかで見た覚えがあった。名前までは思い出せないが、以前来たときにも祖父の家で茶を飲んでいたような気がする。
「大きくなったなあ。夏休みなら、ゆっくりしていけ」
老人は畑で採ったらしいキュウリの入った籠を抱え直し、人の良さそうな顔で笑った。そのまま世間話をするでもなく、じゃあな、と片手を上げて畑の方へ戻っていった。
家へ戻ってから祖父へ尋ねると、今住んでいるのは15世帯ほどで、空き家は10軒くらいあるという。小学生も中学生もいないと聞かされ、そこで拓海は4年前に一緒に遊んだ少年のことを思い出した。
「陽介は?」
台所でトマトを切っていた祖母の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「ああ……陽介君ね」
「今、中学生だよね。どこにいるの?」
祖母はまな板へ視線を落としたまま、「もう、いないよ」と答えた。
「引っ越したの?」
「まあ……そんなところ」
どこへ行ったのか重ねて聞いても、祖母は答えず、切ったトマトを皿へ移した。テレビを見ていた祖父にも聞いたが、「今はいないんだ」と言うだけで、なお尋ねようとすると、「その話はもういい」と少し強い声で打ち切られた。
もし陽介が亡くなったのなら、言いづらいのも分かる。しかし2人とも、死んだとも引っ越したともはっきり言わない。その曖昧さが気になり、その夜、布団に入ってからも陽介のことを考えていた。
思い出せるのは、4年前の顔や声ばかりだった。
*
翌日は朝から暑かった。祖父は畑へ出て、祖母も洗濯や掃除で忙しくしている。ゲーム機にも動画にも午前中で飽きてしまい、昼食のあと、拓海は1人で集落を歩いた。
昔遊んだ川へ下りると、水の冷たさだけは記憶と変わっていなかった。川沿いを歩くうちに、以前、陽介と何度も登った山道のことを思い出した。虫を捕ったり、木の枝を拾って剣にしたりした、子ども2人でも歩ける細い道だった。
入口はすぐに見つかったが、その先は昔とはまるで違っていた。土の道があった場所を笹と低木が覆い、蔓が横から伸びている。少し奥には倒木まであり、足元に残る浅い窪みを見なければ、そこに道があったことさえ分からないほどだった。
祖父から山へ行くなとは言われていたものの、拓海は熊や蛇を心配しているだけだと思っていた。4年前には陽介と普通に歩いた道なのだから、入口から少しくらいなら大丈夫だろうと、笹を押し分けながら数メートル入った。
思ったより道は残っていた。草に隠れながらも、踏み固められた地面は山の上へ続いている。10分ほど進んだところで、さすがに戻ろうと思った。
そのとき、上の方から子どもの声がした。
「おーい」
足を止めて耳を澄ませた。鳥や獣の声ではない。誰かが、山の上からこちらを呼んでいる。
「誰?」
返事はなく、風で笹が擦れる音だけが続いた。気のせいかと思い、来た道へ体を向けたときだった。
「拓海」
今度は名前を呼ばれた。
4年前、毎日のように聞いていた声に似ている。
「陽介?」
木々の間を見上げても、誰もいなかった。もう一度呼んでみたが返事はなく、さっきまで聞こえていた蝉の声まで遠のいたような気がして、その日はそれ以上奥へ進まなかった。
家へ戻ってからも、祖父母には何も話さなかった。
*
翌日の昼過ぎ、拓海は再び山道の入口に立っていた。
祖父母が陽介について何か隠しているのなら、自分で確かめたかった。昨日聞いた声が本当に陽介だったのか、それとも似ていただけなのかも気になる。
前日より奥へ進むと、昔の道はところどころ完全に藪へ飲み込まれていた。笹を両腕で掻き分け、蔓を踏み越え、倒木を避けながら登っていく。途中で小さな沢へ出ると、4年前に陽介と石を積んで水をせき止めた場所だったことを思い出した。
沢を越えたところで、また声がした。
「こっち」
「陽介?」
「もう少し」
声はすぐ近くから聞こえた。
さらに登ると、突然、目の前の藪が途切れた。強い日差しが差し込み、その先に、山の中腹とは思えないほど広く平らな草原が広がっていた。
周囲は森に囲まれている。その草原いっぱいに、大勢の子どもたちがいた。
20人どころではないかもしれない。走り回っている子もいれば、縄跳びをしている子、毬のようなものをついている子、木の輪を棒で転がしている子もいる。拓海には遊び方の分からないものまで混じっていたが、笑い声が絶えず響いていて、遠目にはどの子も楽しそうだった。
榧ノ沢には未成年が1人もいないと聞いたばかりだったので、しばらくその場に立ち尽くした。やがて子どもたちの中から、1人の少年がこちらへ走ってきた。
「拓海!」
陽介だった。
「やっぱり陽介じゃん」
思わず拓海も笑った。
祖父母がいないと言っていたことを話すと、陽介は「うん」とだけ答えた。どこへ行っていたのか尋ねても、「ここ」と言うばかりで、さらに聞こうとすると、それを遮るように遊ぼうと誘った。
近くまで来て初めて、陽介の背丈に違和感を覚えた。4年前にはほとんど同じくらいだったはずなのに、今では陽介の方が明らかに小さい。
「お前、背伸びてなくない?」
「拓海が大きくなったんだよ」
笑ってそう言われると、そういうものかという気もした。
草原へ入ると、最初のうちは本当に楽しかった。知らない子どもたちもすぐに名前を聞いてきて、町から来たと知ると、何人かが「いいなあ」と羨ましそうに言った。何が羨ましいのか尋ねても、誰もまともには答えなかった。
鬼ごっこをして、そのあと縄跳びにも混じった。しばらく走り回るうちに汗だくになり、拓海が草の上へ腰を下ろそうとすると、陽介はすぐ別の遊びへ誘ってきた。
「ちょっと休むよ。暑いって」
「まだいいじゃん。次、あっちやろう」
笑ってはいるものの、声には妙な焦りが混じっていた。そのころから、周囲の小さな違和感が次々と目につき始めた。
普通のTシャツと短パンを着た子がいる一方で、見たことのない形の半ズボンを履いた少年や、色褪せたブラウスに古いスカートを合わせた少女もいる。裸足の子がいれば、ひどく古びた革靴を履いた子もいた。何かの催しで昔の服を着ているのかと思ったが、陽介に聞いても「普通だよ」と笑うだけだった。
もっと気になったのは、誰も休もうとしないことだった。
縄跳びをしている女の子は何度も縄へ引っかかり、顔を真っ赤にして肩で息をしていた。拓海がもう休めばいいと言うと、その子は動きを止めたが、近くにいた子どもたちまで一斉に彼女を見た。
「大丈夫。楽しいから」
女の子は慌てるように笑い、また縄を回し始めた。
少し離れたところでは少年が転び、膝を擦りむいていた。血が滲んでいるのに、すぐ立ち上がって走り出す。痛くないのか尋ねると「平気」と笑ったが、目には涙が浮かんでいた。
拓海が鬼ごっこへ加わっている間にも、妙なことがあった。さっきまで走り続けていた小さな男の子が草の上へ座り込み、しばらく両手で顔を覆っている。縄跳びをしていた少女も、拓海の近くで別の子が遊び始めたところで、初めて縄を置いてしゃがみ込んだ。
新しく遊ぶ子が増えると、誰かが休めるように見えた。逆に拓海が足を止めると、休んでいた子どもたちは周囲の様子を窺いながら立ち上がり、走り出したり、慌てて縄を拾ったりする。
みんな笑っている。それなのに、もう誰も楽しそうには見えなかった。
草原の端には、大人の背丈より少し高い黒い岩があった。自然にそこへある石のようだが、正面の一部だけ古い木板で覆われ、太い縄が掛けられている。何かを祀っているようにも見えたし、逆に岩そのものを隠そうとしているようにも見えた。
何より奇妙なのは、誰もそちらを見ないことだった。
拓海が岩を見つめていると、陽介の声が飛んだ。
「見ないで」
それまでとは声の調子が違った。
振り向いた瞬間、草原から音が消えた。縄を回していた手も、走っていた足も、毬をついていた手も止まり、子どもたち全員が拓海を見ている。ほんのわずかな間だったが、誰の顔にも笑みはなかった。
次の瞬間には、さっきまでより大きな笑い声が上がり、全員が一斉に遊びを再開した。
拓海はもう帰ろうと思った。そう告げると、陽介だけでなく、周囲にいた子どもたちまで少しずつ集まってくる。誰も道を塞いではいないし、無理に引き倒したりもしない。それでも、「もう少しだけ」「次も一緒にやろう」と笑いながら重ねられる声が、さっきまでとは違って聞こえた。
「やらない。俺、帰るから」
掴まれていた腕を外すと、陽介の笑顔が消えた。しばらく拓海を見ていたが、やがて何か思いついたように、もう一度だけ口元を持ち上げた。
「じゃあ、鬼ごっこしよう。拓海が逃げる方でいいから」
その言葉を聞いた途端、周囲の子どもたちが静かになった。少し離れたところで遊んでいた者まで、いつの間にかこちらを見ている。
拓海は一歩下がった。
「やらないよ」
「大丈夫だよ。みんなで追うだけだから」
陽介は笑ったまま、静かにそう言った。
次の瞬間には、拓海は藪へ飛び込んでいた。
顔へ枝が当たり、笹で腕を擦っても構わず、登ってきた道を駆け下りた。後ろから陽介に名前を呼ばれ、続いて何人もの声が待ってと叫んだが、振り返らなかった。
沢を飛び越え、倒木の横を抜ける。息が苦しくなり、何度も足を取られそうになったが、それでも立ち止まらなかった。
かなり下ったところで、背後から子どもの声がした。
「逃げた」
それを聞いた誰かが笑った。さらに別の子が笑い、その声が次々と重なって、山の上から追いかけてくるように広がった。
*
家へ飛び込んできた拓海を見て、祖父はすぐに立ち上がった。泥だらけの服より、息もまともにできないほど怯えた顔を見て、ただ事ではないと分かったらしい。
水を飲ませて落ち着くのを待ち、どこまで行ったのかを聞いた。拓海は山の上に草原があったこと、そこに大勢の子どもがいたこと、陽介が4年前と変わらない姿でいたことを、途切れ途切れに話した。
黒い岩のことも、誰も休もうとしなかったことも話した。最後に、陽介から鬼ごっこをしようと言われ、自分が逃げる側で、ほかのみんなが追うのだと言われたことを話すと、祖父の表情が変わった。
「お前、何て言った」
「やらないって。逃げてきた」
「追ってきたか」
「分かんない。声はした」
祖父はしばらく黙ったまま窓の外を見た。西日が山の端へ近づき、庭にも長い影が伸び始めている。
それまで何も言わなかった祖母へ、拓海の荷物をまとめるよう頼んだ。自分も車の鍵と財布を確認し、必要なものを玄関へ集め始める。
「明るくなったら出る」
その言葉に、拓海は驚いた。
「今すぐ行こうよ。まだ明るいじゃん」
祖父は鍵を握ったまま、すぐには答えなかった。窓の向こうにある山を見ている。
「今日は出ない」
「なんで?」
なお聞こうとする拓海へ、祖父はようやく顔を向けた。
「夜に出るな」
声が強かった。
理由を尋ねても、それ以上は答えなかった。祖母には荷造りを急ぐよう言い、自分は雨戸や戸締まりを確認し始める。その様子を見ているうちに、祖父が朝を待ちたいのではなく、朝まで待たなければならないと思っていることだけは拓海にも分かった。
*
日が沈む前から、山の方で子どもの声がした。
最初に気づいたのは拓海だった。縁側の向こう、田んぼと杉林のさらに奥から、誰かが自分の名前を呼んでいる。
「拓海ー」
声はまだ遠かった。
祖父は何も言わず、縁側の雨戸を閉めた。しばらくすると別の方角からも「どこー?」「遊ぼうよ」と声が重なり始め、日が傾くにつれて、その場所は少しずつ近くなっているように思えた。
山から降りてきているのか、それとも最初から集落のあちこちにいたのかは分からない。空が暗くなるころには、空き家の並ぶ道の方からも子どもたちの笑い声が聞こえていた。
祖父はしばらく黙って耳を澄ませていたが、外が完全に暗くなる前に拓海を呼んだ。水筒と薄い毛布だけを持たせ、家の裏へ連れていく。
納屋の脇を抜け、杉の木の間へ入ったところに、拓海が今まで気にも留めなかった古い石畳があった。四角い石は木の根に持ち上げられ、ところどころ苔に覆われている。その中央には井戸のような丸い石組みが残っていたが、穴は厚い石板で塞がれ、周囲の地面だけが一段低くなっていた。
祖父はその窪みへ拓海を座らせた。
「今夜はここにいろ」
「じいちゃんは?」
「家に戻る」
嫌だと言って袖を掴んでも、祖父は怒らなかった。拓海の前にしゃがみ込み、朝になるまでここから動かないよう、ゆっくりと言い聞かせる。
「誰か来ても返事をするな。呼ばれても出るな」
「じいちゃんが来たら?」
そこで祖父は少しだけ迷った。
「俺の声でも駄目だ。朝になるまで、誰の声も信じるな」
その言葉だけは、昔話でも冗談でもないことが分かった。
祖父は毛布を拓海の肩へ掛け直し、自分がここに残れば場所を知られるかもしれないとだけ言った。怖くても声を出すなともう一度念を押して立ち上がり、そのまま杉の暗がりへ戻っていった。
*
完全に暗くなると、家の裏とは思えないほど静かになった。
遠くで虫が鳴き、ときどき風が杉の枝を揺らす。そのほかには何も聞こえない時間が続き、拓海は膝を抱えたまま、早く朝になればいいと何度も思った。
やがて、道の方から声がした。
「拓海ー」
昼間、草原で聞いた声だった。
少し離れたところで別の子が笑い、「いないね」「こっちじゃない?」と声を掛け合っている。何人いるのかは分からず、その声は家の前から畑の方へ移り、しばらくすると別の方向から戻ってきた。
「拓海。もう怒ってないよ」
陽介の声も聞こえた。
「遊ぼう」
拓海は返事をしなかった。
草を踏む音が少しずつ近づき、やがて石畳からそれほど離れていないところまで来た。毛布を強く握り、息の音まで聞かれるような気がして、できるだけ静かに呼吸した。
「いないねえ」
すぐ近くで女の子が言い、それを聞いた別の子が小さく笑った。足音はしばらく石畳の周囲を行き来していたが、やがて少しずつ遠ざかっていった。
どのくらい時間が経ったのか分からない。腕時計を見るとまだ深夜で、喉もひどく乾いていた。それでも水筒の蓋を開ける音が怖く、子どもたちの声が完全に消えてから、ようやく少しだけ水を飲んだ。
そのとき、杉林の向こうで自分の名前を呼ぶ声がした。
「拓海君」
昼間、集落で会った老人の声だった。
あの人の良さそうな声が、すぐ近くから聞こえてくる。
「もう大丈夫だよ。じいちゃんに頼まれて来たんだ」
拓海は思わず顔を上げた。子どもたちの声ではない。昼間に聞いたのと同じ、年寄りらしい穏やかな話し方だった。
老人は、寒かっただろう、もう家へ戻っていいと、子どもを安心させるように何度も話しかけてきた。一瞬、本当に祖父が迎えを頼んだのではないかと思ったが、立ち上がりかけたところで、祖父に言われたことを思い出した。
朝になるまで、誰の声も信じるな。
祖父自身の声でも出るなと言われている。
拓海は毛布の中で膝を抱え、返事をしなかった。
老人は何度か名前を呼んだ。最初は優しかった声から、返事を待つ時間が少しずつ長くなっていく。
「聞こえてるんだろ。もう大丈夫だから」
それにも答えなかった。
しばらく、何の音もしなかった。
やがて、同じ声がした。
「……出ろよ」
さっきまであった優しさが、きれいになくなっていた。
石畳を踏む音がゆっくり近づいてくる。人が歩いているはずなのに、靴なのか裸足なのかも分からず、湿った何かを石へ置いていくような音だけがした。
拓海は両手で口を塞いだ。
足音が、すぐ近くで止まった。
「いるんだろ」
もう昼間の老人の声には聞こえなかった。低く平らで、怒っているというより、もう優しくする必要がなくなったものの声に聞こえた。
拓海は膝へ顔を埋め、そのまま動かなかった。どれだけ待っても祖父は来ず、声も足音も、いつの間にか消えていた。
*
鳥の声で顔を上げると、杉の枝の隙間が薄く青くなり、石畳の形も少しずつ見えるようになっていた。それでも拓海は動かなかった。朝まで出るなと言われたが、どこからが朝なのかまでは聞いていない。
空が白み、周囲の木々の幹まで見えるようになったころ、砂利を踏む足音が近づいた。
「拓海」
祖父の声だったが、返事はしなかった。
「もう朝だ。出ていい」
それでも動かずにいると、祖父は石組みの前まで来たらしく、しばらく黙ったあとで言った。
「よく返事しなかったな」
その言葉を聞いて、ようやく拓海は顔を上げた。祖父が立っていたが、たった一晩でずっと老けたように見えた。
石組みから出たとき、足元の異変に気づいた。昨夜まで乾いていた石畳の一部がところどころ黒く濡れ、小さな跡が離れながら、拓海の隠れていた場所を半分ほど囲んでいる。
足跡と呼べる形ではなかった。それでも昨夜、石畳の上を歩いていた音と同じ場所に残っているように見え、祖父も一度だけそこへ目を落とした。
何も言わなかった。
*
荷物はすでに車へ積まれていた。祖母も着替えを済ませて待っていて、3人は朝食も取らずに榧ノ沢を出た。
空き家の並ぶ道を抜け、集落の最後の家が後ろへ流れていく。拓海は後部座席から窓の外を見ていたが、山道の入口を通り過ぎる直前、そこに人が立っていることに気づいた。
陽介だった。
草原で会ったときと同じ服を着て、道の脇から車を見ている。追ってはこないし、手を振ることもなく、ただ拓海の方へ顔を向けていた。
車がカーブへ入る直前、陽介の口がわずかに動いた。
何と言ったのかは聞こえなかった。
県道へ下り、榧ノ沢からかなり離れたところで、祖父は道路沿いの小さな駐車スペースへ車を入れた。祖母が水を飲みたいと言ったので、拓海も一度外へ出た。
後部ドアの窓に、小さな手の跡がついていた。
最初は自分が触ったのだと思ったが、その隣にもあり、さらに後ろの窓やフェンダーの上にも続いている。大きさが少しずつ違う子どもの手の跡が、泥なのか朝露なのかも分からない薄さで残されていた。
後ろから前へ向かって、何人もの子どもが走りながら車へ触れていったような並び方だった。
祖父も気づいたらしい。
車に積んであった古い布を取り出し、何も言わず、手の跡を1つずつ拭き取っていった。
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それから、私は一度も榧ノ沢へ行っていない。
今は20歳になった。あの夏のことを誰かに詳しく話したことはないし、自分から榧ノ沢について調べようと思ったこともない。地名を検索したことさえなかった。
だから、あの記事を見つけたのも偶然だった。
スマートフォンで地方ニュースを眺めていたとき、見覚えのある地名が目に入った。
《山里の暮らしを次世代へ 榧ノ沢で古民家民泊が好評》
過疎化が進む榧ノ沢で、空き家を改修した民泊が始まったという記事だった。畑仕事や川遊び、虫捕りなどを通して昔ながらの山村の暮らしを体験してもらう取り組みで、夏休みを中心に家族連れから好評を得ているらしい。
記事には運営者の写真も載っていた。
顔を見た瞬間、あの夏に集落の道で会った老人だと分かった。
当時70歳くらいだったはずだから、今は80歳前後だろう。写真の中では少し痩せていたが、人の良さそうな笑い方は記憶にあるものと変わらなかった。
小学6年生だった私に「大きくなったな」と声をかけてきた人。そして、その日の深夜、石組みの外から「じいちゃんに頼まれて来た」と呼びかけてきた声と同じ声を持つ人だった。
記事によれば、民泊は評判もよく、高齢化の進む集落を少しでも元気にしたいという老人の思いに賛同する人も多いという。空き家の片づけや畑仕事を手伝う人まで現れ、少しずつ地域外との交流も増えているらしい。
中でも、老人は子どものいる家族を積極的に受け入れていた。
子どもには自然の中で思い切り遊んでほしいという理由から、家族連れについては利益がほとんど出ないような料金でも泊めているという。夏休みには、川遊びや虫捕り、昔ながらの外遊びを楽しみに、何組もの家族が訪れていた。
掲載されている写真の1枚には、改修された古い家の前で、老人と宿泊客の家族が並んでいた。若い夫婦の間には、小学生くらいの子どもが2人いて、老人を含め、みんな楽しそうに笑っていた。
私はしばらくその写真を見たあと、記事の続きを読んだ。
最後には、老人の言葉が紹介されていた。
「子どもの声がすると、村も生き返りますから」




