第七話 不完全な公理系
——魔法学院 魔法理論基礎講義 午前
気づいたのは、授業の三十七分目だった。
講師のヴァルム先生が黒板に書いたのは、魔法理論の基本公理の第四項だ。
「魔力の総量は術者の属性によって上限が決定され、外部からの補填は不可能である」
先生は何の疑いもなくそれを書いた。生徒たちは何の疑いもなくそれを写した。
私はペンを止めた。
——この公理、私がすでに破っている。
◆ ◆ ◆
ダークエネルギー変換式は、外部からエネルギーを魔力に変換する。
それはつまり、第四公理の「外部からの補填は不可能」を直接否定している。
問題は、私の術式が例外なのか、それとも第四公理そのものが間違っているのかだ。
——数学的に言えば:公理に矛盾する事例が一つでも存在すれば、その公理系は不完全か誤りだ。
ゲーデルの不完全性定理。
前世の記憶が静かに応答する。
ヴァルム先生が説明を続けていた。
生徒の一人が手を挙げ、補足の質問をしている。私はノートの隅に小さく書いた。
「第四公理:反証例存在。要検証。」
◆ ◆ ◆
——魔法学院 図書館 放課後
理論書を七冊、机に積んだ。
第四公理の出典を追う。最古の記述は二百三十年前、マルクス・ヴァンドルという魔法学者の論文だ。
論文を要約すると——実験により、いかなる術者も自身の魔力総量を超えた術式展開ができなかった。よって外部補填は不可能と結論した。
……実験の設計が間違っている。
マルクスが試したのは「既存の術式」だけだ。既存の術式はすべて、術者の内部魔力を前提に設計されている。外部エネルギーを取り込む経路が最初からない。だから補填できなかった。
正しい結論は「既存の術式では外部補填は不可能」だ。
「外部補填そのものが不可能」ではない。
二百三十年間、誰もその違いに気づかなかった。
もしくは——
気づいていたが、証明できなかった。
◆ ◆ ◆
ペンが動き始めた。
まず第四公理を数式で定式化する。
`E_max ≤ M_internal (M_internal:術者固有魔力量)`
次に、私の変換式が示す事実を定式化する。
`E_actual = M_internal + Φ(x,t) (Φ:ダークエネルギー変換項)`
`Φ(x,t) > 0 のとき、E_actual > M_internal`
つまり——
`∃ E_actual > E_max`
第四公理の否定。反証完了。
ただし、これだけでは不十分だ。
私の変換式が「再現可能」でなければ、単なる個人の異常値として処理される。
再現可能性を示すには、変換式の一般化が必要だ。
——ここからが本番だ。
◆ ◆ ◆
一時間後、窓の外が暗くなっていた。
ルナは消灯前の図書館に一人残り、十二ページ分の証明を書き終えていた。
核心は変換係数κの一般化だ。
κを術者の「無属性適性度」に依存する関数として定義すれば、理論上は無属性を持つ術者なら誰でも同じ術式を再現できる。
ただし——無属性の術者が、この世界に何人いるかは不明だ。
理論書を調べた限り、記録に残る無属性の術者は過去二百年で三人。
全員「魔力適性なし」として記録されており、術式の開発など試みていない。
つまり——
この証明を完成させたとして、再現できるのは現時点で私だけだ。
公理の否定は成立する。
しかし「一般理論」として提出するには、再現者が必要だ。
ペンを置いた。
◆ ◆ ◆
十二ページの証明を眺めた。
数学的には完璧だ。
第四公理の誤りを、実験的かつ理論的に示している。
この世界の魔法理論は二百三十年間、間違った公理の上に建っていたことになる。
発表すれば、魔法学の歴史が変わる。
でも——
発表すれば、私の術式の存在が知られる。
変換式の構造が知られる。
そこから核融合術式への道のりは、優秀な魔法学者なら半年もあれば辿り着く。
私はこれを、誰にも使わせない。
深呼吸を一つした。
ノートを閉じた。
——証明は完成した。
発表は、しない。
この証明が安全に世に出られる条件が揃った時まで、私が保管する。
それが、今日の結論だ。
◆ ◆ ◆
図書館を出ると、夜の空気が冷たかった。
星が出ていた。
この世界の星座は前世と配置が違う。
でも星が光る理由は同じだ。核融合。
質量がエネルギーに変わり続ける、静かな燃焼。
あの光も——私が封じた術式と、同じ原理で輝いている。
それを使わないと決めた。
星は遠くにあるから美しい。
手の届かない場所で燃え続けるから、誰も傷つけない。
ルナは空を見上げたまま、少しだけ立ち止まった。
——前世の「存在方程式」も、この世界の第四公理の誤りも、どちらも同じことを指している気がする。
世界は、まだ解かれていない。
——それでいい。
問いがある限り、数学者は前に進む。
寮への道を歩き始めた。夜風が、灰色の髪を揺らした。




