幕間 我らの血は意味があった
——正教国 特殊騎士団詰所 夜
イルマ・クロースは、中庭の端に立っていた。
黒地に銀糸の装束を纏って。
静かに。
ルナ教皇猊下が——少し離れたところでノートを開いているのが見えた。
「……終わった。」
心の中で言った。
「終わった——のか。」
◆ ◆ ◆
震えそうだった。
長として——震えてはいけない。
でも——
「ルナ教皇猊下と——話した。」
「直接——話した。」
「あの方の声を——聞いた。」
「あの方の灰色の目が——私を見た。」
手が——少し、動きそうになった。
止めた。
◆ ◆ ◆
「特殊騎士団は——どういう組織ですか。」
あの問いが——静かに浮かんだ。
「……あの方は——まず聞いた。」
感情ではなく——情報として。
「白と黒、ということですか。」
「……色から——系統を推測していた。」
一年間、気配を感知していたにもかかわらず——組織の構造を確認するまで断定しなかった。
「……それが——あの方の思考だ。」
◆ ◆ ◆
「謝罪は求めていません。」
その言葉が——静かに残っていた。
イルマは二度——謝罪した。
どちらも——
「謝罪は求めていません。」
「……あの方は——謝罪を求めない。」
「理由を聞く。」
「条件を出す。」
「受け入れるかどうかを——自分で決める。」
「感情で動かない。」
「……大神官様が言っていた通りだ。」
「『あの子は論理で動く』——そうおっしゃっていた。」
「今日——その意味が分かった。」
◆ ◆ ◆
「私の言動を——記録しないこと。」
あの条件が——静かに残っていた。
「……あの方は——記録されていることを、不快に思っているかもしれない。」
「でも——」
「保留、とおっしゃった。」
「……あの方は——我らの論理も、聞いた。」
「御言葉は全て大切なものだ、と伝えた。」
「あの方は——それを否定しなかった。」
「否定しなかった——ということは。」
「……理解した、ということかもしれない。」
「受け入れた、とは言わない。」
「でも——理解した。」
「……それで——十分だ。」
◆ ◆ ◆
「育ててもらいました。」
その言葉が——胸に刺さった。
良い意味で。
「大神官様を——母と呼んだ。」
「……大神官様が育てた子どもが——根源律を行使した。」
「大神官様が育てた子どもが——二百年間の膠着を破った。」
「大神官様が育てた子どもが——今日、私に話しかけた。」
「大神官様。」
心の中で呼んだ。
「あなたが血濡れた手で拾った赤子が——今日、私と話してくださいました。」
「……あなたは——正しかった。」
「あの夜——血濡れた手で——正しかった。」
◆ ◆ ◆
「同じ師の生徒、とおっしゃいましたか。」
あの言葉が——頭の中で繰り返された。
「はい。事実です。」
あの方は——事実と言った。
感情ではなく。
慰めでもなく。
論理として——事実と言った。
「……あの方にとっては——事実だ。」
「でも——私にとっては——」
イルマは少し間を置いた。
「……この一生で——最も尊い言葉だった。」
「父の国から逃げてきた。」
「何者でもなかった。」
「大神官様に——拾ってもらった。」
「特殊騎士団に入った。」
「血を流してきた。」
「二百年間待ち続けた者たちの——今代の団長になった。」
「その全ての果てに——」
「あの方が——同じ師の生徒と呼んでくださった。」
「……それが——事実だとしても。」
「この幸福は——論理では説明できない。」
◆ ◆ ◆
後ろで——カレンが少し動いた。
「団長。」
小さな声で言った。
「何ですか。」
「……震えていましたよ。」
「……見ていましたか。」
「はい。」
「……大丈夫です。」
「あなたは——どうでしたか。」
カレンが少し止まった。
「……膝が笑いそうでした。」
「……よく堪えました。」
「団長が堪えていたので——私も堪えました。」
◆ ◆ ◆
「光栄です。」
あの時——そう答えた。
あの方は——
「事実を言っただけです。」
と言った。
「……そうだ。事実だ。」
「でも——あの方は——上下ではなく呼んだ。」
「崇拝される者と崇拝する者ではなく。」
「ただ——同じ師の生徒として。」
「あの方は——そういう人だ。」
「評価を——論理で下す。」
「私が大神官様の教え子だという事実が——論理的に、同じ師の生徒という結論を導いた。」
「あの方にとっては——それだけのことだった。」
「でも——私にとっては——」
「……一生、忘れない。」
◆ ◆ ◆
夕暮れの光が——中庭に差していた。
灰色の髪が——光の中で動いた。
ノートを閉じた。
立ち上がった。
中庭を——歩き始めた。
イルマたちは——静かに、距離を保って動いた。
「……あの方が動けば——我らも動く。」
「あの方が止まれば——我らも止まる。」
◆ ◆ ◆
その夜——詰所に全員が集まった。
神官たちも控えていた。
副団長ガルデン・ハウスは——イルマの斜め後ろに立っていた。
「今日——ルナ教皇猊下と、直接お話しした。」
詰所が——息を飲んだ。
イルマは——全てを話した。
白と黒の系統のこと。
条件を出して護衛を受け入れてくださったこと。
記録を保留としてくださったこと。
そして——
「あの方は——私に言いました。」
「『私は大神官様に体術と短剣術を教えてもらいました。あなたも大神官様の生徒です。では——私とあなたは、同じ師の生徒ですね。』」
◆ ◆ ◆
詰所が——止まった。
神官のヴォルフが——椅子から立ち上がった。
「……ルナ教皇猊下が——団長に。」
「そうおっしゃったのですか。」
「はい。事実です、とおっしゃいました。」
ガルデンは——動けなかった。
「……同じ師の生徒。」
「大神官様の教え子を——上下ではなく。」
「ただ——同じ師の生徒として。」
「……四十年間——続けてきてよかった。」
静かに——心の中で言った。
◆ ◆ ◆
「あの方は——至尊な御方です。」
イルマが——静かに言った。
「根源律を行使できるから——ではありません。」
「灰色の髪と瞳を持つから——ではありません。」
「……あの方は——」
「謝罪を求めない。」
「理由を聞く。」
「条件を出す。」
「聞いてくださる。」
「受け入れてくださる。」
「……論理で——正しい場所に行き着く。」
「我らが信仰で行き着く場所と——同じ場所に。」
「その全てが——至尊なのです。」
◆ ◆ ◆
「あの方は——今この瞬間も、学院にいます。」
「我らは——その傍にいます。」
「あの方が動けば——動く。」
「あの方が止まれば——止まる。」
「あの方が——世界を敵にまわしても。」
「我らは——動く。」
「それが——我らの答えです。」
「信仰ではなく——確信だ。」
全員が——立ち上がった。
神官たちも——立ち上がった。
ガルデンも——立ち上がった。
◆ ◆ ◆
「ルナ教皇猊下万歳。」
イルマが言った。
全員が——続いた。
「「「ルナ教皇猊下万歳。」」」
神官たちも——続いた。
「「「ルナ教皇猊下万歳。」」」
ガルデンも——続いた。
「ルナ教皇猊下万歳。」
廊下で——声が聞こえた。
「「「ルナ教皇猊下万歳。」」」
夜の正教国に——静かに、広がっていった。




