第六話 観測者の沈黙
——魔法学院 中庭 夕刻
名前は、エルヴィン・アストラという。
検査の日に「欠陥品」と言った貴族の少年だ。
風属性、上位五パーセント以内の魔力量。
学院の廊下では常に数人の取り巻きを連れているが、今日は一人だった。
——先週、彼が北棟の方角へ一人で歩くのを見た。
取り巻きがいない時のエルヴィン・アストラは、人を避けるように動く。観察して分かった。
私がそれを把握していたのは、習慣だ。
周囲の人間の属性と魔力量を読むことは、もはや呼吸に近い。
意識してやることではない。
データが、勝手に入ってくる。
彼が北棟に向かうのを三回確認していた。
昼休みに。一人で。
——そして今日、私が中庭でノートを広げていた時、彼がこちらに近づいてきた。
中庭のベンチで術式の検証をしていた。
今日の実習で使った振動術式——周波数の最適値をもう少し絞れば、消費魔力をさらに半減できる計算だ。
〇・〇〇一単位まで落とせる。呼吸より軽い。
集中していた。
だから気づくのが、少し遅れた。
◆ ◆ ◆
指先に、ほんの小さな蒼白い炎が灯っていた。
術式の出力確認のために呼んだだけだ。
直径三センチ。一秒以下で消すつもりだった。
消す前に、視線を感じた。
振り向くと、中庭の入口にエルヴィン・アストラが立っていた。
距離、約九メートル。視線は私の右手に向いていた。
——見られた。
私は炎を消した。
表情を動かさずに、ノートへ視線を戻す。
沈黙が、七秒続いた。
「……何を、した。」
足音が近づいてくる。私はノートの続きを書きながら答えた。
「術式の出力確認。」
「無属性に、術式は使えない。」
「使えなければ今のは幻覚だ。」
——嘘はついていない。
◆ ◆ ◆
エルヴィンは私の正面に立った。背が高い。表情は険しいが、怒りではなく——困惑に近い。
「あの炎は何属性だ。火じゃない。光でもない。見たことがない色だった。」
「無属性の炎だ。」
「そんなものは存在しない。」
「私が今日の実習前まではそう思っていた。でも存在した。なぜ存在しないと言い切れる?」
沈黙。
エルヴィン・アストラ。
成績は上位。
魔法理論の授業では常に正答を出す。
思考は演繹的で、既知の体系の中で動く。
未知の事象を前にした時、最初に「存在しない」と結論する型の人間だ。
「理論書に記載がない。」彼はそう言った。
「ない、ということは否定の証拠にならない。観測されていないだけかもしれない。」
「……お前は、」
「観測者が初めて見た事象を『存在しない』と分類するのは、科学的な態度ではない。」
◆ ◆ ◆
エルヴィンは長い沈黙の後、ベンチの端に座った。
立ったまま話を続けるつもりではないらしい。私は少し意外に思いながら、ノートを閉じた。
「……もう一度、見せることはできるか。」
「断る。」
「なぜ。」
「まだ検証中だ。未完成のものを他人に見せる理由がない。」
これも嘘ではない。周波数の最適値はまだ定まっていない。
「検査の日、欠陥品と言った。」彼が言った。
謝罪ではなく、確認するような口調だった。
「言った。」
「今でも、そう思っている。」
「どちらでもいい。私の研究の妨げにならなければ、あなたの評価は私の計算に影響しない。」
沈黙が、また落ちた。今度は長かった。
◆ ◆ ◆
「一つだけ聞く。」エルヴィンが立ち上がりながら言った。「お前は、何をしようとしている。」
「この世界の魔法の、根本を知りたい。」
「なぜ。」
少し考えた。
「知りたいから、としか言えない。」
エルヴィンが何も言わずに背を向けた。中庭の出口へ歩きながら、一度だけ振り返った。
「今日見たことは、言わない。」
理由を聞こうとした。でも彼はもう歩き出していた。
理由は三つ考えられる。
一、話しても信じてもらえないと判断した。
二、情報を手元に置く方が有利と計算した。
三、単純な——
私は考えるのをやめた。
どれでもよかった。秘密は守られた。
それだけが、今日の計算の結論だ。
◆ ◆ ◆
ノートを開き直す。振動術式の周波数最適化の続き。
夕暮れの中庭に、私一人が残った。
蒼白い炎を、もう一度だけ呼んだ。
今度は誰もいない。直径三センチ。
静かに、手のひらの上で揺れている。
無属性の炎。
理論書に記載のない、観測例ゼロの現象。
存在する。私が観測した。それで十分だ。
——次は、周波数を〇・〇〇三ヘルツ下げてみる。
炎が、夕闇に溶けた。




