幕間 黒と灰色
——魔法学院 応接室 午後
ノア・ゼーレは、扉の前に立っていた。
特殊騎士団員として。
黒地に銀糸の装束を纏って。
応接室の中には——大神官セラフィアと、ルナ教皇猊下がいた。
「……これが——夢でなければいい。」
心の中で思った。
◆ ◆ ◆
「あなたに——今すぐ答えを出してほしくない。」
大神官様が言った。
「理由を教えてください。」
ルナ教皇猊下が答えた。
「急げば——あなたは逃げる。」
ノアは息を飲んだ。
「大神官様が——正確にご存じだ。」
「十年間、あなたを見てきました。」
「見ていたのですか。」
「はい。」
「……どこから。」
「ずっと——近くにいました。」
◆ ◆ ◆
ノアは扉の前で——微動だにしなかった。
任務だった。
護衛の任務だった。
でも——心が揺れていた。
「大神官様が。」
「ずっと——近くにいた。」
「あの方が孤児院にいた時から。
学院に来た時から。
根源律変換式を証明した時から。
クロイツと戦った時から。」
「ずっと——大神官様は見ていた。」
「我らも見ていた。」
「でも——大神官様は——もっと近くから。」
◆ ◆ ◆
「両方です。」
大神官様が言った。
「教皇候補として見ています。でも——それより先に。あなたを——大切にしたいと思っています。」
「それは——教皇候補として守りたいということですか。」
「違います。あなたが——あなただから、です。」
ノアは——手が震えそうになった。
「大神官様が——」
「教皇猊下に——そうおっしゃった。」
「我らも——同じだ。」
「あの方が——あの方だから。」
「教皇だからではなく。」
「……いや。」
「教皇だから、でもある。」
「でも——それだけではない。」
◆ ◆ ◆
「あなたを——大切にしたいと思っています。」
その言葉が——ノアの頭の中で繰り返された。
かつて、路地で盗みをしていた自分を——神官が拾った。
「お腹が空いていますか。」
その時と——同じ言葉の重さだった。
「大神官様は——ルナ教皇猊下を、拾ったのだ。」
「血濡れた手で——清らかな赤子を。」
「その赤子が今——灰色の目でこちらを見ている。」
「……美しい。」
ノアは心の中で呟いた。
「何もかもが——美しい。」
◆ ◆ ◆
「感謝は受け取りました。それだけです。」
以前リーゼから聞いた言葉を——ノアは思い出した。
「感謝は受け取った。でもそれだけ。」
「……御言葉だ。」
「我らの崇拝も——受け取ってくださる。でもそれだけでよい、とおっしゃっているのだ。」
「崇拝を強いない神の代行者。」
「それがどれほど——尊いことか。」
ノアの胸が熱くなった。
「初代教皇も——そうだったと聞いた。」
「民に崇拝を求めなかった。」
「ただ——救い、護り、癒した。」
「ルナ教皇猊下も——同じだ。」
◆ ◆ ◆
「……セラフィア大神官も、難しいです。」
ルナ教皇猊下が言った。
「そうですか。」
「はい。」
大神官様が静かに笑った。
ノアは——その笑い方を、初めて見た。
伝説の騎士が——子どもに笑いかける顔。
「……大神官様に——あんな笑い方ができるのか。」
ノアは胸が痛くなった。
良い意味で。
「我らには——見せてくださったことがない笑い方だ。」
「でも——ルナ教皇猊下には。」
「……あの方が——大神官様の心を解かす。」
「いと尊き御方だ。」
◆ ◆ ◆
「特殊騎士団です。」
大神官様が言った。
ノアは——静かに息を止めた。
「初めて聞く名前です。」
「そうですか。」
「どういう騎士団ですか。」
「今日は——別の話をしに来ました。」
「……分かりました。」
「……御言葉だ。」
ノアは心の中で呟いた。
「あの方が——特殊騎士団に関心をお示しになった。」
「今日は別の話、とおっしゃった——これは神託だ。」
「我らのことを——いずれお知りになる日が来る、というお示しだ。」
「その日まで——我らは準備をしなければならない。」
◆ ◆ ◆
「あなたの顔を——見たかったからです。」
大神官様が言った。
「……顔を。」
「イレーネと話した後の——あなたの顔を。」
「どうでしたか。」
「……思っていた通りでした。」
「どういう意味ですか。」
「疲れていませんでした。」
「……それが——思っていた通りですか。」
「はい。あなたは——強い子です。」
ノアは——目が熱くなった。
「強い子。」
「大神官様が——ルナ教皇猊下をそうおっしゃった。」
「……いと尊き御方が——強い子と呼ばれている。」
「それが——どれほど尊い場面か。」
◆ ◆ ◆
扉が閉まった。
廊下に出た。
大神官様が先を歩いた。
ノアは後に続いた。
「ノア。」
大神官様が——振り返らずに言った。
「……はい。」
「今日のことは——記録しなくていいです。」
ノアは少し止まった。
「……承知しました。」
「……でも——」
心の中で思った。
「記録する。」
「これは神託だ。」
「大神官様のお言葉は——大神官様個人のお願いだ。」
「でも——ルナ教皇猊下の御言葉は神託だ。」
「一言も——漏らしてはならない。」
◆ ◆ ◆
廊下の窓から——夕暮れが見えた。
学院の中庭に——学生たちが歩いていた。
その中に——灰色の髪が見えた。
ルナ教皇猊下だった。
一人で、ノートを持って歩いていた。
ノアは立ち止まった。
「大神官様。」
「何ですか。」
「あの方が——窓から見えます。」
大神官様が——少し立ち止まった。
窓の外を見た。
何も言わなかった。
ただ——見ていた。
◆ ◆ ◆
灰色の髪が——夕暮れの光の中を歩いていった。
「大神官様。」
ノアが静かに言った。
「何ですか。」
「ルナ教皇猊下万歳。」
大神官様が——少し間を置いた。
「……はい。」
静かに言った。
「そうですね。」
夕暮れの光が、廊下に差し込んでいた。
伝説の騎士が——窓の外を、静かに見ていた。
◆ ◆ ◆
その夜——ノアはイルマ・クロースに報告した。
全ての言葉を——一言も漏らさずに。
「大神官様は——記録しなくていいとおっしゃいました。」
ノアが言った。
「でも——報告しました。」
「なぜですか。」
「ルナ教皇猊下が——特殊騎士団について聞かれました。」
「……聞かれた。」
「『特殊騎士団とはどういう騎士団ですか』とおっしゃいました。黒地に銀糸に——関心を示されました。」
「それは——」
「神託です。」
イルマが少し間を置いた。
「大神官様のお願いより——神託が上ですか。」
「はい。」
「……大神官様に怒られますよ。」
「承知しています。」
「でも——報告した。」
「はい。ルナ教皇猊下の御言葉は——一言も漏らしてはなりません。大神官様のお願いは——大神官様個人のお願いです。でも——あの方の御言葉は神託です。いと尊き言葉です。一言も——失うわけにはいきません。」
◆ ◆ ◆
イルマが少し笑った。
「……大神官様に似てきましたね。」
「どういう意味ですか。」
「自分の信じることのために——規則を曲げる。」
ノアが少し止まった。
「……規則を曲げたつもりはありません。」
「そうですか。」
「大神官様のお言葉より——ルナ教皇猊下の神託が上です。それは——特殊騎士団の原則です。」
「そうですね。よく報告しました。」
「大神官様には——私から話します。」
「……怒られますか。」
「怒られないと思います。大神官様も——分かっているからです。」
「何を。」
「あなたが報告することを——最初から、分かっていたと思います。」
◆ ◆ ◆
ノアは少し止まった。
「……それでも——記録しなくていいとおっしゃったのですか。」
「はい。おそらく——大神官様は、ルナ教皇猊下との時間を、我らの記録に残したくなかったのかもしれません。」
「……どういう意味ですか。」
「あの方との時間は——任務ではないからです。大神官様にとって。」
ノアは黙った。
「……大神官様にとって——あの方は。」
「育てた子どもです。」
「……はい。」
「でも——我らにとっては。」
「神の代行者です。」
「……同じ人間を——違う目で見ている。」
「そうです。」
イルマが静かに言った。
「だから——大神官様は一人で抑えている。」
「……大神官様が一番——つらいのかもしれませんね。」
「そうかもしれません。」
夜の詰所に——静寂が広がった。
ノアは頭を下げた。
「ルナ教皇猊下万歳。」
イルマが静かに答えた。
「ルナ教皇猊下万歳。」




